短編

□迷い子の愛し方
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日曜日、遠征先の大阪から新幹線に乗る前、三井は水戸にメールを打った。「六時には帰る」と。すると珍しく返信があり、画面上に書かれている文字に驚いた。「駅前で待ってる」と書いてあったからだ。今まで迎えに来るなんて一度もなかった。どうしたどうした、三井はそうは思ったものの、その文字を何度も見ては酷く上機嫌になった。
土曜日の夜は、大阪の宿泊先のホテルから、水戸に電話を掛けた。本当に水戸は、ほぼ一日中眠っていたらしい。よく寝れた、そう言った。電話口の声はいつも通り淡々としてはいたけれど、何かが抜け落ちたようにも聞こえた。とにかく水戸は、眠かった、そう言っていたのだった。そして、まだ寝れそう、とも。三井はそれに笑いながら、日曜日は唐揚げが食いたいと言った。途中ライターの音が聞こえたから、煙草を吸っているのだと思った。あのベランダで、あの仕草で、水戸が煙草を吸う時の表情は少しだけ遠くを見る。少しだけ気怠そうにベランダの柵に肘を付き、口元に指を近付ける瞬間は少しだけ目を細める。三井はそれを想像した。あの顔好き、三井はそう思った。唐揚げとポテトサラダ他は任せる、三井はさも当然のように夕食の献立をリクエストした。それに対して水戸は、はいはい、と特に口調も変えずに言ったのだった。その後少しの間話して、電話を切った。
その日の夜、三井は幸せだった。これ以上の幸福などこの先ないと心底思った。首に未だに残る痕に指で触れ、沸々と湧き上がる感情に震えた。形にもならない目先の恋愛感情と目に見える痕が一つになったような、ふわふわとして覚束ない感覚なのに、それはこの上ない幸せだった。この痕が消えなければ良いのに、そう思う自分は終わっている。それでも、二人で終われるならそれで良かった。オレもよく寝れそう、三井はそう思いながらホテルのベッドで目を閉じた。
新幹線が新横浜に到着し、そこからJRに乗り換えた。この辺りから選手達もばらばらになる。車の人間も居れば電車の人間も居る。三井は、お疲れさん明日は午後二時から、と声を掛け、JRに乗った。水戸に会うのがとにかく楽しみで仕方なかった。早く会いたいと思った。そこから最寄駅までの一時間弱が酷く長く感じた。乗り換えも一度あり、早く進め!と一定の速さで進むJRに苛ついた。
駅に着くと、日曜日の夕方だからか構内は空いていた。大阪土産が入った紙袋を左手に持ち、右手でスーツケースを引っ張った。三井は大股で、かつ早足で歩いた。外に出ると、夕暮れが目の前にある。赤、オレンジ、それから真っ青、空の下から迫る綺麗なグラデーションに、思わず目を瞠る。一つ息を吐いてから正面を向き直すと、斜め前方に見知った男がガードレールに凭れていた。片足を引っ掛け、こちらにはまだ気付いていなくて、ちょうど煙草を吸っていた。本当に居た、三井はそう思った。彼が迎えに来るなど、今日を逃せば二度とないかもしれない。だから三井は、少しの間自分を待つ水戸を眺めようとその場に止まる。水戸は駅構内を見てはいなかった。そこから目を逸らし、まるでその場から浮いたように遠くを見ている水戸は、妙に目を引いた。あの男前はオレを好きなんだ、それを考えると三井は、足元が騒ついて覚束ない気持ちになった。要は浮かれていた。あれはオレのもんだ、そう思うと堪らなくなった。
時折、すれ違う女性が水戸を見た。もしかしたら路上で煙草を吸っていたからかもしれない。けれども三井は、違うと思った。その女性と一緒に歩いている連れの女性に、何か耳打ちしてもう一度振り返ったからだ。残念でした、三井は鼻を鳴らし一人勝ち誇ったような気分になった。三井はもう、彼を誰の目にも晒したくないと思っていた。部屋に閉じ込めておいて、そこにずっと居ればいいとさえ思っていた。それほど三井は、水戸を好きだった。もう無理、そう思ったからようやく、三井は水戸に近付いた。一歩、二歩、三歩、三井は身長が高いからか歩幅も大きい。スニーカーとコンクリートの擦れる音が響き、段々と水戸との距離が近付く。気付け気付け早く気付け、そう念じていると、水戸がようやく三井を見た。その距離凡そ一メートル。水戸は携帯灰皿に煙草を押し付け、顔を上げると柔く笑った。
「おかえり」
こんな顔初めて見た。三井はそう思った。喉の奥が詰まり、声がなかなか出ない。出会ってからもう十年と少し。それなのにまだ、三井が見たことのない顔があることを、三井自身が驚いた。水戸自身が意識しているかは知らないけれど、三井が一瞬言葉を失うほど、彼が三井を酷く慈しんでいるように見えたのだ。三井は唾を飲み込んだ。そして軽く咳払いを一つする。変な声が出そうだ、そう思ったからだった。
「ただいま」
「荷物持とうか?」
「は?何で!」
今度はぎょっとした。まさかそんな言葉が彼から出て来るとは思いもよらなかった。迎えに来るというだけでも驚いたのに、これは何かの罰ゲームか何かかと思うほどだ。水戸はといえば、三井の表情が可笑しかったのか笑っている。
「何お前、過保護過ぎてこえーよ」
「はは、すみません」
そう言うと水戸は、三井から紙袋を取った。するりと抜ける感触に、腕の力が抜ける。水戸は三井に目で施し、背中を向けた。駐車場に向かうのだろうと、単純に思う。それに着いて歩き、水戸の車まで着いた。鍵を開けたのを見てから、いつも通り助手席に乗った。聞き慣れた筈のエンジンの音が、今日は酷く心地いい。帰って来たんだな、とただ思う。
「どうだった?」
「ああ、一勝一敗。まずまずってとこだな」
「そう」
水戸と話していて気が抜けたのか、首元がやけに窮屈だと急に感じた。そこに手をやると、ネックウォーマーがあった。そうだった、とそれに手をやり、ずるずると引っ張って抜く。一つ息を吐いて、首をぐるりと回した。一瞬、水戸の視線を感じた。それはすぐになくなり、彼は顔を顰める。気にしてる、三井はそう思った。けれども彼は何も言わず、ただ黙って運転していた。嬉しかったのに、そうは思ったのだけれど、三井も口には出さなかった。
「大阪の地酒って美味いのかな」
「さあ、楽しみにしてるよ」
「とりあえずランキング一位のやつ選んだから外してはねーだろ」
「甘くなけりゃね」
あんたも飲んでみれば?と水戸は揶揄うように続ける。三井は一つ舌打ちをして、シートに体を預けた。それからは大阪の話を少しして、水戸が今日一日何をしていたかを聞いた。朝はゆっくり寝て、起きてから掃除洗濯、そして夕飯の支度だそうだ。主婦か!と言うと、好き好んでやってる訳じゃねえよ、と静かに返された。ごもっとも、と三井は少しの間押し黙る。それからまた、別の雑談をした。自宅マンションにはすぐに着いた。駅から車ではほんの数分だからだ。自宅に入ると、唐揚げの良い香りが漂っていた。三井は、帰って来た、と酷く安堵した。すぐに冷蔵庫に向かい、ビールを二本取り出した。二人でほぼ同時に開け、どちらともなく缶を合わせた。ダイニングテーブルには唐揚げにポテトサラダに、つまみになるような物が何品か並んでいて、三井はすぐにテーブルに着く。先食べといて、水戸はそう言うと、ベランダに向かった。
食事も終わり、風呂に入った。風呂も溜められていて、三井は一番風呂に入る。すんげえ幸せ、ただそう思った。それから風呂上がりにビールを飲み、ソファに座った。次は水戸が入るようで、彼が浴室に向かう姿を、横目で追いながら、またビールを飲み込んだ。背中には、革張りのソファの感触を服越しに感じる。気を抜くとそのままずぶずぶ埋もれていくような、怠惰なその感覚がまた心地良くて、金曜日の夜もこの場所に座り頭の中が錯綜していたことなど、過去の話になってしまっていたことに気付いた。終わらないとすら感じた夜明けまでの時間が。それでも、いくら長く感じようとも平等に過ぎる時間は、きちんと朝を迎えた。一歩間違えれば終わっていたのだ。三井は一瞬ぞっとした。そして喉元に手をやり、風呂上がりに鏡で見た首の痕を思い出した。それは薄くなって消えかけていて、悲嘆する自分が居た。無くならなければいい、そう思っていたからだ。水戸は車の中で、三井の首を一瞬だけ見た。すぐに逸らされたその目は、酷く困惑しているように見えた。いや、困惑というより物憂いているように感じた。三井はその時思ったのだ。嬉しかったと。ただ思ったのだった。この痕が無くならなければ、水戸が責任を感じていつまでも側に居ると、三井はそんなことまで考えていた。
終わってる、三井はまたそう思った。オレも大概終わってる、と思ったのだった。ローテーブルには水戸が準備していた大阪府土産の地酒と、グラスが一つあった。三井はビールをテーブルに置き、そのグラスに日本酒を少しだけ注ぐ。一口飲むと、強いアルコールが口内に充満した。こんなんよく飲めるな、そう思った。特に不味い訳ではないけれど、美味くもない。もう一口飲んでもそれは変わらない。
「美味い?」

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