短編

□沈殿する身体
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きっかけは何だったっけ?
今日は互いの休日が重なり、水戸はいつもの如く早起きをして掃除洗濯をしていたのだけれど、三井はその音を聞きながらも体を起こすことは叶わなかった。もう少しあと五分、それが、あと十分、になり、うとうとと微睡んでいた所で寝室のドアが開き、水戸から声を掛けられた。昼メシどうする?その言葉にようやく、三井は体を起こしたのだった。のそりとベッドから抜け出し、何の気なしに窓を眺めるも、カーテンが閉まっていて外がどういう状況なのかが分からない。ベッドから降り、窓まで歩いた。フローリングの冷たさが、足の裏に心地良い。今は夏だ。寝ている間に暑くてエアコンを点けたのだろう、空調が整い過ぎていて、季節感がまるでなかった。
カーテンを開けると顔を顰めたくなるほどの晴天だった。太陽の光が窓に反射して目を細める。ベランダでは洗濯物が緩慢に揺れていて、すぐ乾きそうだと、三井は自分が干した訳でもないのに酷く自慢したくなった。その横では水戸が、ベランダの柵に凭れて一服している。この部屋は、リビングからでも寝室からでもベランダに出られる間取りだった。そこを三井は、最初から気に入っていた。とにかくベランダが広い。水戸は昔から、よくベランダで煙草を吸っていた。以前水戸が住んでいたアパートはベランダが狭く、例の市営アパートより不便だと三井は思っていた。あの市営アパートもベランダが広かったからだ。海が見えればもっと良かったのだけれど、道路の向こう側は海の方角だった。だから三井は、この部屋が良かった。もっとも、決めた理由はそれだけではないけれど。
寝室の窓を開け、ベランダに出た。サンダルが熱くなっている。太陽に焼けたのだと、単純に思った。陽はじりじりと照っていた。空調の効いた室内とは雲泥の差で、すぐに汗が吹き出そうだった。真夏の太陽は強過ぎる。それを三井は嫌いではなかったけれど、出掛けるのも今日は億劫だと何となく思った。
水戸はベランダ以外では煙草を吸わなくなった。別に構わないのに、三井は何度か言ってはみたけれど、水戸は首を縦に振ることはなかった。理由は知らない。
サンダルとコンクリートの擦れる音が耳に入った。あと、今更気付いた蝉の声。うるせーなぁ、と他人事のように思う。水戸は三井を見なかった。けれども、近付いているのは分かっていると思う。
「おはよう」
「こんにちは、だろ。もう昼前だよ」
「はいはい、こんにちは。掃除洗濯ご苦労様です」
三井が棒読みで言うと、水戸はようやく三井を見て笑った。こういう、柔く笑う水戸を見ると、時々三井は高校時代を思い出す。初めの頃は、こんな表情は決して見せなかった。どこか警戒して距離を置いて、常に内側に牙を秘めていた気がする。
「昼メシどうすんの?どっか食いに行く?」
「うーん、行かない」
「じゃあどうする?」
「オムライス食いたい」
「作れってこと?」
「うん、水戸のオムライス食いたい」
「働かすね、ほんとに」
そう言った水戸は呆れながらも特に怪訝そうでもなく、三井はまた高校時代を思い出した。昔は、あの部屋のインターホンを押すことさえ躊躇われて、部屋に居ることすら緊張感を覚えていた。どこか探り合う空気でもあれば、逆に予防線を張られているようでもあった。付かず離れず一定の距離を保ちながら、体だけは繋げていた。それを思えば今のこれは何だろう。三井には、揺るぎない自信があったのだ。水戸が好きなのは間違いなく自分以外の何者でもないのだという。十年経った今、確実に関係は変化していた。
水戸がベランダから室内に入った後を着いて、三井もリビングに入った。そこも空調は整っていて思わず唸るように、はあ、と声を出す。顔洗って来なよ、そう言われた三井は、洗面所へ向かった。オムライス、そう思いながら顔を洗っていると、妙に腹が減って来た。手早く顔を洗い、またリビングに戻った。コーヒーは自分で入れようとキッチンに立つと、水戸は既にオムライスの準備をしていた。特に会話もないまま、ケトルに水を入れて、スイッチを押す。湯が沸くまでの間に烏龍茶を飲もうと冷蔵庫を開ける。五百ミリのペットボトルに三本ほど作り置きされている中の一本を取り出し、グラスに入れて一気に飲み干した。夏は喉が渇く。喉の鳴る音が、やけに側に感じた。三井は元々、麦茶が好きだった。けれど水戸と居る中で、自然と烏龍茶ばかり飲むようになった。少しづつ侵食されていく箇所もあれば、決して重ならない場所もあった。三井はそれが、酷く心地良かった。
三井はそのまま、キッチンに立っていた。コーヒーは水戸にも入れ、カウンターに置いておいた。ありがとう、と小さく言われた言葉に、うん、と返しただけだった。水戸は決して、三井が側に立っていることに文句を言うことはなく、ただ黙々と作業をしていた。その内、ベーコンの焼ける香りが漂ってくる。それから玉ねぎを炒める匂いとケチャップと。卵の焼ける匂いも。そうそう、これが水戸のオムライス。三井は一人頷きながら、水戸の手際の良さをただ眺める。そうこうしているうちに出来上がり、突っ立ってるなら持ってけよ、とさらりと言われ、二つ並べられたオムライスをテーブルに運んだ。美味そう、これこれ。
椅子に座り、手を合わせた。いただきます、と言うと、水戸は、どうぞ、と返した。そして水戸も、いただきます、と手を合わせる。三井は一口分を半熟卵と絡めてスプーンで掬い、口の中に放り込んだ。これなんだよ、オレが出せない味。三井は一人、納得したように頷く。
「オレさぁ、一人で作って一人で食ったことがあったんだよね」
「何を?」
「オムライス」
ふーん、水戸は特に興味無さそうに言って、スプーンでオムライスを掬って口に入れた。それを咀嚼して飲み込む所を眺めながら、変な感じ、と三井はまた思う。こいつと一緒に暮らしてんだもんなぁ、と。
「一人で作って一人で食うなんてよくあることだろ?」
「いや、まあそうなんだけど。その時お前居なくて、味が何か違うんだよ。ああ忘れてたって粉末出汁のこと思い出して、会ってない時期だったから無性に会いたくなって」
「へえ」
「お前はその時、どんな彼女とよろしくやってたかは知らねーけど」
揶揄するように言うと、水戸は一つ舌打ちをした。
「またその話?めんどくせえなぁ、もう」
めんどくせえと言いつつ、水戸の表情は少しだけばつが悪そうだった。それを見て、三井は笑う。
「今日はどっか行くの?」
「行こうかなって思ってたけどすげー暑そう」
やめる、三井は呟くように言って、またオムライスを食べ始めた。
「ごちそうさま、お先。ゆっくり食べなよ」
先に食べ終えた水戸は、煙草を吸うのかベランダに足を進めた。それを見遣り、三井はまたオムライスにスプーンを差し込む。この味この味、それを繰り返しながら咀嚼して飲み込んだ。しばらくして水戸がベランダから戻った。そのまま洗面所へ行ったから、歯を磨くのだろうと、何気なく思う。
そこに居るのが当たり前、三井は水戸の生活風景を眺めながら、また浸るように考えた。ごちそうさま、手を合わせて言った後、三井も歯を磨こうと洗面所へ向かった。
歯も磨いてすっきりした所で、何すっかなぁ、と腕を伸ばした。それを下ろした所で、水戸に手首を掴まれる。
「え、何?」
「ちょっと来て」
施されて掴まれたまま入った場所は寝室だった。エアコンを切り忘れていたそこは、狭いからか酷く冷えていた。温度設定下げ過ぎたかな、そんな的外れなことを考えていると、水戸が声を出す。
「寝て」
「さっき起きたばっかなんだけど」
なんのことか分からず返答すると、水戸は少し目を伏せて短く溜息を吐いた。それから三井の体を押す。ぐらついて尻餅をつくようにベッドに腰を下ろす形になった。水戸を見上げたと同時に、三井の唇に水戸の薄い唇が触れた。寝てってそういうこと、納得したのとまた同時に、今度はマットレスに体が沈んだ。
きっかけは何だったんだろう。今考えてもよく分からない。水戸は三井の体を指や舌でゆっくりなぞり、時々噛んで、捩らせた。水戸は一緒に暮らすようになってから、抱き方も変わったと三井は思う。乱暴にすることがなくなった。引き千切るように噛むこともなくなった。昔から三井は決して、それを嫌がったことはなかった。かと言って今の抱き方に満足出来ないこともなかった。要するに三井は、水戸の指や唇や舌なら、何でも良かったのだ。熱に浮かされる水戸の目が見られるならそれで良かった。自分を好きだと伝われば何でも構わなかった。
水戸は三井の体中なぞった。指先で掌で触れて、唇と舌で食った。その快感で三井は二度吐き出した。挿入されたら抱き締められて、その腕の心地良さと抉り方に喉が掠れるほど喘いだ。しょっちゅうキスをして、互いに首筋を噛んで、最初の優しかった触れ方など忘れ、とにかく欲した。三井は未だに水戸が欲しくて欲しくて堪らなかった。
そんなことを時間を置いて二度ほどした後、三井は一度うとうとした。眠ったのは時間にすればせいぜい二十分かそこらだったと思う。目を開けると、水戸の後頭部と背中が見えた。ベッドに座り、何かを飲んでいる。多分ペットボトルだ。喉仏が見たかった。でも見れる位置に三井はいなかった。そこにある無駄のない背中は、あの頃の少年の姿を全て削ぎ落としたただの男だった。あの骨に触れたい、三井は思って手を伸ばした。指先が肩甲骨に触れた瞬間、水戸は振り返った。
「起きた?」
「うん」
思った以上に掠れていた自分の声に驚いたけれど、もうどうでも良かった。
「飲む?」
「飲ませろ」
そうすれば、喉仏が見える。水戸はペットボトルを傾け、喉を反らした。含んだ水分をそのまま、水戸は三井に口付ける。不味かった。そんなことは最初から分かっていた。でも喉仏が見たかったから。キスをしたかったから。
「三井さん」
「ん?」
「もう一回したい」
「やだって言ったら?」
嘘だけど。どうせバレてる、何となくそう思った。すると案の定、水戸は笑う。
「あんたの拒否ほどアテになんねえもんはない」
黙っているとまた、水戸は三井に口付ける。そうされると三井は、応えざるを得なかった。水戸の舌はなぞるからだ。唇も歯も舌も、例えば三井が本当に拒絶したくとも、その舌できっと降参してしまう。
「本当に嫌ならやめるよ」
答える代わりに水戸の首に腕を巻き付けた。もう決めていた。今日は一日、この体を放り投げると。堕ちて沈むように、三井は自分の体を水戸に委ねた。
好きだと思った。全力でそう思った。窓の外は明るく、入道雲が浮かんで太陽は照り付け、夏真っ盛りの中、不健康に部屋にこもる。それなのにもかかわらず、今のこの時間が今この瞬間に一番有意義だと三井は思う。
「水戸」
「ん?」
「今すぐ好きだって言え」
「強制されて言うもんなの、それ」
はは、と笑う水戸を見て、三井はまた愛しいと思った。
「あんただけだよ」
「何が?」
「こうして、何度もしたいと思うのは」
首筋を舐めて顔を埋める水戸を抱き締めて、三井は自分から、好きだと小さく呟いた。





終わり。



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