短編

□美しき偏愛
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しばらくその場で寝転がり、起き上がった。一度寝室に戻り、着替えを持って洗面所へ行った。三井は自分の顔と首を見る。首にくっきりと残る赤い痕を見て、三井はどこか他人事のように感じた。そのまま服を脱いでシャワーを浴びる。今日はもう、湯を溜めることすら面倒だった。ざっとシャワーを浴び、体を拭いて着替えた。また鏡を見て、痕を確認する。まだ残ってる。当たり前のことなのに、三井は何度も確認した。明日はネックウォーマーか何かつければいいや、と軽く考えた。隠し方などどうでも良いと、今は思う。
リビングに戻り、室内を見渡した。またそこは閑散としているように見えた。水戸が居ないと、ここは酷く広い。それを確認した瞬間、三井は唖然とした。直後、足が竦んだ。水戸が居ない。どこを見渡しても居ないのだ。水戸が居ないのに、それなのにここには、二人で生活する為に購入した家具で溢れていた。水戸がこのまま消えたら、三井は六年前を思い出した。たった一言で消えた彼を思い出した。あれに対してなぜ何も言わなかったのか、結局それは聞けずにいたままだった。
分かっていた。水戸が自分を好きだということは。あの目を向ける相手は自分しか居ないことも、彼の冷えた指が暴力的に触れることも、逆に優しく触れることも。彼は三井に好きだと言った。何度も言った。箱根に行った時は「会わない間もずっと好きだった」と、水戸は珍しく本音を喋った。あいつは人を傷付ける嘘は吐かない、それは再会してから十分過ぎるほど知っていた。三井はここに越してきてからの水戸を思い出した。優しかった。いつもそうだった。朝起きれば朝食があって、水戸が仕事から早く帰っていれば夕食があった。掃除洗濯、それだけじゃない。
水戸はいつも、オレの側に居た。
もう一度首に触れ、あの指の感触を思い出した。他人事なんかじゃない。あの指が消える。耐え切れず三井は、リビングの灯りを消し、寝室へ入った。明日の為にパッキングをしなければならないからだった。遠征用のスーツケースに必要な物を詰め込んだ。もう慣れたもので、さして時間は掛からなかった。遠征に行く日の朝は、水戸は三井の好きな朝食を作ってくれていた。それが明日は、無いのかもしれない。三井はずっと、水戸を追い掛けているつもりだった。十八の頃からずっと、水戸を追い掛けていた。追い付いたと掴んでもすぐに、背中を向けて彼は去った。自分の一言で彼は去るのだと、三井はどこかで思っていた。自分だけが水戸を思っているのだと、心の隅の方にあったのかもしれない。
ならいっそ一緒に死んでくれよ。
三井は水戸の本心を、初めて知った気がした。
三井はベッドの中に入った。このベッドに入る時、水戸はいつも三井に背を向けていた。横向きで縮こまり、決して三井の方は向かなかった。それは昔から変わらなかった。そして眠りが浅かった。朝は大概三井より先に起きる。仕事関係で三井の方が早い時も勿論ある。それでも水戸の方が早いことが多い。その上彼は「眠い」という単語を使わない。使っているのかもしれない。ただ三井は、聞いたことがない。水戸が安心して眠れているのかいないのか、三井は何も知らない。それでも三井は、水戸が背を向けて寝ていても三井は、隣に水戸が居れば良かった。そこに居れば良かった。でも今日は居ない。このまま水戸が消えたら、そればかりを考え、長い夜を過ごした。結局眠れたのかどうかも分からず、うとうとしていた頃、リビングで音がした。水戸だ、そう思った。窓の開く音がしたから、ベランダへ行くのだと分かった。今は何時だろうか、枕元に置いてある携帯を手に取り時間を見ると、午前五時を回った所だった。起きても良かった。けれども三井は、まだ水戸の音を聞いていたかった。彼が今ここに居るという証明の為だった。しばらくするとまた窓が開く音がする。リビングへ戻ったのだと思った。それからドアの開く音がして、微かに水音が漏れる。顔を洗っているのだろう、少ししてそれが消え、またドアが開く音がした。耳を凝らすと、冷蔵庫の開く音や、キッチンで作業をする音がする。水戸が朝食を作っている。三井はそれを確信した。彼は三井が遠征に行く日の朝は、朝食を作ってくれる。水戸がここに居る、三井はそれを実感した。まだだ、そう思った。まだ終わっていない、三井はベッドから起き上がり、寝室を出てリビングへ続くドアを開けた。
リビングへ出ると、水戸と目が合った。少しの間彼を見詰め、その顔を確認した。ここに居ることに安堵し、三井は顔を洗いに洗面所へ向かった。ざっと顔を洗い、髪を整えた。それからまたリビングへ戻り、水戸を見る。
「メシ、食う?」
「うん」
普通に喋る彼に、三井はただ安心していた。水戸が帰る場所はここだったと、三井はそれが酷く嬉しかった。朝食が置いてあるダイニングテーブルに座ると、水戸が茶碗に白飯を装い、三井の前に置いた。
「どこ行ってたの?」
躊躇なく、三井は聞いていた。
「どこって、車でぶらついてた」
「帰って来ねえかと思った」
「は?」
水戸がもう帰って来ないと、三井は本気で考えていた。今までの生活を思い出し、水戸が居なくなることが怖いと、ただ側に居て欲しいと切に願っていた。
「俺は……」
「ん?」
水戸は三井から目を逸らした。窓の外を眺め、眉間に皺を寄せていた。それに釣られ三井も窓の外を眺めると、あ、と思った。明るくなる、そう思った。夜が明ける、今それに気付いた。その夜明けを見て、高校の卒業式の朝を思い出した。三井は思った。好きだと、水戸が好きだと。ただ水戸洋平が好きで、それだけしかないのだと、三井は夜明けの太陽を見てそう思った。
「俺はあんたを好きなだけだ」
その言葉に三井は目線を水戸に戻した。今何て?聞きたかった。けれども、聞くことが出来なかった。
「どうせ一生一緒になんて居てくれないんだろ?」
ならいっそ一緒に死んでくれよ。水戸は最後、そう言った。小さく、それは酷く小さな声だった。三井は水戸を見詰めていた。彼はその目から涙を零し、三井に懇願していた。ああ分かった。三井はようやく結論が出た。ずっと追い掛けていると思っていた。背中を向ける水戸を自分はいつまでも追い掛けているのだと、何かの度にほんの小さな塊として片隅にあった。やっと水戸を捕まえた。三井はそう確信した瞬間、喉の奥から何かが湧き上がったように感じた。
本気で死ぬ気がないのは、そうじゃない。そうじゃなかった。やっと分かった。死ねないのは、水戸と生きたいからだ。
三井は椅子から立ち上がり、水戸の体を抱き締めた。捕まえた、そう言って自分の体の中に収めた時、水戸が泣いた理由が分かった気がした。泣きたくなるってこういうことだ。三井は水戸の体を強く強く抱き締めた。


「泣かずに良い子で待ってろよ?」
「あーうるせ。早く行け、遅れるよ」
玄関先で三井を見送る水戸は、酷くばつが悪そうに頭を掻いた。それが可笑しくて、三井は笑った。
「お前どうすんの、今日」
「寝る。眠くてしょうがねえ」
眠い、その言葉を初めて聞き、三井は驚いた。というより唖然とした。それから少しだけ俯いて、小さく笑う。
「何だよ、どうした?」
「いや別に。じゃあな、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
水戸は右手を挙げ、薄く笑う。それを見て、三井も玄関を開けた。鍵の掛かる音を聞いてから、三井は歩き出した。この時期の朝は、随分と冷えるようになった。風がコンクリートの匂いになるまでもう少し、三井はそう思いながら歩き、そして、帰ってから秋の終わりの匂いはどんなものか聞こうと、そう思った。マンションを出ると、太陽が先ほどより若干高い位置にある。それを見て三井は、水戸と自分の関係を決して美しいものではないと悟る。どこかどろどろしていて透き通ってもいない。照り付けて光ってもいない。暗くて黒くて、美しさなど皆無だと思う。
けれどもこの朝日は、水戸と二度ほど一緒に見たこの朝日だけは心底美しいと、三井は空を仰いだ。



終わり
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