短編

□美しき偏愛
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電車に揺られながら、三井は凡そ自分が冷静だと気付いた。さてどうしたもんか、そう思っていた。あの光景を見た直後は、怒りというよりも衝撃が体中を走ったように思う。要は、ショックだった。見ない振りをしていた現実を突き付けられた気がした。
大楠に誘われ、金曜日の夜に指定された店へ向かった。元々遅れるとは言ってあったのだけれども、それでもと思い多少急いだ。そこには水戸も居るからだ。外で飲むなど、互いの友人を交えない限り無いに等しい。彼からも連絡はあった。自分も少し遅れると、メールにはそう書いてあった。三井もそれに対し、店に向かう前に連絡をしておいた。川崎駅から藤沢駅まで凡そ三十分程度、そこから目的地まで約十分、同じような時間になるかもしれない。三井はそう思った。が、ここからが問題だった。入店し、店員に予約者だろう大楠の名前を出した。こちらどうぞ、と施す店員に着いて歩くと、水戸の横顔が見えた。すぐに店員を制し、どうも、と一言言った。店員は会釈し、踵を返す。三井はというと、水戸に近付こうとした。けれどもそれは、簡単に憚られた。水戸と大楠、それから見知らぬ女性が居たからだった。
あ、と思った。そして、ああそうか、と思ったのだった。水戸が「女性」に対して取る態度を、三井は初めて目の当たりにした気がした。彼が初めて女と呼ばれる物と話しているのを間近で見たのは、大学生の頃だった。当時は、初対面のそれに対しそこまで優しく出来るものなのかと怒りを剥き出しにした。あれなら良かった。そこには優しさしかなかったからだ。でもそうじゃない。あれじゃない。あれは優しさだけではなかった。あの短い言葉の中には、思い出や季節や匂いが全て詰まっていた。そしてそれが、水戸の表情から滲み出ていた。三井は唖然とした。そして気付いた。これが本来の形なのかもしれない、と。抗えない現実を、目を逸らしていた事実を、身体中に叩き付けられた気がしたのだった。
三井は水戸の姿を目に焼き付け、忘れないようにじっと見据えていた。水戸が振り向いた。彼は目を見開いていた。もう分かった。ただそう思った三井は、その場を去った。そして今、現在に至る。電車に揺られながら、また考えた。どうしたもんか、と。水戸を手放す気はなかった。誰にも渡したくないと思っていた。ただ、水戸はどうなのだろうか。もしかしたら、と思いながらも、三井は酷く冷静だった。頭の中は言葉にならない何かが来往していたけれど、かと言って沸騰していた訳ではなかった。水戸が帰宅したらどう話を切り出せば良いか、辿り着いたのはそこだった。要は、結論は出ていない。
最寄駅に着き、マンションまで歩いた。頬に当たる冷たい風を、今日はやけに鮮明に感じた。水戸はよく、季節ごとに風の匂いを例える。冬は「コンクリートの匂いがする」だそうだ。秋の終わりの匂いはどんなだったか、思い出そうとしたけれど何故か分からなくて、そこで気付いた。今の季節の風の匂いを、水戸から聞いたことがなかったと。それが今無性に、三井を虚しくさせた。マンションに帰るも、勿論水戸の車はなく、玄関を開けるも当たり前に帰っていない。灯りを点け、ただいま、と、ぼやくように呟いてみたけれど、返答はない。三井は一つ息を吐いた。スニーカーを脱ぎ、玄関を上がる。あ、三井はそう思った。振り返り、自分のスニーカーを見ると、また揃っていなかった。水戸はいつも、靴を揃える。だから注意される。「靴は揃えろ」と。三井を軽く睨みながらも揶揄うように、「それくらい習ったろ?」と優しく声を出す水戸を思い出し、三井は一層、スニーカーを揃えることをやめた。それに一瞥をくれてからリビングに入る。真っ暗なそこにまた灯りを点け、冷蔵庫を開けた。ビール飲も、そう思い取り出して、プルタブを開ける。飲み込むと、普通に美味いと感じた。変なの、そう思った。見渡すも水戸は居なくて、室内が妙に閑散として見える。一人だとこの部屋は酷く広々としていることを、三井は初めて知った気がした。
ビールを一本飲み干し、ソファに座る。テレビを点け、チャンネルを変えてはみるけれど、面白そうな番組はやっていなかった。時折その平べったい箱の中から聞こえる笑い声をいやに遠巻きに感じ、流れるように変わる場面場面が酷くつまらなかった。
少しの間それを眺めていると、玄関の開く音がする。それから、洗面所から水の流れる音も続いた。最後にリビングのドアが開く。
「ただいま」
「……おかえり」
さて、どうしたもんか。三井はまた考えた。けれどもやはり、答えは出ない。
「おい」
珍しく水戸から声を掛けて来た。普段なら三井から声を掛けるからだ。こういう場合は特に。どうする、三井は疑問符ばかりが今浮かんでいた。これがバスケの試合なら、すぐに攻略法が浮かぶ。それは自チームでも他チームでも。俯瞰で試合を観て必要以外の声を出さず、どこをどう攻めて守れば良いのかがすぐに頭の中に映像になる。けれどもこれはバスケの試合でもなければ、観戦でもない。今自分の前に立つのは水戸洋平だ。三井は一言、何だよ、そう言った。そしてテレビを消し、立ち上がった。
「飲まなかったの?お前」
「飲めねえだろ、あの状況で」
「ふーん。まあいいけど」
「おい、どうしたのあんた」
「あ?どうしたのって何が。てめえ、いい度胸してんな」
三井は、自分の中で何かがぷつりと千切れたのが分かった。どうしたのって何、そう思った。店で水戸と話していた女性はきっと、以前水戸と付き合っていた女だと、三井は確信していた。証拠はない。ただそう思った。しかもあの女は以前水戸が、「衝撃的な子だった」と言っていたそれに違いないとも考えていた。「衝撃的過ぎて他は覚えていない」とまで言わせたことのある女だ。証拠はない。けれど三井は確信している。もしかしたら水戸は。それにその方が。違う、三井は頭の中でかぶりを振った。
「あの女誰だ」
「昔付き合ってた子」
「約束してたのかよ」
「違う。たまたま」
居なくなったら死ぬ。そんなこと言う女に限って図太く生きて死なねえんだよ真に受けて可愛いと思ってんじゃねえよバーッカ!三井は今心底思った。その彼女ではないのかもしれない、それなのに。聞いた当時、三井は笑った。それはとっくに過去の話で、ふざけた女だと笑った。変な女に引っ掛かってんなよ、そう思った。けれども今は違う。水戸はきっと、彼女を好きだった。三井の知らない水戸を知っているのだ。秋の終わりの風をどう例えるか、もしかしたら彼女は知っているのかもしれない。
コンクリートの匂いがする。そう言った水戸の横顔を思い出し、足の辺りから這いずり回る何かを感じる。ざわざわする。三井は一つ息を吐いた。落ち着け、いや落ち着いてる。もしかしたら水戸は。また同じことを考えた。いっそその方がお互いに楽になれるのか、と。
「あいつと喋ってた時のお前の顔、鏡で見せてやりてえよ」
「何の話?」
「お前まだ、あの女に気があるんだろ?」
「は?」
「結局お前はそうだよな、もう分かった」
三井は深く息を吐いた。三井は水戸と会わなかった五年間、誰とも付き合わなかった。とても無理だと思った。忘れられない、そう思っていた。いっそ、諦めることを諦めてしまえば良い、そう思ったのだ。けれども水戸は違う。水戸は普通だった。
彼は女性と付き合っていたのだ。あの五年間、それまでを忘れたかのように普通に、普通の男として生活していた、きっと。三井としていた行為も、きっと同じように。同じように触れて舐めて、挿入している。あの抱き方で、あの触れ方で、あの舐め方で、オレ以外の誰かを。今こいつをめちゃくちゃにぶん殴りたい、三井はそう思った。その時だった。
水戸の両腕が伸び、何かと理解する前に首に圧力が掛かった。締められている。あの掌で、指で。三井を慈しんで触れる、その手で。喉が詰まり、声を出そうにも息すらまともに吸えない。見下ろした水戸は、憤怒しているようでもあれば、焦燥しているようにも見えた。けれどもその奥には、悲痛な何かを訴えているように見えた。
あ、と思った。ただそう思った。水戸が消えてしまうと、訳もなくそう思った。居なくなる、また消える。だからその手を捕まえようと、三井は水戸の手首を掴んだ。力を込めた。筋張った水戸の手首は酷く冷えているように感じて、その体温に背筋が泡立つ。怖いのか。水戸が怖いのかオレは。また疑問が浮かんだ。けれどもそれは、すぐに払拭された。違う怖いんじゃない、この目だ。三井はそう思い、また手に力を込める。
「あの子さぁ、俺が居なくなったら死ぬんだって。すげえよな」
じゃあオレも死んでやるよ。そう思った。何の違和感もなく躊躇いもなく思った。言いたかった。けれども、声はおろか呼吸すらまともに出来ない。
「何度も何度も同じこと言わせんじゃねえよ、俺が浮気してるっつったら納得すんの?あの子に気があるからお前と終わりにしてあっちに行くって言えば納得すんの?」
違う。そうじゃない。でも声が出ないから、首だけでも振ろうと思った。それが上手く出来たかは三井も分からない。
「浮気したら心中するんだっけ?」
そういやそんなこと言った気がする。三井は朧気な記憶を辿り、自分の言葉を思い出した。その時、水戸の指が三井の首に食い込んだ。本気だ、三井は思った。オレを殺す気だ、そう思った。同時に、殺せ、とも。この指が好きだと、今この状況で的外れにも程があることを考えた。段々と頭がぼんやりとして、水戸の顔もぼやけて見える。
「ならいっそ一緒に死んでくれよ」
その言葉が聞こえた直後、三井の首の圧迫が消えた。ひゅっと急に入り込む酸素に、三井は咽せ返る。何度も咳き込み、痺れた体に耐え切れなくて膝を付いた。気管が未だに詰まっているようで、呼吸が覚束なかった。今何て?水戸を見上げて聞こうとするけれど、声が出ない。彼は掌で口元を押さえ、後退る。叱られた子供のように、己がしたことを悔いているのだと、三井はそう強く思った。だから、遠くへ行こうとする水戸に手を伸ばしたいと三井は思うのに、離れて行こうとするその体を捕まえたいと思うのに、痺れた体はまるで力が入らなかった。未だに声も出ない。
明日試合あんのに。呼吸を整えながら、三井は一瞬だけそんなことを考えた。自分の思考回路にぎょっとした。そして、自分自身にぞっとした。こんな時でさえオレは。水戸はこんな自分をよく知っている、三井はそう思った。
「ごめん」
そう言うと水戸は、三井の顔を見ることなくその場を去った。あーあ、三井はその場に倒れ込んだ。仰向けになり、締められた喉に手をやる。そこからはもう水戸の体温など消えていて、きっと痕だけが残っている。目の前がぼやけた。霞んだ。首にやっていた手で目を覆った。咳き込んだからだ。何度も何度も咳き込んだから。三井はそう思った。
あの目を見た時、学生時代を思い出した。あの目が怖くて、そして好きだと思った。首に食い込む指が好きだと、いっそ殺せ、その時はそう思った。死んでやるよ、と本気で。その時は本気だと思っていた。けれども三井は、動かない痺れた自分の体を顕著に感じた瞬間、明日の試合のことを真っ先に考えた。
「ごめん」
謝るのはオレの方だ水戸はきっと全部見透かして目先の現実だけを見るオレに失望した。
「くっだらねえ」
それでも、と三井は思う。それでもオレは、明日の始発で大阪に行く。こんな時でさえ。
あの時あの目とあの指に浮かされただけで、本気で死ぬ気なんてないくせに。

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