短編

□朝焼けに鳴く
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ここに来るのは久々だった。ドアを開けるとそれなりに客入りはよく、繁盛しているように見える。カウンターの空いているスツールに座ると、彼女は「何飲む?」と聞いた。水戸は「烏龍茶」と端的に答える。「飲まないの?」今度はそう聞かれたから「車だから」と返した。母親はじっと水戸を見て、それから背中を見せた。きっと烏龍茶を準備するのだろうと思った。その様子を追いながら、水戸はまたあの雪の日を思い出した。そして、彼女は未だに、あの人を思っているのだろうか、と考えた。ガキの頃はあの後ろ姿が嫌で嫌で堪らなかった、水戸は今何故かそう思った。そしてその後、俯いて苦笑する。今もまだガキだ、あの部屋での出来事を思い出し、水戸は思った。あの人はきっと俺に失望した。三井に、ごめん、と言った時、水戸はそう思っていた。一緒に死ぬなんて馬鹿げてる、そう思っているのに、水戸はそれを懇願していたのかもしれない。あの現実主義者が、受け止める筈がないのに。
「洋平、どうしたの?」
「いや、別に」
顔を上げると、いつもの母親だった。彼女が水戸の前で表情を変えたことなど、思い出せる限りではあの男性と水戸がここで会った時だけだった。それを水戸は未だに、昨日のことのように鮮明に思い出せた。
「母さん」
「何よ、あんたに母さんって呼ばれるの未だに慣れないんだけど」
「じゃあどうすんの。前みたいに涼子さんでいいわけ?」
うーん、と唸るように言って腕を組み、彼女は考えていた。もうどっちでもいいや、水戸はそう思った。
「あの人のこと、まだ好きなの?」
「あの人って?」
「俺の父親だよ」
そう言うと、今度はぎょっとしたように水戸を見る。水戸は別に、これを聞きたいと思ってここに来た訳ではなかった。ただ何となく、口から出ていた言葉だった。もしも彼女が未だにあの人を思うなら、それこそ二十五年以上になる。四半世紀の間思っているのだ。ずっと好きでいるの?これの答えが曖昧でも、この人なら掴んでいる気がした。
「そうだなぁ、好きなのかもね」
彼女はそう言うと、水戸から目を逸らした。
「曖昧だね」
「そんなもんでしょ。形が無い物に理屈を求めてもね、それに男と女の感覚なんて違うし。ただ、あの人を一生嫌うことはないのは分かる」
「何で」
「あんたの父親だから」
水戸は息を吐くように笑った。それからは一言二言話し、水戸は、ごちそうさま、と言って席を立った。財布を取り出すと、要らない、と彼女は言う。こういう部分は、祖母とよく似ていると思う。
「洋平」
「ん?」
「あんた、ちょっと良い男になったんじゃない?」
「どこがだよ。じゃあまた」
水戸は一度手を上げ、もう彼女を見ることなく店を去った。水戸は駐車場に停めていた車に乗り、エンジンを掛けた。窓を少し開け、煙草に火を点ける。小さく開いた窓からは冷えた風が緩く流れ込む。それはまだ、冬のものではなかった。乾燥していて枯れた匂いがする。秋の終わり、水戸はそう思った。彼女は嘘を吐いた。好きなのかもね、あれは嘘だ。理由などない。直感だ。未だに好きなのだと思う。そうでなければ、想いを馳せるように目を逸らしたりしない。あれが俺に気遣うなんて有り得ねえ、水戸はそう思い、少しだけ笑う。
しばらく車を走らせ、自宅には戻らず道も決めず、ただ走った。神奈川の夜は、酷く静かだった。時折転々と街灯が灯り、コンビニの灯りが見える。そこに停まり、缶コーヒーを買ってまたひた走る。運転しながら、三井は今頃どうしているのだろうか、と思う。けれどもまだ、帰宅する気分にはならなかった。彼の言う、鏡で見せてやりたかった顔、というのはどんな表情だったのか考えた。きっと母親のように、想いを馳せるように意識がそこに飛んでいたのだろうと思う。けれどもそれは、贖罪の意味だった。そして、居なくなったら死ぬと言われたことを思い出したからだった。
あんたはそんなこと言わないだろ?
水戸はそんな子供染みた自分の思考に嫌気が差した。あの人は俺に恋してる、水戸は何かの度にそう思う。それは今回のことでも。そして、それを考える度に、自分と三井の差異に言葉を失う。それならば、いっそ終わりにしたいとさえ思った。道路の右側には海がある。真っ暗闇に包まれ、形も分からない茫漠な海が。水戸は車を停めようとは思わなかった。ただ思い出した。朝日が昇るあの海を思い出した。仄暗いそこから淡々と聞こえる同じ波長の波音と、自分とは似ても似つかないほどしぶとく大きな景色。そして隣には、あの人が居た。
水戸はカーステレオで時間を確認した。随分と長い間走っていたのだと分かった。二時間後には夜が明ける。そして帰ろうと決め、自宅に車を走らせた。三井はこの日の早朝、静岡行きの新幹線に乗る。水戸は彼が遠征の日の朝は大概、朝食を作る。今朝は何時に起きるかは知らないけれど、今日も同じようにすると決めた。水戸がそうしたいからだった。自宅に戻ると、当然リビングは真っ暗だった。時刻は午前五時だった。ベランダに行き、煙草に火を点ける。斜め後ろに見える寝室の窓には、当たり前にカーテンが締められていた。空を仰ぐも群青色が広がるだけで、今日が曇りなのか晴れなのか、朝焼けが見えるのかも分からない。
煙草を一本吸い終わり、水戸はリビングに戻った。洗面所へ行き顔を洗い、またリビングに戻る。それからキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。卵を三つ取り出し、出汁巻卵を作ろうと決める。三井は水戸の料理を美味いと言った。大した料理などしない。凝った料理も、三井が好きそうな横文字の料理も作ったことがない。それでも彼は、酷く良い顔をして食べた。作り甲斐あるなぁ、とよく思う。水戸には全く興味がなかった。自分の作る物にもやることにも感情にさえ、関心を持たなかった。三井がそこに居るから、水戸は意味を持つような気がした。穴が開いてる、そう思う。
出汁巻卵、味噌汁、漬物、白飯、それを準備した所で、三井は寝室から出て来た。彼は水戸を見た。見詰めた。しばらくそうした後、三井はリビングを出た。水の流れる音がして、顔を洗っているのだと分かった。またしばらくして、リビングに戻って来る。
「メシ、食う?」
「うん」
一言だけ返事をすると彼は、ダイニングテーブルに座る。水戸は茶碗に白飯を装い、三井の前に置いた。水戸はその脇で、立ったままでいた。
「どこ行ってたの?」
「どこって、車でぶらついてた」
「帰って来ねえかと思った」
「は?」
三井を見ると、目が充血していた。首も仄かに赤く鬱血している。水戸は自分でやったこととはいえ真っ直ぐ見ることが出来ず、思わず目を逸らす。
水戸には恐怖しかなかった。また同じようなことをするのかもしれない、そう思った。これが結論だった。三井は水戸に恋をしていた。それは痛いほど知っていた。だから痛かった。突き刺さるのが怖かった。あの母親なら良い。あれが父親に恋をしているのは構わない。そこにはあれが言うように、水戸洋平という繋がりがあるからだ。けれど、水戸と三井は違う。何もない。先を繋げるものもなければ、三井のこれが続く保証もない。形の無い物に理屈など要らないと思えるほど歳も重ねていなければ、学生の頃のようにただ好きでいれば構わないと言えるほど若くもなかった。けれども水戸には、一つしかなかった。
「俺は……」
「ん?」
言葉を発しようとした直後、何かが喉に詰まる。
「俺はあんたを好きなだけだ」
水戸は三井から目を逸らし、窓の外を見る。そこは仄暗さが消えかけていて、空が白ずんで来るのが分かる。夜が、明ける。
「どうせ一生一緒になんて居てくれないんだろ?」
ならいっそ一緒に死んでくれよ、そう思った。もしかしたら小さく言葉にしていたのかもしれない。水戸にはどちらか分からなかった。ただ喉が詰まった。目の前がぼやけた。前が霞んでよく見えず、三井を見ることも出来ず、そのまま俯いた。目が酷く熱いと思った。
「捕まえた」
がつ、と木の擦れる音がしたと同時に、水戸の体が一瞬だけ揺れる。何だ、と思ったと同時に、鼻先には三井の匂いがあった。そして、抱き締められていることを知った。
「悪いけどオレ、一緒に生きたい派なんだよね」
「え?」
「言っとくけどお前、もう終わってるから。オレと居るって決めた時点で終わってんの」
ぎょっとした。この人は何を言っているのかと思った。
「だからもう、死んだ気でオレと生きろ」
水戸は三井の体を離し、その顔を見る。するとまた彼は、歯を見せて笑っている。この顔は、どこかで見た顔だった。彼が高校を卒業する時に朝焼けの海で見せた表情と一緒だった。幾つになっても変わらない。そして何かの度に思う。
「はは、もうほんと、あんた何なんだよ」
水戸は笑った。俯いて、ぼやけた目元を拭う。
「何がだよ」
「すげえなぁ、達人だ」
「何の」
「俺を負かす達人」
「今更気付くな、昔からそうなんだよ」
眠いと思った。酷く眠いと、そう思った。それでも今はまだ、この朝焼けにも似た空を眺めていたかった。
この人には負ける。何かの度に水戸は、強く思う。





終わり
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