短編

□朝焼けに鳴く
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大楠に誘われて、少しだけ洒落た個室付きの店に来たのは、金曜日のことだった。「金曜の夜飲まねえ?」と誘われ、今週は特に仕事も詰まっていなかったから了承した。「ミッチーも来る?」と聞かれたので彼の予定を聞くと、その週は大阪で試合だから早朝の便で出発するらしい。だから早めに帰るけれど、参加すると言った。店に来るのも少しだけ遅れるかもしれない、とも言っていた。季節は秋も終わりに差し掛かっていて、この時期の三井は酷く忙しい。プレーオフまで進めば、五月までは仕事漬けの日々が続く。お疲れさん、と思いながらも水戸は、体の真ん中の辺りが、時々所在無いことがあった。何だろう、と考えることもあったけれど、結局まとまらず、意識が飛ぶように覚束なくなる。よく分かんねえ、その結論に達し、考えることを辞めていた。きっかけは些細なことだった。同じ職場の経理の遥に、何の気なしに言われた言葉だった。
ずっと好きでいるの?
これを思い出すと必ずと言っていいほど、頭の中が錯綜する。彼女とはもう、何もなかった。職場の事務所で二人だけになった時に言われたのだ。「わたし彼氏出来た」と。良かったですね、と返すと彼女は、何も言わず一瞬だけ水戸を睨み、事務所を出た。それから遥は一度も、残業中を狙って事務所にやって来ることも、休日出勤をする日を狙って来ることもなかった。水戸は心底安堵した。もう二度とボランティアをしなくてよくなったこともあったけれどそれ以上に、これで彼女の空いた空間が少しでも埋まるかもしれないと思ったからだ。それを埋めるのは自分ではなかった。誰かがしてくれたらいいと思っていた。ずっと。
大楠が指定した店は、藤沢駅から近い場所だった。職場からも歩いて行けるから、仕事が終わったら車は職場の駐車場に置いておき、徒歩でその場所に向かう。水戸も少しばかり遅れてしまった。三井からも同じくらいの時間帯に連絡が来ていて、似たような時間に店に到着するかもしれないと思った。大楠からは既に連絡もあり、先にやっとく、とのことだった。多少早足で歩いたものの、奴のことだから一人でも楽しんでいるに違いない、水戸はそう思った。指定された場所に近付いた頃、携帯が鳴る。開くとそこに、大楠の名前が出ていた。
「はい」
『お疲れ。今どこ?』
「もう着くよ。どうした?」
『いや、ちょっとまずいことになった』
「は?何」
『お前、今日帰れ』
「何言ってんの、着いたっつーの。切るぞ」
携帯を切り、指定された店のドアを開ける。店内は酷く騒ついていた。全室個室とはいえ、完全に仕切られている訳ではなかった。当たり前に声は漏れるし、席が埋まっているのも分かる。店員に声を掛けられ、大楠の名前を出すと案内された。少しだけ奥に進むと、個室の前に彼が立っている。店員は一度会釈し、その場を去った。目の前には、ばつの悪そうな大楠だけが立っている。
「何だよ、急に」
「ちょっとまずいんだって。ミッチーまだだよな?お前ちょっと連絡しろよ、今日無しになったとか適当に上手いこと言ってさ」
「は?だから何」
水戸が言うと、足音がこちらに向かってくるのが分かった。反射的に目を向けると、見覚えのある顔が水戸の前で立ち止まる。あ、と思った。そして、懐かしいと思ったのと同時に、大楠の言う「まずいことになった」の意味が分かった。彼をちらりと見遣ると、頭を掻いて目を伏せていた。
「え、洋平?」
「久し振り。元気だった?」
「えっと、うん。洋平は?」
水戸は答える代わりに、一度笑って頷いた。彼女は以前付き合っていた女性で、名前はゆい。ゆいのことは、時々思い出した。酷く激情型の女性で、水戸が今まで付き合った女性で思い出すのは、彼女だけだった。
『わたし、洋平が居なくなったら死ぬからね』
あの衝撃的な一言は未だに忘れられなかった。当時は驚いた。ぎょっとした。後にも先にも、あんなことを言われたことは一度もない。三井のような現実主義の塊のような人間からしたら、聞くのは勿論のこと、口から吐き出すなんて論外だろうと水戸は思う。
「洋平はまだ整備士してんの?」
「してるよ」
「一級整備士の勉強してたもんね、続けてるんだ。わたしもそろそろ車変えたいなって思ってて」
「そっか」
あの日は確か、雪が降っていた。降り積もるようなそれではなく、すぐに溶けて消えるような雪が緩慢に降っていた。携帯を開くとディスプレイに落ちては消え、その画面を拭いた。母親の店で見知らぬ男性に会い、一杯だけご馳走になる。頭が酷く痛くて、その後着信があった彼女の元へ行った。そして、頭の中であの人を抱きながら、ゆいの体を抱いた。口を塞いで手首を掴んだ。あれはねえよな、水戸は思い出して苦笑した。酷いことをしたと今でも思う。
「ごめんな」
「え、何が?」
「いや、今はちゃんと恋愛してんの?また変な男に引っ掛かってんじゃねえよな?」
「……大丈夫だよ」
その時、大楠の小さな声がした。おい、そう言った。彼を見ると、今度は目線が違う。水戸の向こう側を見ている。あーあ、水戸はそう思った。まずいことになった、その意味をもう一度噛み砕いた。首を捻ると、水戸の後方に三井が立っている。彼はただ沈黙し、水戸を睨み、その後踵を返した。まずいな、水戸はそう思った。
「悪い。帰るわ」
「だから言ったろオレ!」
「ごめん、また今度埋め合わせする。じゃあ」
水戸も踵を返した。久々に聞いた彼女の、洋平、がまた聞こえた気がした。それには振り返らず、またあの台詞を思い出す。
『わたし、洋平が居なくなったら死ぬからね』
今ならそれが、分かる気がする。時々思うのだ。いっそ死ねたら良いと。
店の外に出るも、既に三井は居なかった。多分駅だ、水戸はそう思った。どうせ帰宅すれば喧嘩になることは分かっていた。だから今更焦る必要もない。職場まで歩き、車に乗った。エンジンを掛け、サイドブレーキを下ろしてギアをドライブに入れる。車を走らせながら、三井から言われるだろう言葉を予測した。浮気だろ、これを言われるのは分かっていた。だから浮気なんかしたことねえっつーの、何度同じことを言えば分かるのだろうか。三井は、幾度となく同じ言葉を繰り返した。彼は例えば、一緒に定食屋に行った時も似たようなことを言うのだった。店員に礼を一つ言っただけで、「お前は女に優し過ぎる」と怒りを露わにする。水戸は別に、女性に対して特別優しくしているつもりもなかった。水戸は三井の、過剰反応が酷く苦手だった。億劫だった。けれどもそれ以上に、そこまで言うのならいっそ、と倒錯的な思考に達する自分が酷く嫌になった。
ずっと好きでいるの?
また遥の言葉を思い出した。知らねえよ黙ってろ、水戸は車の中で舌打ちし、煙草に火を点けた。
帰宅すると、見慣れたスニーカーが玄関にあった。相変わらず揃えられていなくて、これも三井は、何度言っても治らなかった。水戸は一つ息を吐いた。下手なことを言わない。責められたら最後まで話を聞いて謝る。これで良い。それを頭の中で反芻した。水戸もスニーカーを脱ぎ、まずは洗面所へ向かった。手を洗い、その後リビングに入る。そこには、ソファに座り、テレビを見ている三井が居た。もっとも、本当に見ているかどうかは分からないけれど。
「ただいま」
「……おかえり」
三井は水戸を見なかった。それどころか、酷くぼんやりとしていて、焦点が合っていないようにも見える。
「おい」
普段は、こういう場合は水戸からは声は掛けなかった。そうする前に、必ず三井から行動を起こすからだ。
「何だよ」
するとようやく、三井が水戸を見た。そしてテレビを消し、立ち上がる。
「飲まなかったの?お前」
「飲めねえだろ、あの状況で」
「ふーん。まあいいけど」
「おい、どうしたのあんた」
「あ?どうしたのって何が。てめえ、いい度胸してんな」
戦闘開始。水戸はそう思って息を吐いた。水戸を見下ろす三井の目は酷く冷たい。怒る、じゃない。じゃあ何だ。水戸は考えた。三井の様子はいつもと違った。怒りだけじゃないことは分かった。
「あの女誰だ」
「昔付き合ってた子」
「約束してたのかよ」
「違う。たまたま」
今度は三井が息を吐いた。そして一瞬だけ目を伏せ、また水戸を射抜くように見る。
「あいつと喋ってた時のお前の顔、鏡で見せてやりてえよ」
「何の話?」
「お前まだ、あの女に気があるんだろ?」
「は?」
「結局お前はそうだよな、もう分かった」
今こいつをめちゃくちゃにぶん殴りたい。水戸は何の偽りもなくそう思った。人が何を思い、どうしたいかなど、三井は知りもしないのだ。自己中心的、我儘、人の話を聞きゃしねえ、むしろ聞く気もない現実主義者。一体何を分かっているのか、何も知らない分かっていない。
水戸の頭の中に、大きな波が押し寄せた。それが塊になって残る。真っ黒なそれは、学生時代の自分を思い出させた。三井にだけは自分から暴力を振るった。殴りもしたし、首も締めた。床に頭をぶつけ、無理矢理犯した。あの頃の自分が嫌いだった。元々水戸洋平という自分に価値など見出せなかった。それでも、彼と居る時だけは違った。砂じゃない、そう思えたからだ。でもそれこそが間違っていたのかもしれない、所詮砂は砂だ。
水戸は三井に近付き、手を伸ばした。この首へし折ってやる。そう思い、手を掛けた。
「……!!」
三井は目を開いた。声が出ないのか押し黙り、水戸の手首に自分の手を掛ける。外そうと必死になっている。彼は特別非力という訳でもないのに、水戸には何の効力もなかった。それが可笑しくて思わず笑ってしまう。
「あの子さぁ、俺が居なくなったら死ぬんだって。すげえよな」
三井は何も言わない。いや、言えないのだ。水戸が首に手を掛けているからだった。
「何度も何度も同じこと言わせんじゃねえよ、俺が浮気してるっつったら納得すんの?あの子に気があるからお前と終わりにしてあっちに行くって言えば納得すんの?」
三井が首を振ったように見えた。けれどもそれは、水戸の都合の良い幻だったのかもしれない。
「浮気したら心中するんだっけ?」
水戸は首に掛けている手の力を込める。一層三井の顔が歪む。
「ならいっそ一緒に死んでくれよ」
そう言った直後、水戸は自分から手を離した。何を言って、そう思った。そして掌で自分の口を押さえながら、三井を見る。彼は圧迫感が無くなった喉に手をやり、酷く咳き込んでいた。咽せ返り何度も咳き込み、呼吸を整えている。それから水戸を見上げ、物言いたげな表情を見せる。苦しみで揺れる瞳は、耐えながらも水戸を見ている。もう駄目だ、水戸はそう思った。三井の言葉を待つこともせず、水戸は後退る。しばらく足が縺れるように上手く進まず、何かに当たる。振り返るとダイニングテーブルだった。ここに越して来る時、三井が購入したという家具だ。それを見て、部屋を見渡し、どこを見ても辺りには、三井がこの部屋の為に購入したという家具で溢れていた。水戸は自分自身にぞっとした。頭がイカれてる、そう思った。
この人はきっと、俺に。
「ごめん」
水戸は一言そう言って、この部屋を出た。もう駄目だ、もう一度そう思った。マンションを去った頃、携帯が鳴る。取り出すとそこには、母親の名前があった。

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