短編

□欠けた背骨で泳ぐ
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「行きたくない」
「はい?」
「仕事、行きたくない」
「どしたの、お前」
寝室でフローリングに胡座をかきながら遠征の支度をしている三井の後ろ姿に向けて、水戸はぼそりと声を出した。立ち尽くす水戸を振り返って見ていた三井の表情は、呆気に取られるとしか言い様のないそれで、水戸は急にばつが悪くなった。どしたの、と言われても、もう一度同じように、行きたくないとしか返答出来なかった。
「いつ帰って来んの?」
「まじでどうしたお前、変なもん食ったんじゃねーか?それとも具合わりーんじゃねえだろな」
三井は急に立ち上がり、水戸の額に手をやった。熱はねえな、と呟く三井に水戸は思わず舌打ちをする。そして吐き出すように、ねえよ、と返した。水戸はしばらく沈黙し、はあ、と息を吐いた。三井も何も言わず、水戸を見下ろしている。けれども長らく沈黙するのが苦手で時間もあまりないと思ったのか、彼が急に息を吸ったように水戸には見えた。
「日曜の夕方には帰ってくるけど」
「月曜は出んの?」
「あー……、午後からミーティングするくらい。半日も出ねーよ」
「俺も月曜休もっかな。代休取れって言われてるし」
「なあ、ほんとにどうしたんだよ」
「どうもしない。仕事が溜まってるだけ」
何処と無く心配そうに尋ねてくる三井を他所に、水戸は端的に返した。そして、自分も着替えを出そうとクローゼットを開けた。白いTシャツにギンガムチェックシャツとデニム、それを取り出してクローゼットを閉めた。三井は一つ息を吐いて、またパッキングを始める。水戸はそれを横目で見遣りながら、着替えようと部屋着のスウェットを脱いだ。Tシャツを着ながら、これも替え時かもしれないと的外れなことを考えていた。
朝食は、三井と一緒に食べた。メニューは、彼が和食にしてくれと言ったから、朝から味噌汁に加えて塩鮭を焼いた。手間を掛けさせる人だと呆れたけれど、水戸はそれが苦痛ではなかった。三井は今日から栃木に行くと言っていて、相手は強いチームだという話もしていた。その時は特に、仕事に行きたくないと考えていた訳ではなかった。それ以前に、今まで一度として行きたくないと考えたことはなかった。今の職場は確かに忙しい。やることも多い。それでも一度も。だから水戸自身にも、今の収まりのつかない感情に収集がつかなかった。ただ三井が今日から遠征だと、パッキングする姿を目で確認して急に、酷く行きたくないと思ったのだった。
遥とはあの翌日、特にこれといった会話を交わすことはしなかった。ただ事務所の鍵を遥が持っているのは不自然だと、翌朝ちょうど通勤の時間帯が一緒になったこともあって言った。事務所の鍵いいっすか?と手を出した。すると彼女はそれを差し出して水戸の掌に乗せ、少しの間眺めてから最後水戸の指を撫でた。じっと目を見つめられ、言葉はなかった。何も言われなかったけれど、それが余計に彼女の心を浮き彫りにしたような気がした。彼女は仕事中、特にアクションを見せることはなかった。普段通りだった。それから一週間、別段変わった様子も見せなかったので、諦めてくれたのだと安堵した。しかしそれは、水戸の都合の良い勘違いでしかなく、水戸の仕事が遅くなった日や、休日出勤している時を狙ってやって来た。どうしたの?と聞くと、職場じゃないと会ってくれないでしょ?と返ってくるのだ。コーヒーを入れてくれて少しの間喋ることもあれば、またボランティアをすることもあった。何度しても隠し事にさえならなければ、触れても柔らかい肉体、としか思えなかった。不憫だと思った。水戸は遥を、酷く不憫で憐れに思った。言い方は悪いけれど同情していた。誰かこの人を幸せにしてやってくんねえかな、と考えながらボランティアをする。水戸は決して、遥を嫌いではなかった。かといって好きでもなかった。ただ、職場の同僚だった。職場の同僚を嫌いではないことなど当然だ。それは遥も、とっくに分かっているだろう。だからもう、諦めたらいいのに、そう思っていた。
そんなことが続き、三井はとうとうシーズンに突入する。そうすると時間は擦れ違う。だから余計に、億劫になる。要は困っているのだ。水戸は遥が憐れだった。でもそれは、彼女に対してだけじゃない。
「水戸」
「ん?」
ちょうど着替え終えた所で、三井は水戸に声を掛けた。
「土産楽しみにしてろよ」
「俺は土産よりあんたがいい」
「だからお前どうしたの」
「分かんねえかなぁ」
水戸はフローリングに座っている三井の目線まで下がり、膝を付いた。そして手を伸ばし、三井の体を抱き締める。すると彼も水戸の体に手を回し、ぎゅっと力を込めた。しばらくの間そうして、体を離して口付けた。水戸は三井の体から離れると、三井はまた水戸を引き寄せる。
「分かった。お前寂しいんだな」
「そうかもね」
もう一度抱き締め、何度かキスをすると、三井は部屋を出て行った。彼が遠征に行く際、こんな風に考えることは今までなかった。遥を見ていると憐れになる。まるで自分を見ているようだと思うからだ。
今日は木曜日だった。職場はいつもと変わらず、慌ただしかった。車の整備をし、昼になれば休憩を取る。午後からまた整備の続きをし、夕方辺りから残務処理を始める。それ以降から段々と水戸一人になり、大概最後まで残るのだった。今日は帰っても誰も居ないから、溜まった雑務を片付けてしまおうと思った。今日明日で終わらせ、土日は休もうと決めた。今はもう今朝のような感覚はなく、仕事のことだけを考えていた。なぜ「行きたくない」などと言ったのか、水戸にもよく分からなかった。事務所はもう、エアコンを点けなくても問題はなかった。暑くも寒くもないから、仕事をするのも体が楽だった。今日は遥がここに来なければ良いと、何となく思った。
すると事務所のドアが開いた。水戸はそれを確認すると、思わず息を吐いた。
「何で来んの?」
「酷い言い方」
コーヒー飲む?彼女は続けてそう言った。水戸は黙っていたけれど、遥は構わずコーヒーを二杯入れる。水戸はまたパソコンに向かった。キーを叩く音の隣に、コーヒーカップを置く音がする。それから、彼女がコーヒーを啜る音がした。
「今日はボランティアしませんよ」
水戸は彼女を見ることなく告げた。
「ほんと酷い言い方するよね」
「ね?だからそろそろ諦めようよ」
「ねえ」
水戸は返事をする代わりに遥を見た。彼女は空いたスツールに座り、コーヒーを飲んでいた。
「例の好きな人、水戸さんいつから好きなの?」
「十五から」
「え、まじ?」
「まじですよ」
「ざっと十年じゃん。凄いね」
「凄いかどうかは知らねえけど、だからほんとにそろそろ諦めてください」
茶化すように会釈してして言うと、遥は笑った。そして、どうしようかな、と言うのだった。このおねーさんには参る、水戸はまたパソコンに目を戻しながらそう思った。
「その人と結婚するの?」
「まさか」
アホらしい、そう思った。手はパソコンのキーを叩いていた。
「え、じゃあ今のままずっと続ける気?どういう関係か知らないけど、ただ好きなだけでいるの?」
そこで水戸の手が止まる。今日はもう駄目だ、そう考え、データを保存してからパソコンの電源を落とした。
「俺ね、あんた見てると痛々しくて仕方ねえよ。だから困る」
「ついに同情?やめてよ、ムカつくから」
「何でそこまで俺に執着すんの?無理だって最初っから言ってるだろ?」
ずっと続ける気?遥はそう言った。ただ好きなだけでいるの?とも言った。それが異様に水戸の癪に触った。要は苛ついたのだ。だから多少語句を強め、彼女を見据えた。
ずっとなんて分かりゃしねえどうなるかなんてこの先誰も知りゃしねえんだよ。
水戸は心の中で、誰かに怒鳴り散らした。今まで見ない振りをしていた現実を目の当たりにした気がしたのだ。きっとそれは、三井も同じだ。彼は水戸以上に現実主義者だからだ。それは水戸もよく分かっている。今手の中にある幸福はもしかしたら未来にはただの錯覚になっているのかもしれないと、二人共よく知っていた。だから尚更執着する。欲しがろうと言葉で示すこともあった。あんたに女は抱けないと予防線まで張ったのだ。
三井が水戸を好いていることはよく知っていた。彼はきっと、水戸でなければだめだということも、勿論分かっていた。きっと三井は、水戸が今こうしていることを知れば発狂するに違いない。水戸はそう思った。あの人は多分俺に恋をしてる。高三からずっと。でも俺は違う。思えば思うほど怖くなる。恐怖が付きまとう。
だから遥がこうして、手に入らないだろう自分を欲しがれば欲しがるほど、己の鏡のようで憐れに見えて仕方なかった。そして、それをどうにも出来ない自分の歯痒さに辟易した。
「あなたが寂しそうだからでしょ。何でだろうって思ってたけど、ちょっと分かった気がする」
お前寂しいんだな、水戸は三井の言葉を思い出した。確か高校の頃も彼は、お前寂しいんだろ?と露骨に聞いたことがあった。寂しいって何?その時はそう思ったのだ。本当に。でも今は違う。寂しいことと恐怖は、酷似していると水戸は思う。あの人が居なくなることが怖い。先を見るのが怖い。この女はそれを、いとも簡単に示すのだ。このまま続ける気?と。顔も名前も性別も知らない想像上の人物に対して、平然と問う。
「ほんとに困る。あんたは、困るんだよ俺」
水戸は俯いた。スツールの動く音がしたと同時に、鼻先に知っている香りが触れた。甘くて砂糖菓子のような、胸焼けしそうな香りだった。遥が水戸の首に腕を回し、抱き締めていた。その違う香りで水戸は気付いた。欲しいのはこの匂いじゃない。感触じゃない。俺が欲しいのはずっと、十五の頃からあの皮膚の匂いだけだ。
あんたじゃない、そう言って水戸は遥の体を押した。彼女を見上げると、酷く厄介な表情で水戸を見下ろしている。長い髪の毛が邪魔に思えて彼女の髪の毛を撫でるように指で避けると、何かを堪えるように顔を顰めている。それがどうにも居た堪れなく、そのまま撫でていると遥の目に涙が溜まる。
「同情しないでって言ってるでしょ?離婚の時でたくさんなの、そういうのは」
「ごめんね。泣かれても何も出来なくて」
水戸は立ち上がり、また今日も遥に事務所の鍵を手渡した。鍵よろしく、そう言うと、彼女はまた水戸の指を撫でるように握る。
「わたしじゃ隠し事にもならないの?それくらいの居場所ちょうだいよ」
「そんなにやりたいの?」
「したい。抱いて。一回くらい良いでしょ?もう同情でも何でもいいよ」
はあ、と水戸は溜息を吐いた。その時には既に遥は鍵を水戸のパソコンの上に置いていた。もうどうでもいいや、水戸はそう思った。何を言っても聞かない。どうしようと引きもしない。こんな強情な女知らないから、これで引くならそれもまたボランティアだ。
「言っとくけど俺あんたじゃイかないから、頭の中ではあの人犯してる。それでもいいならご自由にどうぞ」
彼女は聞いているのかいないのか知らないけれど、いつもする壁際に追い詰め、水戸のベルトを外した。下着を下ろして口に含んだ。口の感触も舌の感触も全く別物だったから、目を閉じて水戸の物を必死に舐める三井を想像する。初めの頃は下手だった。下手くそ、と言うと、上手かったら引くだろ、と平然と返されたことがあった。それが今は、あの人が口に含むだけで水戸の体は疼いた。唇が違う。舌が違う。けれども今、水戸の頭の中では三井が舐めている。
水戸は息を乱した。今朝出て行ったあの人が今ここにいて、今こうして舐めている。俺も大概変態だ、水戸は目を閉じながら自分の息遣いを聞いて、そう思った。
「もういいよ」
そう言うと水戸は、彼女を引っ張り、壁に体を付けた。スカートを捲り、下着を下ろして指を滑らせると、そこは既に濡れている。どうでもいいから早く終わらせる。水戸は構わず潤んだそこに入れた。女性特有の嬌声は頭の外に追いやり、下から突き上げるように動かした。三井は今朝、本当は出ていかなかった。遠征に行く時間をずらし、水戸も時間休を取った。そしてあれから、水戸は三井を犯した。今しているように寝室の壁際に追いやり、水戸は何度も下から突き上げた。三井は鳴いた。水戸、水戸、と呼んだ。それが水戸の現実にまた蓋をしてくれたのだ。この人は遠くにいかない。俺の側に居る。ずっとここに居る。水戸はそれを想像した。
お前寂しいんだろ?
そうだよ寂しくて仕方ねえよ。
堰が切れたように水戸は動いた。遥の声は聞こえなくて、水戸の目の前には三井が居た。きっと彼女も、果てる直前に水戸を呼んだのかもしれない。でも水戸にはそれが、三井の声にしか聞こえなかった。
「もう本当に終わりにして」
「……分かった。今までごめんなさい」
水戸は衣服を直しながら、未だに壁に凭れて座っている遥に背を向けて言った。その時ちょうど自席に事務所の鍵が見えた。彼女はきっと、まだここに居る気がした。
「じゃあ鍵よろしく」
「やっぱりキスしてくれないんだね」
そう言った遥に振り返り、水戸は彼女と同じ目線になるように座る。彼女の乱れた髪の毛を撫でて軽く直しながら思う。俺みたいな奴やめときゃ良かったのに、単純でありきたりだけれど心底そう思った。だから軽く頬を撫で、一度だけ右頬にキスをする。
「俺の自慰に付き合ってくれてありがとう」
水戸はそう言うと立ち上がり、もう振り返ることなく事務所を出た。外はもう冷えていて、秋の終わりの気配を知った。突き刺すような風が、少しだけ頬に痛い。体が異様に怠かった。早く三井の匂いがするベッドに入りたいと思った。車に乗り込み、まずは煙草に火を点ける。それから走り出して、とにかく何も考えず家路に着いた。帰宅してまずは洗面所で手を洗った。早くシャワーが浴びたいと思ったけれど、もう酷く疲れていたから明日の朝でもいいかと怠惰な気分に身を任せることを決める。でも歩くと、どこからか砂糖菓子のような匂いがした。遥だ、水戸はその名前を思い出して溜息を吐いた。ベッドにその匂いが付いても眠れない気がして、仕方なくシャワーを浴びることに決めた。
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