短編

□キスと幸福
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それに気が付いたのは、水戸が洗面所兼脱衣所でデニムを脱いだ時だった。ポケットに硬くて小さい何かが触れ、何か入れたかとそこに手を突っ込んだ。石ころのような物に感じて取り出すと、女性用のピアスだった。水戸は思わず吹き出した。ここまでするか?と笑ったのだった。一度脱衣所を出て、仕事に持って行く鞄に入れておき、どうせ明日職場に行くのだから、その時彼女の席に置いておけばいい、水戸はそう思った。もう一度脱衣所へ向かい、全部脱いで洗濯機に入れ、浴室に入った。ざっとシャワーを浴び、すぐにそこから出た。リビングは静かだった。三井が既に眠っているからだ。彼が居ないか寝ているか、そういう時この部屋は、酷く静かだ。空気の張った音すら聞こえてきそうだ、そう思った。髪をタオルで拭いてから、煙草を口に咥え、ベランダに向かう。窓を開けると少しだけ冷えた風が体をすり抜けた。それが濡れた髪に触れた時、また思うのだ。夏が終わる、と。
例のピアスは、職場の飲み会の二次会で遥が入れた物だろう。その時も彼女の隣に座る羽目になったのだけれど、あからさまに触れられることはなかった。一次会で一度拒否してから、露骨な接触はない。ただ、帰る時に彼女がふらついて肩が腕にぶつかった。寄りかかられた訳でもないので、ただふらついてぶつかったのだと、そう思っていた。多分あの時だ。水戸はベランダの柵に凭れ煙草を吸いながら、彼女の狡猾さに笑った。そこまで俺に執着する意味あんのか?と考えもしたけれど、それを考えることすら無意味に思い、思考を止める。要するに、水戸にはどうでもいいことだった。
一服した後、リビングに戻った。酷く喉が渇き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。グラスに入れて飲み干し、それをシンクに置いて、寝室へ向かった。
翌朝、普通に目を覚まし、支度を終えて仕事に向かった。残務処理で元々休みの所に出勤する為、特に早く出なければならないこともなかったけれど、早々に終わらせたいと、いつもの時間に出勤する。水戸が居る時間帯に、三井が起きることはなかった。この先彼には休みという休みはあまりなさそうだ。気持ち良さそうに眠れて何より、水戸はそう思った。出勤すると、誰も社員は居ない。こういうことは少なからずあった。永瀬も水戸に様々な雑務を任せていることもあってか、休日出勤することは容認している。蒸した事務所にまずはエアコンを点ける。それからパソコンの立ち上げ、メガネを掛けた。そういえばつい二週間程度前も、水戸は休日出勤した。その時遥に告白され、自分にしては濁すことなく正直に言葉を投げ付けたように思う。ああピアス、思い出し自分の鞄を一度見たけれど、仕事が終わってからでいいかと、パソコンに向かった。
今日は約一時間半程度で終わり、首を一度ぐるりと回す。あー、と唸るような声を出してメガネを外し、煙草に火を点けた。すると事務所のドアの開く音がする。その姿を確認すると同時に、水戸は笑った。
「まーたあんたか」
「こんにちは」
「二日酔いじゃないんっすか?昨日結構飲んでたろ。最後ふらついてたし」
揶揄するように言うと、事務所のドアの前に立っている遥はにこりと笑う。
「分かってるでしょ?水戸さんのことだから」
「そういや忘れ物」
水戸は自分の鞄の中から小さなピアスを取り出し、立ち上がって彼女の前に差し出した。どうぞ、と言うと、遥は少しだけつまらなそうに口を尖らせる。
「バレなかったのね」
「残念ながらね」
彼女はそれを受け取らなかった。少しの間待つも、その態度は変わらない。水戸は煙草を口に咥えた。吸い込んで吐き出し、仕方なくピアスを遥の席に置いた。
「じゃあ帰ります」
「待って」
「何すか?」
煙草を吸い終わり、灰皿にそれを押し付けた。潰したそこから、緩く煙が舞う。少しだけ離れた遥を見ると、彼女はまるで何かに挑むように水戸を見ていた。
「この間言ったよね、わたしじゃ浮気相手にもならないって。隠し事にもならない自慰の対象だって」
「言ったね」
「隠し事にもならないなら別に良いでしょ?ちょうどやりたかったから付き合ってよ」
その言葉に、水戸はぎょっとした。それから酷く可笑しいと思った。吹くように笑うと、何が可笑しいの?と聞かれる。いや、そう返し、水戸は咳払いを一つした。
「懲りねえな、このおねーさんは」
「知ってるでしょ?わたしバツイチなの。元旦那は酷い男で、男を見る目なんて元々ないのよ」
「俺を選ぶ時点でそれは正解かもね」
「でも好きだから」
して欲しい、そう言って、遥は水戸に近付いて見上げた。こういう、捨て身の行為を水戸自身嫌いではなかった。それにもしもここで拒絶した所で、これが延々と続くのも厄介だ。水戸は腕を組んだ。一つ息を吐いて、自席に縋った。
「条件出していい?」
「何?」
「口外は……、あんたはしねえだろうな。あと、会社以外では会わないし、好きにもならない。俺にとってあんたは、やっぱり浮気相手にもならない。それから、キスはしない。これで良かったら」
「どうしてキスはしないの?」
「キスは好きな奴以外とはしない」
腕を組んだまま見据えていうと、しばらくの間沈黙が流れた。これだけ言えば引くか、そう思った。それでも彼女は、それでいい、そう言った。ここまで言ってんのに受けんなよ、小さく言って舌打ちをする。それでも遥は、素知らぬ顔をしていた。水戸の本心を曝け出したのに、どうしてもするのか、と気が重かった。なぜそのまま職場の同僚でいてくれないのかと、今の状況に導いた自分を厄介だとも思った。そして俯いて、また息を吐いた。
「どこか行くの?」
「会社以外では会わねえっつったろ?」
「じゃあここで?」
「嫌ならやめる」
「ここでいいよ」
参りました、水戸は白旗を揚げた。どう言っても引かねえんだなこのおねーさんは。彼女の形振り構わない様を、水戸は素直に尊敬する。それでも迂闊には手を出せなくてそのままでいると、遥は自分のシャツに手を掛けた。ボタンを一つ一つ外して行く。
「ちょっと待った」
さすがに居た堪れなくなり、水戸は遥の手を取った。柔らかくて冷たいそれは、三井の掌とは全く違った。一瞬、彼の顔が脳裏を過る。今頃あの人は出掛ける準備をしてるのかもしれない、水戸の頭の中で、三井が寝過ごして慌てて支度をしている姿が浮かんだ。朝食は水戸が用意しておいた。ご飯、味噌汁、出汁巻卵、漬物、それは三井が水戸によく要求するメニューだった。そんなことを考えながら水戸は、遥を事務所の隅まで追いやった。ここなら外からも見えないからだった。誰も来ない。それは分かっていた。古びたエアコンの音が、室内で声を上げている。同時に、室外機の音も聞こえた。
普通に女性と行為に及ぶのはいつ振りだろうか。朧気にしか思い出せない。水戸はぼんやりしながらも、酷く冷静だった。特に嫌悪感もないまま、彼女の着ているシャツのボタンを外した。キャミソールを捲り、ブラジャーのホックを外す。そこに手を伸ばして触れると、遥は声を上げた。柔らかくて、これも三井とは違った。三井は突起を構われるのが好きだった。同じように摘んでから舐めると、一層声を上げる。軽く噛んでも同じだった。この人もこういうタイプか、水戸は単純にそう思った。しばらく身体中に触れて噛むことを繰り返しているうちに、お願い触って、遥は掠れた声で言った。それでデニムのボタンを外し、ジッパーを下ろした。下着の中に手を入れて撫でると、そこはもう濡れていて、水戸は思わず笑った。
「おねーさん、凄いね」
「もう無理。立ってられない」
「じゃあそこ座んな」
そんな高いヒール履いて来るからだろ、水戸は遥の耳の辺りで言った。すると彼女は、水戸の首に腕を回しながら床に座り、キスを強請った。
「だめ」
「どうして?」
「最初に言ったろ?守れないならしない」
潤んだ目を見ながら、切り捨てるように言った。それでも彼女は引かなかった。遥のデニムと下着をずるずると下げると、彼女は自分で脱いだ。衣摺れの音が耳に届いたと同時に彼女のそこをなぞりながら、三井は今頃何をしているのだろう、とまた考えた。唇は遥の首に触れ、鎖骨を軽く噛みながら、三井のことを考えていた。時間は午前十一時前。今頃起きて、朝食をかき込んでいるのかもしれない。最初は味噌汁を飲んで、次はご飯、卵焼き、それからまた味噌汁。大概その流れだ。
水戸も今朝、三井に用意した同じ物を食べた。その唇で今、遥の肌に触れていた。匂いが違う。感触が違う。柔らかさも弾力も違う。水戸は指を入れた。遥は鳴くように喘いだ。溢れてくるそこを掻き回しながら、ここが好きなんだな、と何気に思う。男性とはまるで違うそこは、水戸を現実に引き戻した。これが現実。でも俺には、あの人が現実。けれども夢でも幻でもない目の前の鳴く女性にしていることが、今水戸が実際に行っている行為だった。
遥が、もうイキそう、と短く息を吐きながら言った。そうすると水戸は指の動きを止めた。それを何度も繰り返した。もう無理、そう言ったから、仕方なくイカせた。呆気ない、と思いながら、抱き締められている腕を外し、水戸は自分の腕の匂いを嗅いだ。変な匂いがする、そう思った。指は濡れていて、早く洗い流したいとも思った。
「終わり」
「え、どうして?」
「十分だろ、自慰のお手伝い」
「ほんとに酷いのね」
「男を見る目がないんだっけ。そうだと思うよ」
「酷いの分かってるのに諦められないんだけど」
「参ったな」
水戸は苦笑した。三井以外の執着には慣れていなかった。そしてその執着を、自分が苦手としていないのも確かだった。
「入れてよ」
「だって俺勃ってねえんだもん」
そう言うと、彼女はぎょっとしたように水戸を見た。そして俯いて言葉を失っていた。
「ごめんね、ほんと」
言った所で聞いていたかも分からないから、事務所の鍵を遥の前に置いた。鍵よろしく、じゃあ月曜に。そう言って立ち上がり、事務所を出た。
整備場所にある水道で手を洗いながら、また自分の腕の匂いを嗅いだ。外の空気に掻き消されたからか、変な匂いは消えていた。水戸は、無性にキスがしたかった。その相手は三井しか居なかった。会いてえなぁ、天井を仰ぎ見ながら、帰宅した所で三井はいないことはよく知っていた。
そのまま帰宅するのは気が乗らず、パチンコ屋へ寄った。少しだけ勝ち、買い物をして自宅に戻った。ただいま、と小さく呟いてみるも当たり前に三井は居らず、息を吐いた。今日は合挽き肉が安かったから、ハンバーグにしようと決めていた。三井はそれを好んでいた。携帯を見ると、メールが一件届いている。送信者は三井で「七時には帰る」とあった。自分だって業務連絡だろ、普段から思っていたけれど、水戸は口に出したことはなかった。掃除等を終わらせてから七時に間に合うように、ハンバーグとポテトサラダを作った。すると玄関の開く音がする。すぐにリビングのドアが開いたと同時に、ただいま、と声がする。
「おかえり」
そう言って三井の顔を見た瞬間、水戸は酷く安堵した。
「お、ハンバーグ!ポテサラもあるじゃん、どうしたよお前。やる気あんな」
「どんなやる気だよ。手ぇ洗って来な」
摘み食いをしようと伸びかけた手を制すると三井は気怠そうに、はいはい、と声を出した。すぐにリビングを出て、洗面所で水を出す音がする。水戸は自分の手を見た。あれからもう、何度も手は洗っていた。それでも何故か、どこか不思議な感覚だった。罪悪感か、と言われたら全く違った。浮気だろ、と言われたらそれも違う。気持ちのないあんな行為、ただのボランティアだろ?水戸は、三井のキスが欲しかっただけだ。
リビングに戻って来た彼を目で追っていると、冷蔵庫を開ける為にキッチンへやって来た。ビールを取り出し、プルタブを開けて飲んだ。あー、と声を出す仕草が、正に男性のそれで、水戸は思わず笑う。何だよ、三井が訝しむように言ったので、水戸は、別に、と返した。
「あんた明日休み?」
「休み。どうすっかなぁ、どっか行く?」
「何でもいいよ。付き合うから」
水戸は皿を取り出しハンバーグを盛り付けながら言うと、三井が黙る。今度は水戸が訝しんで彼を見ると、少しだけ妙な顔をしていた。
「何だよ。変なこと言ってねえだろ?」
「いや、変だよお前。無駄に優しいっつーか」
「無駄って何だよ、おかしいだろそれ」
はは、と笑うと、三井はまたビールに口を付け、まあいいや、と笑った。
「三井さん」
「ん?」
「キスしていい?」
そう言うと次はぎょっとしたような顔をする。くるくると表情を変えるから、面白い人だと心底思う。見ていて飽きない。多少狼狽えはしていたものの、水戸が菜箸を置いて三井の頭を引き寄せた瞬間、三井はステンレスの上にビールを置いた。躊躇なく口付け、すぐに舌を差し込んだ。水戸は自分の体が疼いたのを感じ、この衝動を起こすのは彼だけだと思い知る。何度も角度を変えてキスをして、首の辺りを噛んだ所でキリがないと今更思った。
「メシ食う時間勿体ねえな」
「いやいや、食わせろよオレのハンバーグ」
「はいはい、ごめんね」
一度体を離し、最後にもう一度キスをした。水戸の現実は結局ここにしかないことを深く深く思い知る。奇しくもそれは、夏の終わりだった。





終わり。

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