短編

□瞼を閉じてはならない
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水戸と再会してから、約一ヶ月ほど経った。
連絡をするのはほぼ三井で、一度目に携帯を鳴らした時、彼の声を聞けないのは当たり前だった。考えてみれば今の三井は、シーズン前で時間がある時の方が多い。雑用や会議をするのが午前中、そして午後二時辺りからチーム練習、それが主だ。だから遅くとも、午後七時には仕事が終わる。再会した当初、毎日連絡をするのは癪に触るので、三日置きくらいの間隔で連絡をしていた。けれども、そういった小細工が通用する相手ではないことも元々知っていたから、今は下手な細工をすることも止めている。再会してから合鍵を渡され、どんな風の吹きまわしだと思ったのと同時に、こいつがこれを他人に渡すのは容易じゃないことも知って、抜け出せなくなりそうな背筋の騒つきを感じた。
遠慮するのも馬鹿馬鹿しいから、三井は水戸に毎日のように電話を掛けた。今何やってんの?事務処理?へえお前そんなこともするんだ、そんな会話をしてから携帯を切る。そういう時の水戸は、あの頃のように面倒そうな、怠惰な声を出すことはなかった。ああ三井さん、まだ終わんねえよ事務処理してる、するよそれくらい、そういう言葉を低すぎない声で喋る。それが心地良い反面、声だけだと物足りなくなるのも確かだった。
チーム練習を終え、着替えた後に外に出た。立秋も過ぎたのに、外は酷く生温かった。午後七時でも当たり前に明るくて、薄暗くもない。未だに蝉も、遠くの方から鳴いている。うるせえなぁ、と思いながら、鞄から携帯を取り出した。特に着信もなかったけれど、勝ち負けも何もどうでもいいから、水戸の声が聞きたいと思った。三井を面倒だと遇らわない、背筋に触れるようなあの声が。三井さん、と呼ぶ水戸の声を思い出した瞬間、三井はもう、携帯の履歴画面から水戸の名前を出して通話ボタンを押していた。
『はい』
「オレ」
『どうした?』
これこれ。三井はそう思った。今までだったら『何か用?』水戸はこう言っていただろう。
「お前仕事終わった?」
『うーん、八時には』
「飯行かねえ?」
『ああ、いいよ』
このスムーズなやり取り天と地の差だ。三井は一人、うんうんと頷いた。
「じゃあそっち行ってるわ」
『そっちって俺の職場?』
「おう。よろしく」
はいはい、水戸はそう言って通話を終わらせた。三井はそのまま、駅の方へと足を進める。水戸の職場は藤沢にあった。川崎からそこの最寄駅まで三十分程度掛かる。そこから徒歩で約十分。八時前には水戸の職場に着くだろう。三井は頭の中でそれを計算しながら、駅まで向かった。
JRはそこそこ混雑していた。サラリーマンなどで人は多かった。けれども蒸してはいなくて、空調は整っている。汗が冷える感覚があった。けれども、練習に加えて徒歩で駅まで来たからか三井の体は酷く汗ばんでいて、この冷たさが心地良い。シャワー浴びてくれば良かったと少しだけ後悔していたけれど、水戸に早く連絡をしたいという感情が先走った。早く会いてえなぁ、吊革に掴まって電車に揺られながら、どこか散漫な気持ちの中で、それだけはしっかりと形作っている。
水戸と会うのは、再会してから三度目だった。あの勤労学生が社会人になっているのだ。彼が就職し始めた頃はほぼ会っていなかったから、三井には未だに高校生の水戸のイメージが強かった。リーゼントの変に生真面目な不良、そのイメージが大きい。それが今は全く違う。口調だけじゃない。髪型も、雰囲気も、言葉も。それがまだ、信じられない自分が居た。要するに三井は、今の水戸を知らなかった。知らないことが多過ぎた。
そんなことを考えながら、約三十分程度電車に揺られ、藤沢に着いた。電車を降り、駅構内から外に出る。すると、蒸し暑さは変わらなかったけれど、もう陽は沈んでいた。はー、と一つ息を吐いて、空を仰いだ。夏の夜だ、と今なぜか無性に思う。ここからまた約十分程度歩けば水戸の職場だ。時々生温い風が、頬を撫でた。あち、と独り言ちながら、また淡々と歩く。コンクリートとスニーカーの擦れる音が、酷く耳に残った。
しばらく歩くと、「永瀬モーター」と書いてある看板が目に付いた。ここに来るのは初めてではなかったけれど、来た時は毎回整備工場は真っ暗だ。灯りは点いていない。今日は事務所と思われる場所でさえ、灯りは点っていなかった。そのまま駐車場へ向かうと、ゆらりと白い線が揺れているのが見えた。煙草の煙だ、三井は瞬時にそう思った。まだ見慣れない水戸の車の側で、煙が揺れている。水戸だ、そう思った瞬間に、三井は小走りしてそこに近付いた。
「水戸!」
振り返った先の水戸は、やはりリーゼントではなかった。これにも三井は見慣れなかった。水戸が右手を上げた。
「よう、お疲れ」
そう言うと水戸は、三井に近付いた。三井から見た彼はいつも、平然と冷静に見える。それが、酷く腹立たしかった。
「乗りなよ」
「……おう」
親指で水戸に施され、助手席を開ける時も、三井は上手く言葉を繋げられない。ただ無愛想に返事をするしか出来なかった。助手席に乗り、シートベルトを付けた。既にエンジンは掛かっていて、車中はほどよく冷えていた。
「何食う?」
「あー、うーん、どうすっかなぁ」
「あんた、誘っといて食いたいもんねえの?」
「うるせえなぁ。今考えるよ」
そうは言ったものの、三井は特に思い浮かばず、唸るばかりだった。横で運転する水戸が急に、息を吐くように笑った。何だよ、三井が言うと彼は、別に、と前を見ていた。
「じゃあ、うちの近くのラーメン屋にする?時々行くんだよ。メシ作るのめんどくせえなって思った時とか」
「お前とメシ食う時はラーメンか定食屋の確率が高えな」
「文句言うなら考えとけよ」
呆れたように言う水戸を横目で見て、三井は黙る。ばつが悪くなった訳じゃない。ただ、どこでも良かったのだと気付いた。水戸に会えれば、食事をする場所など、食べる物など何でも良かったのだと。
「なあ」
「何?」
「お前、あそこで働いて何年だっけ?」
「バイト時代含めたら六年、かな」
「もうそんなになんの?」
そうだね、小さくそう言った水戸を見ると、彼は親指で顎をなぞっていた。
「後輩とか居んの?」
「居るよ、二人」
「何てやつ?」
「藤田とぽち」
「ぽち?」
「あだ名。昔飼ってたしば犬のぽちに似てるってシゲさんが付けた」
「シゲさん?」
「すげえ上手い先輩」
ほー、と息を吐くと、水戸はまた笑った。何だよ、また三井は言うと、一瞬だけ水戸は三井を見る。その時、対向車線を車が走り過ぎ、水戸の顔が流れるように明るくなる。けれどもそれは、一瞬で消えた。
「今日は質問攻めだね」
「だってお前、自分のことは聞かれたら喋るんだろ?」
それに水戸は答えず、三井には少しだけ水戸が目を伏せたように見えた。声も出さず口元だけで笑うと、水戸は煙草を一本取り出し、火を点ける。彼は窓を開け、片手で運転しながら片手では煙草を持っている。その指を時々口に近付け、少しだけ目を細めて煙草を口に吸い込む。額には昔はなかった前髪が掛かっていて、眉下辺りで切られていた。高校生の頃、彼の表情は少しだけ大人びて見えた。けれど今は、年相応に見える。それでもふとした瞬間に見せる憂いたような目は、昔と変わらず大人びていて、何を考えているのかよく掴めない。真意が分からなくとも、三井は彼のその目が好きだった。
三井はじっと水戸を見ていた。変わった箇所もあれば、変わらない箇所も当たり前にある。全てひっくるめて、これは水戸洋平なのだと思うと、問答無用で背中が疼いた。背骨がざわざわする妙な感覚だった。
「何見てんだよ」
久々に聞いた台詞だった。けれどもあの頃のような、因縁をつけるようなそれではない。声も柔く、揶揄を含んでいる。
「なあ、メシ食うのやめねえ?」
「は?俺すげえ腹減ってんだけど」
「じゃあとっとと食ってお前ん家行こうぜ」
「先輩は相変わらず露骨だよね、いっそ清々しい」
「うるせーんだよ!」
互いに笑ってはいたけれど、三井は自分の熱を十分に感じていた。水戸に触れたい、触れて欲しい、頭の中には今、その淫らな自分の欲望が渦巻いていた。

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