短編

□運命をつくった少年
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水戸の朝は早い。特に疲れていなければ、六時には起床する。ベランダで一服してから、洗面所で顔を洗い、ざっと髪を整える。リーゼントも随分前に辞めてしまったから、前髪を下ろしたこの髪型にも慣れてしまった。
今朝は洗濯機を回さなくても良かった。なぜなら昨夜洗濯して、干しておいたからだ。夜時間があれば、夜のうちに洗濯物は終わらせておくと朝が楽だ。
それからキッチンへ行き、朝食と弁当の準備をする。朝食は簡単な物で良かった。パンとベーコンエッグとコーヒー、それを二人分準備すれば良い。弁当も残り物を詰めて冷蔵庫に入れておいてあるから、それを取り出せば良いだけだった。今は夏だった。毎日暑く、空も高い。青空と雲が、リビングの大きな窓から見えた。今ベランダに出れば、少しずつ蝉の声が聞こえるのではないだろうか。
朝食の準備が終わった所で、三井が寝室から出て来た。おはよ、と未だに眠そうで覚束ない声を出してから、洗面所へ向かった。タイミング良いなぁ、水戸は呆れながらも思った。そして、犬か、とも思った。彼は朝食の匂いを嗅ぎ付けて起きて来たに違いない。水戸はそう思った。そして、今のうちに洗濯物を外に出しておこうと決めた。
朝食はテーブルに座り、二人で食べた。特に会話もなく、というより三井が未だにぼんやりしていて、会話にならなかった。この家では、三井が言葉を発さないとお話にならない。水戸には食事をしながら会話をする習慣がなかったからだ。食事中に喋るのは親友達とだらだら飲み食いする時だけだった。今も尚、それは変わらない。その時だった。なあ、と、三井がようやく言葉を発した。ちょうど窓から外を眺めてコーヒーを飲んでいた時に言われたので、水戸は三井に視線を移した。
「ん?」
「今日って遅くなんの?」
「んー、分かんねえ」
「ふーん」
「え、何?」
あからさまに不満そうな三井に水戸は訝しみながらも、またコーヒーに口を付ける。
「なあ」
「だから何」
「永瀬モーターってどんなとこ?」
「何だよ急に。どうした?」
「お前さぁ、どんだけ忙しくても文句一つ言わねーじゃん。そんなに面白えの?整備士って」
三井に言われ、水戸は沈黙する。文句言ってなかったか?と考えたけれど、言われてみれば彼に言ったことはなかった。それどころか、誰か他の人間にも言っていたかも分からない。面白いか面白くないかも、あまり考えたことはなかった。もっとも、つまらないと考えたこともないのだけれど。
「三井さん」
「んー?」
「それ宿題でもいい?」
「何がだよ」
「整備士が面白いかどうかって話」
「はは、どうぞ」
話はそこで終わり、後は調子を取り戻した三井が一人でくだらないことを喋り、水戸は相槌を打った。それから歯を磨いて着替え、仕事に向かった。水戸が部屋を出る時、三井はまだ居た。それでも職場には行くようだった。シーズン前だからか、雑用や練習もあるようだ。この時期彼は、時間がある時とない時の差が激しいように水戸は思う。
職場へは私服で出勤する。それは永瀬モーターに就職した頃から言われていたことだった。その時社長の永瀬は水戸に、「仕事とプライベートはきっちり分けろよ?着替えたら引きずるな。仕事でもプライベートでもだ。それが上達する一歩目」と教えてくれた。作業着で出勤するのではなく、私服で出勤することがそこに繋がるのだと、彼はそう言ったのだった。格好良い人だと最初は思った。もっとも、今はどうかと言われたらよく分からないのだけれど。三井からの、整備士は面白いか、という問いは、妙に永瀬モーターのことを考えさせた。
自宅マンションから職場までは車で凡そ三十分程度掛かる。この車は、職場の繋がりで購入した、当時は新車のホンダのHR-V。これに乗ってもう六年近い。未だに気に入っていて、手放す気も他の車に手を出す気もなかった。これを購入する際、永瀬を始め、佐藤や安井と散々話し合った。初めての車ということもあり、元々車好きの集団ということもあって男達は盛り上がった。あれが良いんじゃないかこれが良いんじゃないか、と議論した挙句、水戸は今の車を一目見てそれに決めた。即決したのは今も時々乗るバイク以来だった。車を購入してから、通勤は専ら車になった。雨の日に電車通勤しなくても良くなり、移動も楽になる。車検の度にどこかを少しずつ直し、通勤以外でも乗ることは多かった。だからキロ数も増えた。それでも他の車に目移りすることはなかった。
職場に着くと、まずは更衣室へ向かう。夏場の水戸は、大概Tシャツを着ているから、デニムを脱いで作業着を着れば良いだけだった。毎日使っているキャンバス地のトートバッグから洗い立ての作業着を取り出し、デニムを自分のロッカーに入れてから、それを着た。まだ整備工場へは行かないから、袖は腰に巻き付けておいた。今日も暑くなりそうだと、駐車場からここに向かうまでの間に聞いた蝉の声を思い出しながらそう思った。すると背後から、おはようございます、と間延びした声が聞こえる。振り返らなくともそれは、後輩の藤田だと分かった。スニーカーを脱いでロッカーから取り出したエンジニアブーツを履きながら、おはよ、と短く水戸は返した。
「水戸さん、聞いてくださいよ」
「やだ」
「えー!冷たい!」
「普通」
藤田は水戸の左隣のロッカーだった。その方向を見遣ると、あからさまにショックを受けた顔をしている。が、その直後、すぐに笑顔に戻った。彼もまた着替えながら、嬉々として喋り出したのだった。
「新しい彼女出来たんっすよ、オレ」
「聞かなくても勝手に喋ってんだろ、お前」
すると、背後からまた更衣室のドアが開く音がする。振り返るとそこには、ぽちの愛称で呼ばれている神田が立っていた。
「あ、おはようございます」
「おはよ、早いな」
神田は少しだけ目を伏せ、いえ、と言うと、かぶりを振った。そして藤田の左隣のロッカーを開ける。要するに、左から神田、藤田、水戸の順でロッカーが並んでいた。水戸の右側が安井、佐藤の順だった。水戸は不意に、自分が入社した頃二人の後輩は居なかったと、当たり前のことを考えた。
着替え終えた水戸は、お先、と一言言うと、トートバッグを持って事務所に向かった。そこにはまだ誰も居らず、蒸した空気が充満している。水戸はまずエアコンのスイッチを入れた。それからパソコンの電源を入れ、トートバッグからメガネケースを取り出した。パソコンが立ち上がるまでにメガネを掛け、少しの間待った。古い型のパソコンだからか、立ち上がりが遅い。しばらく待つと、デスクトップが明るくなる。まずはメールチェックすると、新しいそれが三件あった。一件は納期の件、二件目は部品発注の件、もう一件は整備した車に対しての礼状だった。メールは全て会社のアドレスに届くのだけれど、水戸が返信することが主だった。時々、礼状が届くことがある。このお客さんの車は誰が整備したっけ?と考え、それは自分だと気付いた時、酷くむず痒い気持ちになる。それに返信しながら、このむず痒い気持ちは自分が嬉しいからだと気付くのに、さほど時間は掛からなかった。三件のメールを返信し終わった頃、事務所のドアが開いた。
「おはようございます」
その声に顔を上げると、経理の遥が自席に荷物を置いた所だった。
「おはようございます」
水戸もそれに返し、一度パソコンを閉じる。それからメガネをメガネケースに戻した。あ、と思った。
「遥さん」
「はい」
彼女は水戸の声に顔を上げた。水戸は立ち上がり、彼女の席に近付く。
「昨日の夕方、多田さんから振込完了のメール届いてましたよ。確認しといてください」
「分かりました。ありがとうございます」
彼女とは三日ほど前の夜、ここで会っていた。だからと言って、彼女は仕事中は一切それには触れないし、もちろん水戸もそうだった。彼女は仕事中、口調も声色も全く違う。水戸はそう思う。
そろそろ就業時間になる。この時間から人数が揃い始め、安井や佐藤も一度事務所に来る。そこで水戸は、今日の仕事の確認を全員に取り、もう一度備品や時間などを頭の中で計算し、それを整備士全員に告げる。その辺りでようやく、社長の永瀬が事務所に入って来るのだった。重役出勤さながら、彼の出勤は一番遅い。
「はいはいおはようございまーす。今日も一日頑張りましょー」
永瀬が間延びした声を発したのを合図に、各々が短く返事をし、持ち場に付く。水戸は腰に巻いていた袖を腕に通しながら、外にある整備工場へ向かった。佐藤と安井の仕事は早い。早いだけではなく綺麗な仕事をする。水戸は様々な場所に研修に行ったことがあるけれど、彼等ほど綺麗な仕事をする人間を見たことがなかった。それを周囲が知ってか知らずか、顧客が減ることはなかった。むしろ増える一方だった。それの根っ子を作った二人の先輩を水戸は、素直に誇りに思い、心底尊敬出来る大人だとも思っていた。この二人は今も尚、水戸に足りないものがあれば教えてくれている。
そして今は、二人に教えられたことを水戸が後輩二人に伝えていた。
「藤田」
「はい」
「ここ」
水戸は藤田が整備する車を覗き込み、レンチで軽く叩いた。こんこん、と軽く金属音が響く。
「ここが緩いから、必然的にここも緩むんだよ。分かるか?」
「はい。すみません」
その時水戸は、佐藤の声を思い出した。洋平!彼はそう言ってよく水戸を怒鳴っていた。その声は水戸にとって、酷く心地良かった。自分にはまだ見込みがあると、そう思えたからだ。あの人はむやみやたらに人を怒鳴らないことを、水戸はよく知っていた。そして仕事が出来ると、よく頭を撫でてくれたことも思い出した。
「藤田」
「はい」
「大丈夫だ。ちゃんと上手くなってる」
そう言って水戸は、藤田の頭を二度ほど軽く撫でた。彼は水戸を見て、酷く喜んだ顔をした。そして、あざーっす!と工場内に響き渡る声を上げた。うるせえな、水戸はそう返し、撫でていた頭を軽く叩いて笑った。俺もあんな顔してたのかな、水戸は不意にそう思った。
次は神田の仕事を見た。彼の仕事は丁寧だった。その分時間は掛かった。けれども、教えられたことを間違いなくやることに関しては人一倍上手かった。それは本人の努力の末だということも、水戸はよく分かっていた。ボンネットの中をチェックしながら、水戸は思う。
「上手くなったな」
「え?」
「まあ、時間は掛かるけど」
「あ、すみません」
「頑張んな」
そう言って水戸は、今度は神田の頭を撫でた。歯を噛み締めるような表情を浮かべた彼を見て、水戸はまた同じように思う。俺もあんな顔してたのかな、と。
昼休憩になると、藤田が独壇場で喋り出す。今日の話題は新しい彼女の話だった。それを社員全員で聞いたり「上手くいかないに賭ける」と突っ込んだりする。もっともこういうことを言い出すのは永瀬なのだけれど、全員が上手くいかない方に賭けるから賭けが成立しない。水戸はそれを聞きながら笑ったり、はたまた聞いていなかったり、それは様々だった。だから、しんと静まり返った昼食の時間というのはほぼない。男達の昼食は早く、その中でも特に水戸は早い。凡そ十分程度で食べ終え、喫煙組は外に出る。以前は事務所で煙草を吸うこともあったのだけれど、それも減ってきていた。水戸がここで煙草を吸うのは残業の時か休日出勤した時くらいだ。ごちそうさまでした、水戸は手を合わせて小さく言ってから、外へ出る。
水戸が外の喫煙所で煙草を一本吸い終わった頃、佐藤や安井がやって来る。その後、永瀬が来る流れが多かった。一本目の煙草を吸いながら、午後からの仕事を考えた。普通に帰れそうだと思ったから、携帯を取り出し三井にメールを打つ。「普通に帰れます」それを打ってから、送信ボタンを押した。するとすぐに返信が届いた。「了解。オレは早い。メシ作っとく」その文字を眺めながら、珍しい、とただ思った。返信はせず、携帯をポケットに戻した。そこで、佐藤と安井がやって来る。お疲れ様です、と言うと、二人は手を上げてから煙草を取り出し火を点ける。こういう時、三人は色々な話をする。仕事の話の時もあれば、安井の家族の話、佐藤の亡くなった妻の話をすることもあった。それを聞きながら水戸は、必ず思うのだ。この二人ほど格好良い大人の男は居ない、と。
「洋平」
「はい」
佐藤が水戸に声を掛けた。その声は酷く穏やかだった。最近の彼は、怒鳴ることをしない。だから時々、水戸は佐藤の怒鳴り声を思い出し、それに馳せる時があった。
「お前は怒鳴んねえなぁ」
「……そうっすかね」
ちょうどそんなことを考えていたからか、一瞬だけ言葉に詰まる。すると安井が苦笑した。
「シゲさんが怒鳴り過ぎなんだよ。洋平が入る前に何人辞めたとか俺思い出したくねーもん」
「最近の若い奴は堪え性がねえだけだ」
「洋平も最近の若者じゃないっすか」
すると佐藤は、ばつが悪そうな顔をして、頭を掻いた。それから水戸を見下ろし、目に皺を寄せて笑う。
「にしてもまあ、上手くなったなぁ洋平」
「え?」
水戸は佐藤を見上げた。佐藤は水戸より、少しだけ背が高かった。少しだけ痩せた体躯をしていて、笑うと幾らか年若く見える。その顔が、水戸は好きだった。佐藤の大きな掌が水戸の頭をぐしゃぐしゃにして撫でた瞬間、水戸はまた、入社してから二年は毎日にように怒鳴られ、褒められ、今と同じように大きな掌で撫でられたことを思い出した。上手くなったな洋平、そう言って佐藤は、ぐりぐりと水戸の頭を撫でた。それが今何故か、走馬灯のように頭の中を駆けた。
「ガキみてえな顔してんじゃねえよ」
その言葉を聞いた瞬間、意識が戻る。そして今度は、水戸の方がばつが悪くなる。
「シゲさん、俺もう二十五っすよ」
「二十五なんてまだまだガキだろ」
水戸は佐藤と安井が笑うのを見ながら、もう一本煙草に火を点ける。その時、おーい、と声がした。もう一人、大体この頃やって来るのは永瀬だった。
「なあなあ洋平」
「何すか」
「遥ってどんなとこに連れてったら喜ぶかな」
「知りませんよ。本人に聞けばいいでしょ」
水戸は呆れながらも、永瀬の言葉に笑った。そして思った。宿題の答えが出そうだ、そう思ったのだった。

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