短編

□蝶と嵐
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今日の神奈川は、雨が酷く降っていた。
ここ二、三日目ずっと天候が悪かった。今日は殊更酷い。暴雨に近いものがあった。水戸は他人事のように、すげえなあ、と考えていたのだった。所詮水戸の仕事にはあまり影響はなく、今日もいつも通り整備する車も事務処理も普通にある。
水戸は仕事に行く前、歯を磨く。洗面所で鏡を見ながら磨く。そうしていると大概三井がやって来て、おらどけ、と言う。そして歩きながら歯を磨く。一つの場所にとどまれ!水戸は幾度となく思ったけれど、それを口に出したことはない。理由は一つ。言った所で聞かないからだ。今朝も来た。足音が近付いて、その内鏡越しからその姿が見える。おらどけ、そう言うに違いない。そう思っていた。が、しかし今日は違った。
「駅まで乗せろ」
ちょうど歯磨きを終えた水戸は口を濯ぎ、歯ブラシをコップに戻した。そして鏡越しではなく、本人を見る。
「は?」
「は?じゃねーんだよ、送れ駅まで」
「やだ」
「はあ?!見ただろこの暴雨!オレがびしゃびしゃになんじゃねーか!乗せろ!川崎まで行けなんて言ってねーだろ?!」
川崎まで行けとか言ったら殴ってるよ、そうは思ったけれど口には出さなかった。暴君だ、水戸はつくづくそう思う。
「まあいいけど、準備出来てんの?」
水戸が息を吐いてから言うと、三井は洗面所へ近づいた。そして、おらどけ、と言うと、歯ブラシを手に取る。
「早くしろよ。こっちも仕事あんの」
「分かってるよ!」
歯磨き粉を付け、口の中に入れると三井はすぐにうろつきだした。水戸は着替える為に寝室へ向かい、その時に三井を見る。すると彼は、テレビを見ながら歯を磨いていた。洗面所で磨け、そうは思ったけれど勿論口には出さず寝室に入った。今日は蒸していた。七月初めの今の時期は、蒸すことが多い。気温も急に上がり、湿度も高かった。毎朝ベランダで煙草を吸っていると、それを顕著に感じる。雨だからかいつも以上にむわりとした空気が纏わり付いて、雨の匂いも鼻を掠めた。水戸は雨を嫌いではなかった。耳に触れる音と雨水の生々しい匂いが、水戸を無心にさせるのにちょうど良いからだ。
クローゼットを開け、黒のTシャツとベージュのチノパンを取り出した。両方とも、三井が買って来た物だった。稀に三井は、こういうことをする。どうも、と受け取ると、酷く満足そうに笑う。それも水戸は、嫌いではなかった。部屋着のTシャツとスウェットを脱ぎ、新しく黒のTシャツとチノパンを履いた。そうしながら思う。三井には雨は似合わない、と。彼は華やかな人だと、水戸は思う。普通で華やかな人だと。だからやはり、雨は似合わない。水戸は繰り返し思った。
着替えてリビングに戻ると、未だに三井は歯を磨いていた。テレビを見ながらだらだらと、それはそれは怠惰に歯を磨いているように見える。きっと彼は、送ってもらえるからいいや、と高を括っているに違いない。
「おい、急げ」
水戸が言うと三井はようやく動き出し、洗面所へ向かった。水を出す音がして、歯を磨き終えたのだと分かった。水戸はその間に、弁当箱とペットボトルを冷蔵庫から取り出し鞄の中に入れた。すると三井も洗面所から出て来て、寝室へ入る。着替えたら出れそうだと思った水戸は、テレビを消してエアコンも切った。少しして寝室から出て来た三井はスーツを着ていた。三井は大概、出勤時にはスーツを着ている。
「もういい?」
「おう」
それを合図に歩き出し、二つ足音が並んだ。後ろに居るのは大概三井だ。玄関でまず、水戸がスニーカーを履いた。水戸はずっと、コンバースの黒のローカットを履いている。これも三井が買って来た物だった。水戸はあまり自分で買うことはなく、特に頓着しなかった。だから見兼ねて、三井が買って来るのだと思う。三井はビジネスシューズを履いた。それにも水戸はあまり興味はないけれど、お高いんだろうな、とは思っていた。
三井が靴を履いたことを確認し、水戸は玄関を開けた。起きた時と同じように湿気た空気が纏わり付いて、それを苦手な三井は既に、不快そうな声を出した。背後から聞きながら水戸は、車の中でもうるせえんだろうな、とただ思った。駐車場まで無言で、車の鍵を開けると雨が当たらないように走って中に入る。傘は持っていたけれど、駐車場までの短い距離で差すことはしなかった。三井は一言、すげー雨、とぼやくように呟いた。エンジンを掛けると、通勤中に聞いているAMが流れる。ちょうど天気予報が流れた。今日の神奈川は一日中雨です、だそうだ。水戸はそれを聞きながらメガネを掛け、サイドブレーキを下ろし、ギアをドライブに入れた。
駅まで凡そ十分程度だ。特に遠回りでもなかったけれど、この時間帯の駅周辺は酷く混む。それが水戸は億劫だった。朝でも薄暗い外の景色は、少しだけ霞んで見えた。横では三井が常に喋っていて、流れているAMと混じる。そこは特に違和感もなかった。水戸は三井の言葉に、うん、だとか、ああ、だとか当たり障りない返事ばかりしていた。要は聞いていなかった。三井の言葉の羅列は、水戸にとってはラジオと一緒だった。ぼんやりと上の空で聞いても耳馴染みの良い、よく通る心地良い声と同じだった。
「おい、聞いてんのかよ」
「あんまり」
「そういう奴だよ、お前は」
つまんねえの、三井は最後、またぼそりと呟いた。そのやり取りに水戸は少しだけ笑っていると、駅まで着いた。やはりそこは、ある程度人と車で詰まっている。思った通りだった。三井が考えるということは、他の人間も考えることは同じだ。
「じゃあな、さんきゅ」
「じゃあね」
三井は水戸に手を上げ、同時に助手席のドアを開ける。そしてすぐに閉められたそれは、雨に紛れながらもそれなりに大きな音が鳴る。傘を差して歩き出した三井を見送った後、また水戸は車を走らせた。職場には特に遅れることなく着いた。元々早めに出ていることもあるし、水戸が遅刻することはまずない。職場に着いても当然雨で、後部座席に置いてある傘を取り出した。ドアを開け、それを差して歩き出す。空気も当然湿っていて、既に首筋がじんわりと汗ばむ。それを何気なく感じながら、今日も仕事だと水戸は思った。
昼休憩時、外の喫煙所に行くと、そこでは先輩の安井が煙草を吸っていた。彼は水戸に一度手を上げる。水戸も軽く会釈してそこへ近付き、煙草に火を点けた。お疲れ様です、そう言うと安井は、お疲れ、と笑った。一度煙草を吸い込んで吐き出した所で、今日は普通に帰れることを連絡しようと携帯を取り出した。すると既に、メールが一件届いている。送信者は三井だった。その文面を見た瞬間、水戸は思わず声を出した。は?そう言った。
「洋平?どうした」
「いや、同居人が雨が凄えから夜迎えに来いって」
「はは、同居人ってサンダースの三井コーチだっけ?」
「やっさんまで知ってんすね」
「永瀬モーターの職員は全員知ってるよ」
水戸は苦笑しつつも、藤田のやろう、と思った。そして三井のメールにも。はあ、と息を吐くと、安井は笑った。
「三井コーチってどんな人?俺一回テレビで見たことあるけど、すげえかっこいいよな」
「どんな人って、雨だから迎えに来いって言うような我儘な人っすよ。もうまじで勘弁です。自分で帰れよって思うんすけどね」
「でもお前は行っちゃうんだよなぁ」
「……まあ」
「優しいねえ、洋平は」
優しいのかな、水戸はそう思いながら、煙草に口を付ける。優しいかどうかは置いて、安井の言う通り、迎えには行くのだろう。だから、帰る時に連絡します、とメールを返した。仕事をしながら時折外を眺めるも、結局夜まで雨は止まなかった。かといって暴雨でもなかった。これ普通に帰れるだろ、とは思ったものの、結局迎えに行くことはやめなかった。仕事を終えて着替えた後、今から向かいます、とメールを打った。そして朝と同じようにまた傘を差して、駐車場に向かう。車に乗り、エンジンを掛けた。やはり朝と同じように、AMが流れる。今は男女のパーソナリティが思い思いに喋るという番組のようだった。耳馴染みの良い声が、上手く鼓膜を通り過ぎる。
ワイパーを動かし、ギアをドライブに入れて川崎まで向かう。時間は凡そ三十分程度だ。その間、ずっとラジオは流れていた。ワイパーも規則的に動いていた。パーソナリティの二人の声とワイパーと雨と、その幾つもの音が交錯している間、水戸は三井の声を思い出した。ラジオと同じく簡単に素通りする耳馴染みの良い声。けれどもあの人は、やはり雨は似合わない気がした。雨の下より、晴れた太陽の下で笑う方がよく似合っている。不意に水戸は、昼休憩時に安井が言った言葉を思い出した。三井コーチってどんな人?すげえかっこいいよな。安井は確かそう言った。どんな人か、水戸は少しの間考えた。我儘だし家事もあまりしない、歯磨きは洗面所でしないし靴の量も服の量も多い。もう注意することも止めた。言っても聞かないからだ。要は合わないし、水戸も苛立つことも未だにある。
でも彼は普通だった。だから水戸も普通で居れた。そして華がある人だった。決して嫌味のない華があると思った。だから水戸はそれを、素直に受け入れることが出来た。
その内水戸が運転する車は川崎の体育館に到着した。場所をここに指定されたからだった。駐車場に車を停めると、着いたことを連絡した。少しの間待つと、傘を差した三井が近付いてくる。水戸の車の側に立つと傘を閉じ、助手席のドアを開けた。
「よ、お疲れ」
「お疲れじゃねえよ、帰れるだろこれなら」
「まあいいじゃん。飯行こうぜ、行きたいとこあんのオレ」
「あんたってほんと……」
「あ?何?」
ラジオの音と、また三井の声が重なった。重なっても決して違和感や不快感はなかった。三井の声は、水戸にとってそういう声だ。けれどもそれは雨と重なると、意識は一層ぼんやりする。それだけは妙におかしな雰囲気だった。フロントガラスに雨が当たり、ワイパーが引っ切り無しに動く。ざわざわとうるさく、鳴り響く変わらない雨の音。
「何だよ、お前行きたいとこあんの?」
「ないよ。任せる」
「ドイツビールが美味いとこがあんだって、鎌倉に」
「出たよ、何だよドイツビールって。普通のビールでいいだろ」
「任せるっつったろうが。文句言うな」
「はいはい、ごめんね」
三井はそこで、ようやくシートベルトを付ける。確認してから、水戸は車を出した。また三井は一人で喋っていた。それは朝と同じように、また水戸の耳を素通りする。ラジオの音と重なり、心地良くてまた上の空になる。返事はまた、うん、と、ああ、それだけだ。しばらくすると、また三井は怒るに違いない。雨の音が不規則的に混じり合って、水戸は納得したように思う。
「あんたはほんと、雨が似合わねえよな」
「は?何それ」
三井を見ると、ぽっかりと口を開け、間抜けな顔をしている。それが可笑しくて、水戸は思わず吹き出した。
「何笑ってんだよてめえ」
「いやいや、三井コーチ男前だなぁって。職場の先輩もテレビで見てすげえかっこいいって褒めてましたよ」
「今更何言ってんの。オレは昔っからかっこいいんだっつーの」
「ドイツビールだもんね」
「バカにしてんだろ!」
「してないしてない」
三井に雨は似合わないと心底思う。この人は晴れた日に笑っているのが一番似合う、と。けれども今、今だけは違う。この人に雨も悪くない、水戸はこの瞬間だけそう思った。





終わり。

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