短編

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「水戸洋平」
水戸はアルバイトの帰り道、後方から声を掛けられた。振り返ると、頑丈そうな体躯の高校生が六人程度、水戸の後ろに立っていた。
今日はたまたま、教師達が見回りをしている情報が入り、アルバイトに原付では行けなかった。だから午後八時頃にアルバイトを終えた水戸は、もう一度湘北高校に足を向けていた。今は九月の初めだった。二学期も始まったばかりで、蒸し暑さは変わらないけれど、陽が落ちるのは少しばかり早くなっていた。辺りは暗闇に囲まれていて、静寂に包まれている。だから尚更、発せられた水戸の名前を呼ぶ声は、低く響いた。
「そうだけど、何か用っすか?」
「何かじゃねえんだよ、オレらの仲間やったのてめえだろ」
水戸は軽く首を傾げた。オレらの仲間、を思い出そうとしてみたけれど、全く見当が付かない。要はツラ貸せということなのだろうけれど、アルバイト帰りでそれなりに疲れてもいて、正直な所喧嘩をするのも面倒だった。厄介ごとはなるべく避けたい主義だ。
「すんませんでした。通してください」
だから頭を下げてみた。暫くして下げていた頭を上げると、彼等の顔はもっと怒りに満ちていた。謝ったろ、水戸はそう思った。けれどもその直後、一人の男が水戸の顔面に拳を放ってくる。水戸は反射的にそれを左手で受け止め、自然と右の拳をその男に向けていた。その直後、人の肉のめり込む感触があった。けれどそれは、一瞬で消える。血がべっとりと付着した気がして気分が悪くて、思わず手をぶらぶらと振った。
「あーあ」
水戸は誰に向けるでもなく、目線を下げて言った。そして目線を元の位置に戻すと、彼等は一瞬後退る。
「俺謝っただろ、通してくださいって」
一歩前に出れば、また少しだけ後退る。ぶらりと下げた両腕に付いている掌を握ると、何か覚束ない感覚があった。
「めんどくせえなぁ」
一つ溜息を吐いたのが合図だった。
俺は砂なんじゃないかと思う。人を殴っても殴られても何ともなくて、痛みも何も感じないサンドバッグか何か。そういう物体。





「何かあった?」
「え?」
聞こえた声の方向を見ると、ベッドに俯せになり、顔だけを水戸に向けて寝ている女性と目があった。彼女とはアルバイト先のファミレスで声を掛けられてから、何となく続いている。年齢は二十八歳と言っていた。他はよく知らない。
あの後湘北高校に戻り、原付を隠すように停めている場所まで行くと、妙な物を見付けた。灯りの灯る体育館に一人だけ残っている上級生だった。
「何もないよ。何で?」
「少なくとも喧嘩はしてるよね」
「ああ、そういう話?」
「ちょっと違う」
水戸はベッドに横たわっていた体を起こし、テーブルに置いてある煙草を手に取った。スプリングが揺れて、ぎし、という軋んだ音がする。水戸の隣では、俯せで顔だけを横に向け、水戸を見ている女性が寝ている。もちろん目は開けていた。煙草に火を点け、彼女に煙が掛からないように吐き出してから、持っていた灰皿にそれを置く。彼女の方を見遣ると、長い髪が流れるように肩から落ちていた。何の気なしに触れると、乾いたそれは簡単に指に絡み付く。そのまま肩に触れると柔らかかった。変な感じ、水戸は何故かそう思った。そして、変なもん見た、それも強く思った。
「心ここに在らず」
「何?」
「今日の洋平、そんな感じ」
「そんなことねえよ。可愛いこと言うね」
そう言うと、彼女は一度笑って目を閉じた。しばらくの間、水戸は彼女の髪を撫でていた。あ、煙草、そう思った時には、灰皿の中に短くなった煙草がぽとりと落ちている。もったいね、と小さく言ってから、もう一本煙草を取り出し火を点けた。吸っては吐いて、それを何度か繰り返して、水戸は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。彼女の寝息を背後から確認して、水戸は着て来ていた制服に着替えた。ベッドからゆっくり立ち上がり、一度振り返る。すると彼女はやはり眠っていて、小さく、おやすみ、と言ってからその部屋を出た。
そのマンションはオートロックだったから、水戸が鍵を掛ける必要はなかった。その建物自体にも玄関が備え付けられていて、真新しく綺麗なそこは、彼女によく似合うと水戸は思った。ポケットから鍵を取り出し、来客用の駐車場に停めてある原付に近付いた。鍵を差し込み、原付のエンジンを掛ける。走り出すと、未だに生温い風が、制服から出ている腕や顔に纏わり付いた。
体育館に残っていた上級生は、もう帰っただろうか。さすがにこの時間には居ないだろう。水戸は、あの背中を一人思い出していた。あの人は、スリーポイントシュートの名手だ。それくらいは水戸も知っていた。けれども、一人で残っていることは知らなかった。閑散とした学校の体育館で、煌々とした灯りの下でバスケットボールとバッシュの音だけが響いていた。水戸はただ、その背中を追っていた。ゴールが決まる度にスリーポイントラインまで戻り、違う位置から何度も打っていた。ぐっと膝が落ちて、伸び上がる。腕が綺麗に伸びて、そのままボールが放たれる。しばらくの間目が逸らせなくて、彼をずっと眺めていた。すると段々と、頬や腹部がじりじりと痺れてくる。何だ?そう違和感を感じた水戸は、痺れて熱くなってきた箇所に触れた。それは痛みだった。人に殴られると痛いということを、水戸はその時初めて知った。俺は砂じゃない。唇に触れ、親指でなぞるとそこには微かに血が付いている。殴られると血が出るんだ、と今更のように思い知る。砂じゃない。また強くそう思った。すると背筋が騒ついた。足元から何かが這い上がり、身体中を駆けずり回る感覚が一気に押し寄せた。
あれが欲しい。
水戸は瞬間的にそう思った。
それから何度か、水戸は三井が居残る体育館を覗いた。それは大概、喧嘩をした後だった。その度水戸は、殴られた箇所に痛みを覚える。喧嘩の最中は痛みなどなかった。けれども三井の背中を見れば見るほど、痛みは襲う。それは酷く普通に。じわじわとした痺れと熱さを伴ってやってくる。それを一頻り感じてから、水戸は帰宅する。彼を見続けながら水戸が思うことは、あれが欲しいという欲求だけだった。水戸は昔から、全てにおいて欲求がなかった。食事も祖母が作る物は好きだったけれど食べられる物なら良かった。睡眠も眠れる時間があれば特に問題はなかった。性欲も求められたらする程度にしか沸かない。幼い頃から、あれが欲しいこれが欲しいと側に居た祖母に強請ることもなかった。祖母が欲しい物はないのかと聞くことはあれど、水戸はかぶりを振るだけだった。水戸が何かを欲しいと思ったのは、三井が初めてだった。あれがあれば自分は砂じゃないと実感出来る、そう思っていた。
「おい、携帯の番号教えろ」
「は?」
そして体育館を時々覗く日々がしばらく過ぎた後、三井は水戸と一緒に過ごすようになった。彼は水戸を好きだと言う。それの意味が、水戸にはまだ分からなかった。彼が欲しいという欲求は、彼を好きだということとイコールで結び付くのか、それが未だに分からない。これが好きだということなのかもしれない。けれども水戸にはまだ、ただの自己満足のようにしか思えない。彼を抱く行為も、要は自慰と一緒のような。そんな気さえした。それでもこうして懐いてくる彼に対して申し訳が立たないと感じながらも、手放したくないとも思った。三井を前にすると、いつも水戸は混濁の中に居る気がした。
今は昼休みだった。昼休みの屋上だ。九月も半ばを過ぎ、もう月末だった。さすがに夏の蒸して淀んだ空気は消え、陰になるこの場所は涼しい。この時間にこの場所で、彼と居ることは多かった。
「おい、聞いてんのかよ。携帯の番号!教えろ」
「言ってなかったっけ」
「知らねーよ」
吐き出すように言われ、水戸は制服のポケットから携帯を取り出した。二つ折りのそれを広げるけれど、いまいち使い方が分からない。メールはしないし、完全に通話用だった。はっきり言って、この機械に興味はない。アルバイトの連絡用に役立つかと思い購入に至ったのだけれど、本当にそれにしか役立っていないのだ。
水戸は広げたそれを、そのまま三井に渡した。
「適当に入れといて」
「あ?」
「あんたの番号。そしたら俺がそれに掛けるから」
そう言うと、三井はぎょっとした顔を見せた。時々彼は、こういう表情を見せる。水戸はそれの理由が分からない。
「何、どうすんの」
「入れとく。すぐに掛けろ」
「はいはい」
三井は水戸の携帯を上手く動かし、自分の番号やメールアドレスを入れているのだろう。上手いもんだ、そう思いながら水戸は、煙草に火を点けた。背にあるコンクリートに凭れ、空を仰ぎながら煙を吐き出すと、緩く煙が舞う。晴天に流れるように消えていき、それを何気なく目で追った。
五限目は体育だった。未だにリハビリで入院中の桜木の為に特にノートを取る必要もないし、体も怠い。昨夜は深夜までアルバイトをしていた。だからだと思った。水戸はまた煙草を吸いながら、五限目はサボろうと決める。
「ほらよ、入れといたから今すぐ掛けろ」
三井は水戸の傍らに携帯を置き、自身も水戸と同じようにコンクリートに凭れた。水戸は携帯を手に取りながら、三井を見遣る。その目は既に閉じていた。
携帯を開き、「み行」を出すと、三井寿と書いてあった。はいはい分かりました、そう思いながら、そのまま通話ボタンを押す。すると彼は目を開け、制服のポケットから携帯を取り出した。
「はい、これ俺の番号」
水戸は短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、そう言った。三井を見ると、子供のような顔をして笑っている。
この人、ほんとに俺を好きなんだなぁ。水戸は事あるごとに、三井のそれを感じ取った。それは決して、水戸を苦にさせなかった。
「三井さん、次サボらねえ?」
「何で」
「次体育でめんどくせえから付き合ってよ」
「しょうがねーな」
しょうがねーなって顔じゃねえよそれ。水戸は吹き出すように笑うと、三井は訝しんでこちらを見る。ころころと表情を変える彼が面白くて、また水戸は笑った。
「何笑ってやがる」
「あんたが面白いから」
「どこがだよ」
「顔」
「失礼極まりねーなお前は!」
思った通りの表情を見せる三井が面白くて、水戸はその顔に触れた。そうすると彼は、簡単に口を噤んだ。しばらく撫でて、それから近付いて彼の唇にキスをした。水戸は以前キスが苦手だった。自らしたいなど、一度も考えたことはなかった。それが今は違う。三井の唇を吸って噛んで、味わいたいと思う。舌を差し込んで、口内まで喰らい尽くしたいとさえ思う。三井はいつでも水戸に応えた。その唇を開いた。互いに舌を絡ませ、互いの唇を噛んだ。
水戸は三井を前にすると、いつも焦燥感に襲われる。
あれが欲しい。あれが欲しい。そればかりが先行する。
あれが欲しい。夏の終わりに水戸は、自分の欲求を初めて知った。





2へ続く

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