短編

□あどけない初夏のリズム
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神田が初めて水戸と会ったのは、永瀬モーターに面接に訪れた日だった。もっとも、会った、というよりそれは、神田が勝手に眺めたということでしかないのだけれど。
神田は自動車が好きだった。幼い頃から、共働きだった両親よりも祖父と居ることが多かった神田は、祖父の趣味や好きな物、或いは好きなことを覚えることが多かった。祖父は特に、将棋とクラシックカーが好きだった。将棋はよく指した。それは趣味の域などではない。祖父は元プロ棋士だった。けれども彼は絶頂期にそれを辞めた。早々に見切りを付け、悠然と日々を過ごした。神田は祖父の昔話を聞いたり将棋を指したり、クラシックカーのイベントに行ったりと、土日は友人とではなく祖父と過ごすことが多かった。神田は祖父が好きだった。この人を心底格好良い男性だと思っていた。将棋も好きだった。祖父の手は将棋盤の上に未知の宇宙を作っていたからだ。彼の手は酷く無骨なのに、そこから生み出す繊細で未知数の知識が、盤の上に広がっていた。もちろん勝てない。毎日勝てないから、毎日のように挑んだ。神田は彼の手が作る繊細な宇宙を見たくて、毎日のように将棋を指した。彼は将棋の最中、よく「この手は以前も見た。気を付けなさい」と笑った。とても淡々としている口調と声であるのに、それは深く心に残った。
初夏のある日小学校から帰宅すると、母屋の広い庭に、クラシックカーが一台あった。神田は自然と喉から湧き上がる感嘆の声を上げた。ランドセルを背負ったまま祖父がいつも居る母屋の縁側に走った。おじいちゃん!そう言うと祖父はにっこりと笑い、乗るか?と言ったのだった。蝉が鳴き始めた暑い日だった。
それからというもの、祖父と変わらず将棋を指しながら、自動車にも興味を持った神田は、漠然と自動車整備士になりたいと思った。神田は賢かった。両親からは大学に行けと言われたけれど、嫌だと言った。自動車整備士の専門学校が良い、そう言った。彼等は一度溜息を吐いたものの、あまり我を通さなかった息子の初めての決意が響いたのか、あっさりと許した。祖父に自動車整備士になりたいことを告げると、またにっこりと笑った。その頃、クラシックカーは母屋の隣にあるガレージの飾りになっていた。
神田は、自動車整備士の専門学校から永瀬モーターを勧められた。小さな自動車整備工場だと教師は言った。神田は自分で、大きくて立派な整備工場よりは小さな方が良いと考えていたから、教師の勧めにはすぐに承諾した。面接の算段を整えられ、神田は永瀬モーターに訪れた。それは初夏の頃だった。社長である永瀬に施され、事務所に案内された。そこに入る前、神田は整備工場を眺めた。すると男性四人が、顔や手を汚しながら懸命に車を整備している。その姿に神田は、祖父に感じた同じ格好良さを覚えた。その時だった。
「違う」
「すんません」
「藤田お前、同じことで何回もミスすんな」
その声は、酷く淡々としていた。かと言って穏やかでもなかった。神田はその声と似通った雰囲気の物をよく知っていた。静かに声を出す人だと、そう思った。
「かっこいいですね。あの人」
「ああ、洋平?」
永瀬は事務所のドアに手を掛け、神田を見遣る。その人懐っこそうに笑みを浮かべる男を見上げ、神田は声を出した。
「ようへいさん、って言うんですか?」
「うちの有望株だよ」
そうなんですか、それは言うことはなく、神田は開けられた事務所に入った。面接は十五分程度で終わった。車を好きになった経緯や、専門学校の話をした。ほぼ雑談のように思えたそれが終了した頃、四月からよろしく、と永瀬が手を差し出した。呆気に取られながらも神田は、よろしくお願いします、と同じように手を出し、深々と頭を下げた。
永瀬モーターに入社してからは、毎日を必死に過ごした。ひたすら走り回り、終いには「ぽち」という親しみを込めた愛称が付けられる。この職場は、厳しくも優しさと愛情のある人ばかりだった。社長の永瀬、シゲさんと呼ばれている佐藤、やっさんと呼ばれる安井、一つ歳上の藤田、経理の女性、そして洋平と呼ばれ事あるごとに頼りにされている水戸、神田を含め計七人で永瀬モーターは成り立っていた。神田はそこで一日の大半を過ごし、そのまま一年半が過ぎた。その日はじわじわとした暑さの広がる初夏だったけれど、蝉は鳴いていなかった。
「水戸さんってサンダースの三井コーチと同居してんすよ」
ちょうど昼休憩で、煙草を吸わない藤田、神田、四月から経理として入社した遥の三人は、昼食が済むと事務所で雑談することが多かった。他の三人は、外の喫煙所で煙草を吸うことが主だ。思い出したように声を出した藤田は、言うの忘れてた、と続けた。
「何で知ってるんですか?」
不思議そうに尋ねたのは遥だ。
「引っ越したら住所変更を社長に提出するじゃないっすか。で、水戸さん女と住んでんじゃねーかって社長が言い出して、オレに調査をね、頼んだんっすよ」
どこか得意気に喋る藤田を他所に、神田と遥は少しだけ驚いていた。サンダースの三井と言えば、地元ではちょっとした有名人だ。スポーツが不得意な神田でさえ、顔と名前は知っている。二部だったサンダースを一部リーグに昇格させた立役者だと、地元のスポーツニュースや新聞でしょっちゅう取り上げられていた。
「何で三井コーチなのかな」
「湘北の先輩なんですって」
へえー、と声が揃った所で、昼休憩が終わる。神田は自席から立ち上がり、整備工場へ向かった。
その日は職場の飲み会だった。この会社は全員の仲が良いからか、飲み会が多かった。大概永瀬が言い出して店を予約して、一次会二次会もしくは三次会と延々と続く。けれども神田は、アルコールに強くない為、一次会で帰ることが多かった。入社したばかりの頃、歓迎会でかなりの量を飲んだ。初めてのことで嬉しかったのか、摂取量を分かっていなかった。もちろん吐いた。猛烈に気分が悪く、トイレから抜け出せなかった。その中で、神田を介抱したのは水戸だった。水戸は特に声を掛けることもなく、神田に水を飲ませて吐かせることを繰り返させた。少しづつ良くなって来て立ち上がることが出来るようになるまで、水戸は側に居た。
「すみません」
神田はそう言った。自分の為に開いてくれた歓迎会でこんなことになり、更には先輩にまで世話をさせ、水戸に申し訳が立たなかった。酷く落胆したように言うと、水戸は笑っていた。
「別に謝んなくていいから。あんま無理すんじゃねえよ」
水戸は仕事中、言葉は厳しかった。自分に足りない物をはっきりと伝えた。けれどもその口調は、怒りに満ちたものやその日の気分や、ましてや自己主張などでは決してなかった。常に一定で淡々と、静かに声を出す人だった。それは入社する前に持った印象と、変わることはなかった。水戸が自分に笑顔を向けてくれたのは初めてで、神田は一層強く思った。この人のようになりたい、そう思ったのだった。
飲み会の帰り道、神田と水戸は同じ方向だった。電車のホームで次の電車が来るのを待ちながら、初夏の少しだけ生温い風を受けていた。
「今日は大丈夫か?」
「え、あ、はい」
急に声を掛けられ、神田は返答に戸惑った。藤田のように上手く親しみを込めて会話が出来れば良いのだけれど、元々がお喋りでも話し上手でもなければ、どちらかと言えば口下手な神田は、未だに水戸と上手く会話を交わすことが出来ない。
「さすがに分かってきてるよな」
飲む量、水戸は少しだけ俯いて、笑って続けた。その時、どこからか携帯の鳴る音がした。自分だろうか、そう思ってポケットを探ってみるけれど違う。すると隣に居た水戸がそれを受けていた。水戸さんか、何気なく彼を見ていると、少しだけ目の雰囲気が変わった気がした。また柔い風が吹き、神田は目を細める。
「何?どうした?」
その時水戸が、電話口に向けて発した声色が妙に曖昧でぼやけていて、神田は何かを思い出したような気がした。思わず水戸を眺め、何だったかを思い出そうと思った。けれども何故か、上手くいかない。
「は?牛乳?……はいはい、分かったって。買って帰るよ。そんじゃ」
携帯を切り、デニムのポケットに入れた水戸と目が合った。ずっと見ていた訳ではないけれど、妙にばつが悪くなり、言葉が出て来なかった。
「先輩だよ。同居してんの」
サンダースの三井コーチ、神田はその時、藤田の言葉を思い出した。
「サンダースの三井コーチですよね?藤田さんが言ってましたよ」
「……あんのお喋り」
水戸は小さく舌打ちをして、それからホームの向こう側を眺めた。怪訝そうには見えたけれど、特に不快感は感じていないようにも見えた。向こう側を見続ける水戸の表情はどこかぼんやりとしていて、また輪郭がよく掴めない。ああそうだ、思い出した。
「なあ」
「あ、はい」
「お前、何であんな将棋強いの?毎回すげえなって思うよ」
水戸が言っているのは、永瀬モーターで三ヶ月に一度行われる将棋大会でのことだろう。発端は、憶測でしかないけれど、あまり物を喋らない神田に永瀬が、得意な物や好きなことはないのか、と聞いたことではないかと思う。将棋が好きだと答えると、永瀬はその後、将棋大会を開催したのだ。それが見事彼のツボにハマったのか、三ヶ月に一度開催されている。
「あ、えっと、おじいちゃんが元プロ棋士で、子供の頃から毎日指してて」
「へえ、すげえな」
「いや、水戸さんこそ凄いです。やるごとに強くなってて、次指すのが楽しみで」
「そりゃ良かった」
水戸はまた、軽く俯いて笑った。彼はよく、こういった表情をするように、神田は思う。柔く吹き付ける風が酷く心地良かった。それは、アルコールのせいかもしれないし、そうでないのかもしれない。神田には分からない。ただ一つだけ分かったことは、水戸にはきっと、何者にも代え難い何かがあるような気がする。そう思ったことだった。ホームの向こう側をぼんやりと見詰める表情に、神田は幼き日を思い出したからだ。
クラシックカーを初めて見たあの日、神田は酷く高揚した。その筈なのにどこか覚束なくて、足元がやけにふわふわとした、所在ない気持ちでもあった。それを今、鮮明に思い出した。
彼の代え難い何かが初夏が似合う人であったら良いと、水戸の横顔の向こう側に輪郭も見えないまま思う。
また初夏の夜の生温い風が、神田の頬を撫でた。






終わり



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