短編

□夢と群青
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アルバイト先で貰った物は、酷く時期外れな花火だった。ファミレスとガソリンスタンドでアルバイトをしている水戸は、今日はガソリンスタンドで働いていた。ちょうど手の空いた時間があり、事務所の掃除をしているといつの物か分からない花火が出て来た。コンビニ等で売られているような、袋詰めしてどこにでもある花火の詰め合わせだった。捨てますか?と先輩に聞くと、やるよ、と言われた。高校生は無条件に花火好きだろ?と。そして、湿気てなけりゃ、と笑ったのだった。水戸は特に、花火を好んではいなかった。けれども、周りに好きそうな人間は大勢居た。そしてその中で、水戸が一番最初に浮かんだのは二つ歳上の上級生だった。どうしてか、舌打ちしたくなった。
アルバイトが終わった午後十時半、携帯を見ると件の上級生からの着信が一件。時間は午後十時だった。掛け直すか否か迷ったけれど、朝またぎゃんぎゃん騒がれたら面倒だと、掛け直すことに決めた。三回ほどコール音が鳴り、その人は出た。
『もしもし』
「俺です。どうしたの?」
『……特に用は、ねーんだけど』
「あっそ、じゃあ切るよ」
『待て待て待て!』
「何だよ」
『お前バイトだった?』
「そうだけど」
そこで水戸は、手に持っていた花火を見る。この花火、やっぱりあの人は好きそうだ。水戸は、この袋詰めを見た時に一番最初に浮かんだ顔を、電話の向こう側に想像する。きっと、子供のような顔で笑うのだろう。
「三井さん」
『ん?』
「花火好き?」
季節は夏も終わり、段々と秋めいてきた。夜は羽織物がなければ寒いし、朝も蒸したような生温さがなくなった。水戸は原付に乗り、市営アパートに戻りながら、風の冷たさを感じていた。アルバイト先のガソリンスタンドから、自宅までは十分程度と近い。頬に風の刺激を浴びているとすぐに、そこに到着する。駐輪場に原付を止め、アパートの敷地内にある空き地に向かった。そこは閑散としていた。子供が遊ぶスペースに作られていたようだったけれど、ベンチが一つと遊具も滑り台と小さな水道があるのみだ。しかも錆びれている。ここで誰かがそれを使っているのを、水戸は数回しか見たことがなかった。
午後十一時近いそこには当たり前に人は居なくて、静寂を通り越して空気が張っているような硬い静けさがあった。街灯もなく、酷く暗い。それでも水戸は、長年住み慣れた場所だからか、どこに何があるかということだけは分かった。目を凝らすと、放置されていた子供の忘れ物のような小さなバケツがあった。それを手に持ち、水道に近付いて蛇口を捻った。出て来た水をバケツで受け止め、半分くらい溜まるとまた蛇口を捻って水道を止める。そのままベンチまで歩いて腰掛けた。
煙草に火を点け、吸い込んで吐き出す。闇の中で白く揺れる紫煙は酷く緩慢に見えた。それが一層、静けさを誘う。水戸がこうして、アルバイトが終わった後に他人を誘うことはなかった。誘った上で待つこともなかった。いつもは誘われ、そこに向かう側だったからだ。もっとも外で待ち合わせれば、勿論水戸が待つこともあったけれど。とにかく、この時間帯から水戸が自分の意思で、誰かを自分のテリトリーに入れることはないのだった。その理由を水戸はまだ知らなかった。だから少しだけ、焦燥もしていた。
三井とこういう関係になってから、三週間近く過ぎた。連絡を寄越すのは大概三井で、それを受けて自宅に呼ぶのは水戸だった。そうすると、会話もろくにせずただ抱き合った。慣れたのか慣れていないのかよく分からない彼の体は、水戸の衝動を面白いほど突き動かした。支配欲でも征服欲でもない。何のカテゴリーにも収まらない激情が、三井を前にすると生まれる。水戸はこれが、酷く厄介だと思った。
煙草を吸い終わり、携帯灰皿を取り出して煙草の火を消した。するとまた、携帯が鳴った。それに出ると、どこだよ、と小さく聞こえる。一応彼は、周囲のことを気に掛けているらしい。時間は午後十一時半。普通に考えれば静かに会話をするのは当たり前だった。その上ここは市営アパート。家族で住んでいる所も小さな子供がいる家庭も、勿論ある。水戸は立ち上がり、駐輪場の辺りまで歩いた。携帯を切り、三井さん、と声を掛けると、三井は水戸の方を見た。手招きすると、彼は小走りで水戸に近付いた。
「どこでやんの?」
三井が聞いたのは花火のことだろう。水戸の花火が好きかという問いに、彼は即答で好きだと答えた。だと思った、とは言わず、アパートの外に居ることを告げ、携帯を切ったのだった。
「敷地内に空き地があんの。そこ」
「へえ」
秘密基地みてーだな、三井は声を弾ませて言った。色んなことを楽しめる人だ、水戸はそう思った。並んで歩いていると、さっきまでの張り詰めた空気が消えた気がした。見上げると、三井は既に子供のような顔をして前を見ていた。そんなに花火が良いもんかね、と水戸は訝しんだけれど、この人はこんなもんだと理解する。
空き地まで歩き、ベンチまで誘導すると、彼はそこに座った。置いてあった花火が入った袋を見て、おお、と一言言う。
「今年初めてだわ」
「そりゃ良かった」
水戸は煙草を一本取り出し火を点け、そしてライターを手渡した。好きなのどうぞ、と言うと、三井はまた笑った。そして袋を開け、どれにすっかなー、と声を弾ませる。
「お前これどうしたの?」
「バイト先で貰った。いつのか分かんねえけど」
「それって出来んのかよ」
「湿気てなけりゃね」
三井は返答せず、一番派手そうに見えた花火を取り出した。
「選ぶと思った」
「何で」
「あからさまに派手でうるさそう」
「うっせ」
「楽しむのはいいけど静かにね。近所迷惑にならないように」
「分かってるよ!」
そう言うと三井は、迷うことなくライターで火を点けた。火薬の匂いと同時に、花火の先端が明るくなる。そして鮮やかな色の混じった炎がぱちぱちと光る。
「すげーすげー!出来んじゃん!」
「ははっ」
水戸は笑った。童心に戻った表情を見せた三井のそれは、やはり想像通りだった。
「何だよ」
「やっぱり、思った通りの顔するんだね」
「ああ?」
「ガラ悪いなぁ、先輩は」
「お前に言われたくねーんだよ」
それからしばらくの間、花火が一本終わっては火を点け、一本火を点け、を繰り返した。時々、お前もやれ、と言われたので近くにあったそれに火を点ける。すると、ぱっと照らされたそこは多少明るくなることに今更気付いた。真っ暗ではなく群青のような、そして終われば、また真っ暗闇に包まれる。散っては消え、散っては消える。飽きもせず続ける三井を横目で見ながら、水戸は思う。なーにやってんだか、そう思ったのだった。
三井とよく分からない関係に至るまで、水戸は普通に女性と付き合っていた。そして普通に抱いていた。ただ、キスだけは強請られない限りしなかった。その行為自体が苦手だったのだ。それは、粘膜の絡み合う感触でもあれば、唇同士を触れさせることでもあった。でも一番の理由は、キスをすると女性が全て母親に見えた気がしたからだった。ある風景を思い出し、興醒めする。それでも水戸は、付き合って来た女性がキスを求めてくれば、幾度となくしてきた。粘膜の触れ合い、その程度。面白くも何ともない。そう思いながら。
でも今は違う。水戸は三井の横顔を見ながら、そう思った。キスがしたいと思った。したいというより、その唇が欲しいという単純な欲求だった。噛んで舐めたらどんな味がするんだろう、と実際やってみたものの、何の変哲も無い、ただ人の味だった。この人は「お前が愛情だの執着だのそんなこと言ってる時点でオレのこと好きなんだよ」そう言った。けれどもこの人を好きかどうか、今はまだよく分からない。でも、三井の味だけは好きだと思った。匂いも感触も、この人だけは違った。欲しいと思った。何やってんだか、水戸は自分自身に呆れながら、また同じことを考えた。
「何だよ」
見られていたのを気付いたのか、今度は三井が水戸を見た。花火が入っていた袋は空になっていた。もう終わりだ。群青だった空気がまた、暗闇に戻る。愛情か執着か、自分にさえよく聞こえない大きさの声で発した後、水戸は三井の唇を噛んだ。いて、三井はそう言った。言った程度で抵抗は見せないから、舌を入れて掻き回した。またこの人の味がする、水戸はそれを確認しながら、食べるように三井の唇を味わった。しばらくの間続けていると、三井が水戸の体を軽く押す。
「……水戸」
「ん?」
「もう無理」
「うん」
その言葉を合図に、水戸は三井の手を取った。花火の残骸は明日の朝片付ければいいと、空になった袋だけ手に持った。早足で歩き、階段を上った。三階までひたすら早足で、玄関に着くまでにポケットから鍵を取り出した。早くこの人が抱きたい、水戸はただそう思っていた。
玄関に着いてドアの鍵を開け、暗闇から暗闇の中に入る。スイッチを押すと、簡単に黒は消えた。互いに何も言わず靴を脱ぎ、廊下を歩いた。リビングのドアを開け、暑くも寒くもないその部屋のフローリングに、三井の体を組み敷いた。またキスをして、すぐに三井の体に触れた。噛んだ。舐めた。三井はその度に声を上げた。水戸は不意に、例のある風景を思い出した。
キスに対して苦手意識を抱いたのは、中学一年の頃だった。ここの玄関を開けた時、母親の物と思われるハイヒールと、見知らぬ男性の物と思われる靴があった。そこですぐに出て行けば良かったのだけれど、水戸は大楠に渡さなければならない物があった為、構わず部屋に上がった。廊下を歩き、リビングのドアを開けると、台所で母親が見知らぬ男性とキスをしていた。男性の手は母親の体をまさぐっていて、彼女はくぐもった声を殺すようにしていた。彼女はただの女で、水戸の母親では決してなかった。分かっていたことだから構わなかったけれど、俺はやりたくねえなぁ、と漠然と考えた。彼等は水戸に気付いたかどうかは知らない。ただ動物のように、目の前の肉体にがっついていたから、自分の存在など無い物として扱っていたのかもしれない。だから水戸は、そのままそこを横切り、大楠に渡すAVを持って、その部屋を去った。その日、そのAVはとても見れなかった。
でも自分は今、その母親と同じことしていた。目の前の肉体ではなく、相手は三井だった。その人の体を貪るように抱きながら、自分は砂じゃないと幾度となく思う。挿入すれば動きたくなるし、鳴く三井を見ると酷く劣情を誘った。そして、その唇を喰らい尽くしたいとただ思って、キスをする。水戸は時々、彼の体を抱きながら、そうするのは己の自己満足の為なのではないかと思う。自分は砂などではなく人であることと、求められていることを確認する為の作業なのではないかと。だからとても、彼に好きだとは返せなかった。三井の気持ちは嫌というほど分かっていた。それを利用しているだけなのかもしれないと。
水戸は不意に、花火が散った群青色を思い出した。
「おーい」
「ん?」
「何考えてんだよ」
結局水戸は三井の体を何度も抱いた。そして、飽きることなくキスをした。今が何時なのかも分からない。ただ、深夜だということは確かだった。水戸はベッドに俯せになりながら肘を付き、煙草を吸っている所にそう聞かれ、少しの間考えた。黙っていると、掴み所のねえ奴、と淡々と吐き出される。考えて黙っていただけなのに、と思ったけれど言わないでおいた。
「明日朝練あったっけ?」
「あるよ。もう寝る」
「何時に起きんの?」
「七時。確実に授業中寝るな」
「駄目じゃん先輩。真面目に受けなよ」
そう言うと、三井は水戸を睨んだ。誰のせいだと言いたいのだろうけれど、受けたのは自分だから何も言えないと言った所だろう。水戸は無性に三井に触れたくなった。この衝動にどんな名前が付くのか、今はまだ分からない。
「ちゃんと起こしてやるから。朝練も送ってやるよ」
触れることは叶わなかったから、水戸は三井の頭を撫でた。暗闇に慣れた目は、三井の表情をきちんと捉えている。それはどこか物言いたげだったけれど、すぐに消えた。水戸は彼が、酷く楽しそうにしていた花火を思い出す。けれどもそれもまた、花火のように一瞬にして消えた。
三井は目を閉じた。水戸は未だに三井の頭を撫でていた。
「おやすみ」
三井からの返事はなく、もう眠ったのかと水戸は掌を離す。もう一本煙草に火を点けると、ライターの周りが少しだけ明るくなった。群青、水戸は小さく呟いてから、煙草を吸い込んで吐き出したのだった。





終わり。

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