短編

□サイレントサマーデイズ
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携帯のアラームが鳴ったと思ったらすぐに切れた。自分じゃない、水戸は一瞬だけ覚醒しかけたけれど、日頃の疲労が溜まっていたのか目を覚ますことは叶わなかった。ベッドのスプリングが揺れ、三井が起き上がったことが分かる。最近早いな、とは思ったけれど、もう少し寝ていようとそのままにしていた。すると髪に皮膚が当たった感触があった。三井が自分の髪を梳いているのだと気付いた。それが心地良くて、やはり起きることは叶わなかった。
それから本当に眠っていて、携帯のアラームが鳴り、それで目が覚めた。起き上がり、ベッドから出る。煙草を手に取り、一本取り出して口に咥えた。寝室のドアを開けると、リビングに人の気配はなかった。三井は既に居なくなった後だった。ベランダに続く窓を開け、窓を閉めたと同時にライターで火を点けた。外は生温く、今日もまた暑くなりそうだと分かった。空は高く、暑さの中で仕事をすることを覚悟した。煙草を一本吸い終わり、ベランダの窓を開け、リビングに戻る。洗面所で顔を洗ってからキッチンへ行くと、ステンレスにベーコンエッグが作って置いてあった。それから洗っていないフライパンも。水戸は小さく、洗っとけよ、と独り言ちて、湯を沸かす為ケトルのスイッチを入れた。出してあるパンを焼き、ベーコンエッグの上にそれを置いた。コーヒーカップも一緒に手に持ち、テーブルの上に置く。それから椅子に座り、いただきます、と言ってから手を付けた。ベーコンエッグは卵が焼き過ぎで、焼きすぎ、と小さく笑った。食べ終わってコーヒーを飲み干し、シンクに下げた。三井はもちろん洗い物をしていなくて、水に浸けてある皿とコーヒーカップがそこにあった。もう慣れた、と水戸は思った。ベランダに出て一服して、それから洗い物をする。そして歯を磨き、冷蔵庫から弁当とお茶を取り出した。着替え終えると、職場に向かった。
永瀬モーターはここの所仕事が詰まっていた。今日でひと段落つく予定だからか、昼休憩に社長の永瀬が飲み会を提案した。ここの社長は飲み会が好きだった。元々少人数の会社ということもあって、職場の雰囲気は良かった。断る理由がなかったから了承し、三井に連絡する為に携帯を開いた。「職場の飲み会があるので遅くなります」端的なそれを打ち、メールを送信した。三井曰く、業務連絡、だそうだ。こんなもんだろ、と水戸は思っている。携帯をポケットに戻し、席を立った。外の喫煙所に行くと、水戸一人だった。煙草に火を点けて吸い込んだ所で、携帯が鳴る。メールだった。開くと送信者は三井で「了解。経理のねーちゃんは来んのか」と書いてあった。出た出た出た、水戸は思わず吹いた。この人はいつまで言うのかね、そう思った。本当は来るけれど、馬鹿正直に言ってまた浮気だの何だの言われるのも面倒だったから「来ません」と書いて送信した。もっとも、それを信じるかどうかは微妙な所だけれど。どうせ三井には自分の思惑など分かっている、水戸はそう思った。
夜は飲み会だったから、残務処理は明日にしろ、と永瀬が言った。水戸は仕方なくパソコンを閉じ、揃って職場から歩いて行ける居酒屋へ向かった。外は蒸していて、歩いていると首がじわりと汗ばんだ気がした。予約してあったそこに入ると、温度差を感じたと同時に様々な声が飛び交っていて、客入りは十分だということが容易に分かった。騒々しい会話で賑わっている店内は、金曜日の夜を実感させる。店員から団体用の部屋に案内され、各々席に着く。水戸さん、と手招きと同時に声を掛けられ、仕方なくそこに座った。声を掛けたのは遥だった。懲りねえな、このおねーちゃんは。水戸は苦笑しながら思った。彼女は仕事中、これといった仕草は見せなかった。だから諦めたと思っていた。あれだけこっ酷く言えば普通は納得するだろう。それに彼女には、永瀬が常に付いていた。「唐揚げ美味いよ」だとか「遥は何飲む?」だとか、社員は全員、既に面白がっていた。また悪い癖が出たよ、と見て見ぬ振りをして、各自が楽しんでいた。
水戸はというと焼酎を飲みながら、あの人もう帰っただろうな、そう思っていた所だった。その時、自分の膝の上に置いていた手に、柔らかい物が触れた。人の皮膚だった。少しだけ冷たくて乾いた、自分でも三井の物でもない、柔らかい物体だった。懲りねえなぁ、もう一度そう思った直後、その皮膚から自分の手を離し、煙草に火を点けた。一瞬だけ隣を見遣ると、彼女も横目で水戸を見ていた。無駄だよ、と諭すように少しだけ笑って、煙草に口を付ける。そのまま水戸は、飲み会が終わるまで、膝の上に手を置くことはなかった。
店を出ると、外は少しだけ気温が下がっていた。もうすぐ夏が終わる、水戸は不意にそう思った。そこで永瀬が、二次会行くぞ、と声を掛けた。しかしほぼ全員が、帰ることを示している。当然だった。ここの所本当に忙しく、全員の帰宅が遅かった。だから早くお開きにしたいと思っている。全員が黙っていると、永瀬はショックを隠し切れないようだった。付き合ってくれないのか、と。
「遥!遥は付き合ってくれるだろ?」
「わたしは……、水戸さんが行くなら行きます」
「何で洋平?」
「だって社長と二人なんて危ないじゃないですか。水戸さん居たら大丈夫でしょ?」
彼女が揶揄するように言った言葉に、水戸はぎょっとした。俺も付き合うの?と思ったからだった。
「洋平!行くだろ?」
「いや、俺は帰……」
「行くんだよ!」
有無を言わさぬように食い気味で言われ、まじかよ、小さく言うけれど完全に無視された。背後からは藤田の「水戸さん行くならオレも!」と酔っ払った上機嫌な声が聞こえた。結局帰宅したのは、日を跨いだ後だった。当然玄関の灯りもリビングの灯りも消えていて、おかえりもただいまもなかった。しかし、よくあることだから特に寂しさもなかった。でもそれは、ここが三井の居場所だと水戸自身が理解しているからだった。何か疲れたなぁ、と思いながら、シャワーを浴びようと静かに寝室を開ける。すると、ベッド脇に置いてある照明に灯りが灯っていた。
「おかえり」
「ただいま。起きてた?」
「いや、うとうとしてた」
三井の声を聞いて安堵して、クローゼットを開けて着替えを出した。そこから三井を見ると、彼は瞬きを何度かしている。本当に眠そうだった。
「明日仕事?」
「オレは午後から練習。お前は?」
「午前中ちょっと出るかな」
残務処理が残っていたことを思い出し、ちょうど車も取りに行かなければならなかったし、億劫ではあるけれど、こんなもんか、とも思う。この時期から、水戸と三井はすれ違いの生活が始まる。水戸は三井に近付き、ベッドに座った。
「起こしてごめんね。もう寝なよ」
そう言って、水戸は三井の髪を梳いた。朝されたのが心地良くて、よく眠れるだろうと思ったからだった。何度か梳いて頭を撫でていると、三井の目が閉じる。そして、おやすみ、と聞こえた。
「おやすみ」
呟くように返し、彼の髪を梳いてから額にキスをした。目は閉じたままで、それを確認してからベッドを降りた。自分が三井の髪を梳いて、頭を撫でて、それが彼の眠気を誘ったなら、それはとても幸せなことのように思う。
あの人がよく眠れますように、そう思いながら、水戸は浴室へ向かったのだった。





終わり。
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