短編

□サイレントサマーデイズ
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携帯のアラームが鳴り、目が覚めた直後すぐに止めた。隣を見ると、まだ彼は目を閉じている。三井がその寝顔を見ることは少なかった。それだけを見ると、彼は酷く幼く見える。普段の落ち着いた立ち振る舞いとは全く違う、気を緩めた姿だった。三井は軽く、水戸の髪を梳いた。身動ぐ様子もなかったので、よく眠っているのだと思う。ベッドからゆっくり立ち上がり、寝室を出る。ドアを開け、リビングに入る。一度腕を伸ばし柔軟してからカーテンを開けると、今日も晴れそうな気配が既に広がっていた。八月も終わり、九月に入ったばかりの金曜日だった。未だに夏の暑さは終わらず、今日も残暑が厳しいのだろうと、空の高さにそう思った。
三井はまず顔を洗った。そして、ベーコンエッグを二人分作ってパンを焼いた。その間にコーヒーを飲む為にケトルに水を入れてスイッチを入れる。手早く用意して、一人分だけテーブルに持って行く。残りはステンレスにそのままにしておいた。テーブルに座り、まずはコーヒーに口を付ける。カフェインはやはりリラックス効果があるのか、軽く息が漏れた。次はパンを口で齧った。そしてベーコンエッグを箸で切ると、見事に焼き過ぎだった。三井は半熟が好きだった。それは水戸も然り。きっと彼は「焼きすぎ」と言うに違いない。三井はそう思って笑った。
朝食を食べ終え、歯を磨いた。着替えようともう一度寝室に入ると、水戸は未だに同じ体勢で眠っていた。思い返せば、ここ連日水戸の帰宅は遅かった。疲れているのかもしれない。そうでなければ、彼は目を覚ます。そういえば、と不意に思った。冷蔵庫を開けた時、水戸の弁当箱が入っていた。夜のうちに詰めて冷蔵庫に入れておいたのかもしれない。だからゆっくり寝てんのか相変わらずマメだな、三井は一人納得し、クローゼットから着替えを取り出した。今日は会議があるからスーツを着なければならなかった。そして、午後二時から練習の予定だ。シーズン前は、何かとやることが多かった。ついこの間新調したスーツとドレスシャツとネクタイ、それからジャージを出して、すぐに寝室を出ようとした。けれど一瞬だけベッドを見る。やはり目を覚ます気配はなく、寝息まで聞こえてきそうだった。いってきます、と小さく言って、寝室を出た。
それからスーツに着替え、ジャージを入れた鞄を持ち、玄関を出た。駅まで凡そ十分。歩くと汗を掻きそうなので、ジャケットは手に持っている。今日も一日が始まる。
職場に着いて、すぐに会議を始めた。大会議室は空調もしっかり効いていて、ジャケットを着なければ寒いほどだった。組まれた予算から、遠征場所の宿泊先を確保する段取りや、練習場所の確保と時間の確認、マスコミへのアピール等、やることは多かった。全ての機関を交えての会議なので、時間も掛かった。途中上の人間が余計な一言を喋り出すと、会議が止まる。以前は前のヘッドコーチが厳しくも上手く窘めていたのだけれど、これからその係は三井がしなければならなかった。苦手、と顔を顰めながらも、その場をおさめた。学生時代はただバスケに夢中になっていれば良かった。プレイ出来ればそれで良かった。それが今は違った。選手が心置きなくプレイ出来るようにするのが自分の役目だった。暫くの間続いた会議は、とりあえずは終わった。各々が立ち上がり、妙な静けさがあった室内の空気が瞬時に変わった。緩んだ空気が辺りを抜けて、思わず溜息が漏れた。お疲れ様でした、と言って立ち上がると、マネージャーの女性から声を掛けられた。大変でしたね、と苦笑していた。そうだなぁ、と言いながら、三井は体を伸ばした。時計を見ると、ちょうど十二時を回った所だった。三井は社員食堂も整っているここで昼食を採ることがほぼ毎日だった。今日の日替わりなんだろ、そう思っていた所でマネージャーからまた声を掛けられる。お昼一緒にどうですか?と。特に予定もなければ、約束もなかったので了承した。ちょうど、チームの話をしなければならなかったので、逆に都合が良かった。
連れ立って会議室を出て、社員食堂へ向かった。ちょうど昼時で混んでいて、日替わりランチを二つ頼み、それを受け取って早めに席に座る。今日の日替わりはアジフライ定食だった。可もなく不可もないそれを口に運びながら、マネージャーと今後のサポート面についての話をした。話が終わった所で、彼女が少しだけ俯いた。そして、顔を上げて三井を見る。
「三井コーチは、付き合ってる人っていますか?」
「え?何で?」
「知らないんですか?三井コーチ人気あるんですよ、女子社員から」
「へえ。そりゃどうも」
「居るんですか?彼女」
「居ないけど、オレは無理。他当たってって言っといて。女子社員の『誰か』に」
はっきり言うと、彼女は目を開いた。驚いているようだった。三井は割と、他人のこういう感情には敏感だった。その「誰か」がマネージャーと限った訳ではないけれど、はっきりと遮断した方が後腐れがない。今までもこういうことは何度かあった。けれど、無駄に優しくするのは得策ではないことを、三井は十分学んでいた。
その時、携帯のメール音がなった。開くとそこには、水戸の名前があった。「職場の飲み会があるので遅くなります」そう書いてあった。はいはい、了解。頭の中でそう言って、昼食も終わったので立ち上がった。マネージャーに、じゃあ後で、そう言ってその場を去った。彼女に合わせて、終わるのを待つ必要がないからだった。食堂を出て、サンダースの事務所に戻った。事務所には人は居らず、どこかへ出ているか昼食中だと分かる。大体、この場所に止まっている時間は誰しも少ない。狭い事務所内は、酷く静かだった。誰も居ないのに、空調だけはしっかり効いている。そこで自席に座り、携帯を開いた。もう一度水戸の業務連絡じみたメールを見て、返信を打った。「了解。経理のねーちゃんは来んのか」送信してからパソコンを開き、練習メニューを確認した。すると少ししてまたメールが届いた。開くと一言、「来ません」と書いてあった。嘘かもな、そうは思ったけれど、苛立ちも焦りもなかった。どうせ奴のことだから馬鹿正直に言うとめんどくせえとでも思ったんだろ、と心の中で悪態を吐いた。かといって不安も何もなかった。水戸が自分以外に興味がないことを、三井自身よく分かっているからだ。それでも三井は、水戸の視線すら誰にも渡したくなかった。
二時からの練習も夕方には終わり、三井は一人定食屋で夕食を済ませた。帰宅すると当たり前に誰も居なくて、室内は当然蒸していた。今日はおかえりもただいまも必要なかった。そんなことはしょっちゅうだ。だから特に、寂しさを覚えることもなかった。何故なら、水戸が帰って来る場所はここだからだ。
まずはエアコンを付けた。そして風呂を沸かしている間に、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。スーツを脱いで、ドレスシャツも脱いだ。Tシャツ一枚とハーフパンツに変え、リビングのソファに座り、テレビを点ける。ビールを飲みながらチャンネルを変えてみるけれど、特に面白い番組もなかった。その内風呂が沸き、浴室へ向かう。ゆっくり風呂に浸かった後、少しだけ仕事をする為にパソコンを開き、それを終えてからベッドに横になった。
うとうとしていた頃、リビングで音がした。水戸が帰って来たのだと思った。帰って来た、とは思ったけれど起き上がるのも億劫で、そのまま音を聞いていた。すると足音が近付いたので、寝室のドアが開くと分かった。
「おかえり」
「ただいま。起きてた?」
「いや、うとうとしてた」
三井はそこで、ベッド脇の照明を消し忘れていたことに気付いた。水戸はクローゼットから着替えを取り出したから、まあちょうど良かったと小さく笑った。彼は今からシャワーを浴びるのだろう、単純にそう思った。
「明日仕事?」
「オレは午後から練習。お前は?」
「午前中ちょっと出るかな」
この時期から三井と水戸は、擦れ違いの生活が始まる。三井が水戸を目で追っていた時、その体が近付いた。ベッドが沈む。水戸が三井の側に座っている。
「起こしてごめんね。もう寝なよ」
そう言うと水戸は、三井の髪を梳いた。彼の乾いた指の感触が、三井は好きだった。大きな掌で頭を撫でられることも好きだった。それは酷く心地良く、眠気を誘う。
「おやすみ」
自然と口から出ていた言葉に、水戸は呟くように低く、おやすみ、と言った。そしてまた、三井の髪を梳いた。それから額に軽くキスをすると、ベッドのスプリングが揺れる。水戸は立ち上がり、着替えを持って寝室を出た。
三井は朝、自分が水戸の髪を梳いたことを思い出しながら、目を閉じたのだった。






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