短編

□愛を綴る
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翌朝から、冷戦状態が続いた。勿論水戸はリビングで一人で眠っていて、起床している。三井は例の喧嘩から毎朝、珍しく早起きをし、何も言わず水戸が起きる前に部屋を出て行っていた。水戸は気付いていた。けれども折れる気にもならなかった。話す言葉は、おかえりもただいまもなかった。何故なら、三井の仕事が詰まっているのか、帰宅は深夜を回るようになったからだった。シーズン前になるとこうなるのかもしれない、同居を始める前からも、シーズン前には連絡が途絶えることが多かった。そんな日々が週末まで続いた土曜日、水戸は、会社自体は休みだったけれど事務処理が残っていた為、出勤する予定だった。三井はというと、起きた様子はなかった。今日は休みなのかもしれない、そう思った。
起床して、ベランダに出て一服する。やはりまだ風は生温かった。夏の終わり、水戸は自然とそう感じた。青臭い匂いが鼻を掠め、蝉が鳴き始める。すると同時に、その声に釣られたのか鳴き声が増えていく。女が良かったらこんなめんどくせえこと最初からしねえよ、水戸は誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。
職場に着くと、当たり前に人は居なかった。午前中には終わらせようと、エアコンを点けて、パソコンのスイッチを入れた。メガネを掛け、立ち上がるのを待った。一人で居る静かな時間が良かったのか、仕事の進みは早かった。二時間程度集中して、意外と早く終わる。一服したら帰るか、そう思って煙草に火を点けると、事務所のドアが開いた。
「こんにちは」
「ああ、どうも」
そこには遥が立っていた。仕事の筈はなかった。経理の人間は基本的に土曜日は休みだからだ。
「どうしたんすか?」
「水戸さんが居るかと思ったから」
その経理のねーちゃんはお前に気があんだよ。三井の言葉が脳裏を過る。俺の負けですごめんなさい、水戸はそう思った。さすがに気付いた。気がなければ、わざわざ休日に職場には来ない。
「わたし、水戸さんが好きです」
「言わないで欲しかったなぁ」
水戸は素直にそう思った。困るからだ。ただ困る。
「彼女居ないんですよね?」
「好きな人がいます。すみません」
水戸は煙草を吸い終わり、灰皿に押し付ける。それからメガネを外し、ケースに収めた。
「でも付き合ってないんでしょ?」
「付き合ってるっていうんじゃねえかな」
ただ好きなだけです。はっきり言うと、彼女は黙った。それからしばらく沈黙が続き、話は終わりかと立ち上がった。すると彼女は、水戸を見上げた。小さい、見下ろした彼女を見て、見上げることとはこうも違うのかと実感する。
「付き合ってないならいいじゃない。浮気相手でもいいよ」
敬語のなくなった言葉を聞いて、彼女が形振り構わない気でいることを知った。浮気、ねぇ。水戸は腕を組んで考えた。浮気、浮気じみた、何回も。三井から言われた言葉と、遥の言う浮気相手というそれを照らし合わせ、軽く息を吐く。
「そうだなぁ、例えば俺が遥さんを抱けるかっていったら抱けるんですよね。あんたの言う浮気相手って要はそういうこと込みでしょ?」
「……まあ、そういうことかな」
「俺からしたら浮気って多少でも気持ちがないと出来ないと思うんですよ、好きじゃなくても好意があるとかそういう。でも、入れて動かして吐き出すなんて自慰と一緒じゃないっすか。気持ちがなけりゃ、浮気にもなんねえって話。ここで話してたことも、仕事相手と話したことっていちいち全部言わねえから隠してることにもならない。俺にとってあんたは、そういう存在なんです。浮気相手にもならない自慰行為の対象なんて嫌だろ」
「はっきり言うのね。結構傷付くんだけど」
「はっきり言わないとね、ぎゃんぎゃん騒ぐ人が居るんですよ」
じゃあ帰ります。そう言って彼女を横切って、それから振り返る。
「あ、仕事辞めないでください。あんたが辞めたら俺の仕事が増えるんですよ」
お疲れ様でした、今度こそ振り返らず、水戸は職場を出た。異様に疲れた、水戸はそう思った。そして声が聞きたくて、会いたいと思った。事務所から駐車場に着くまでの間、携帯を取り出し、三井の名前を出す。躊躇なく通話ボタンを押し、しばらく待った。すると酷く不機嫌そうに、『もしもし』と声がする。
「俺です」
『知ってるよ』
「休み?」
『そうだけど』
「今仕事終わったんだけど、飯行かねえ?奢るよ」
そう言うと、三井は黙った。しばらく沈黙が続き、息を吸う音が聞こえた気がした。
『お前、オレに言うことあるだろ』
「はいはい。ごめんなさい俺が悪かったです」
『全く心がこもってねえんだよ!』
はは、と水戸は笑いながら、車に乗った。そこは酷く蒸していて、すぐにエンジンを掛けた。窓を開け、煙草を一本取り出し火を点ける。かち、というライターの音が、車内で響いた。
「つーか、女がいいとか二度と言うなよ?今度言ったらマジで殴る」
『……悪かった』
「あと、浮気だの何だの嫉妬する必要もねえよ」
『いや、お前に気がなくても相手が分かんねえ』
「だから、気がないから心配する必要がないってこと」
そう言うと、また三井は黙った。
「もう切るよ?今職場だから、三十分後。よろしく」
『あ!待った!』
「何?急いでんだけど」
『お前、ほんとにオレを好きなんだよな?』
三井の言葉は、水戸を酷く疲れさせる。ここまで言っても信じてもらえないと思うとうんざりする。はあ、と水戸は息を吐いた。それでも水戸は、三井の「おかえり」が意図的になかった日々が酷くつまらなかった。慣れてしまった言葉がなくなり、孤独を知った。これが愛でないなら何?水戸は心底そう思う。
「ああもうめんどくせえな、好きだよ!」
多少声を荒げて言うと、三井は声を上げて笑った。帰宅したらきっと、三井が「おかえり」と言うだろう。水戸はそれを想像しながら、車を走らせた。





終わり


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