短編

□愛を綴る
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今日もあっちーな、水戸は心の中で独り言ちながら、昼休憩も終わりに近付いた所でようやく、ひと段落ついて事務所に入った。そこには、自席に座り昼休憩なのにもかかわらず、少しだけ困ったようにパソコンを眺めている経理の職員しか居なかった。
夏の終わりに差し掛かってはいたけれど残暑が厳しく、昼休憩には必ず、水戸は作業着の上を脱ぎ、袖を腰に巻き付けている。事務所内は空調も整っていて、Tシャツから出た腕がすぐに冷える。水分補給だけでも早めにしようと、持って来ていた烏龍茶を飲んだ。今日は昼休憩を取れるかどうか未定だと分かっていたからおにぎりしか持って来なかった。こういうことは時々あった。そうなると大概、手が空いた時にパソコンを構いながら、それを頬張ることが多かった。
自席の側に立って烏龍茶を飲んでいると水戸は、パソコンを睨み付けているように見えた経理の職員、遥から声を掛けられた。内容は、とある顧客からの先月の入金がまだなのだけれど大丈夫なのか分からない、とのことだった。ああその人はいつもそうなんっすよ。水戸はそう返した。すると彼女は不思議そうに、そうなんですか?じゃあどうするの?と軽く首を傾げて聞いた。遥は永瀬モーターに勤め始めて、まだ日は浅かった。だからまだ、顧客の実情を詳しくは知らない。だから水戸は、そこは社長の仕事。と笑って言ったのだった。あの社長は、女性に対して手は早いが、仕事の手も早かった。きっともう話は済んでいるだろう、水戸はそう思った。あと二日後には入金ありますよ、そう言うと彼女は急に安堵した表情を見せ、良かった、と言う。そして、ごめんなさいまだ慣れなくて、と申し訳なさそうに目を伏せた。水戸はかぶりを振った。それは彼女のせいではないからだった。また安堵したように彼女が笑ったから、水戸も釣られた。すると、ああそうだ、と遥が思い出したように声を出した。水戸さんちょっと、彼女は自席に水戸を呼んだ。そして自分の弁当を見せる。キャラ弁、と言って笑顔でそれを見せ、水戸に覗き込むように示した。
「はは、可愛いっすね」
「良かったらどうぞ。水戸さん、忙しいといつもおにぎりしか食べないから」
「いや、いいっすよ。遥さんどうするんですか?」
「わたし最近太ってきちゃって、ダイエット中なんです。だから食べてもらえると嬉しいなって」
「ダイエット?そんなんしなくても十分可愛いのに。やめた方がいいって」
女性は少し太ると、すぐダイエットだの何だの言い出す。それをよく知っていた水戸は、笑いながら言った。すると彼女は俯き、どうぞ、と弁当箱を手渡した。長い髪で隠れて、表情は伺えない。捨てられるよりマシか、と考えた水戸は、どうも、とそれを受け取った。
午後からは何台か車を整備して、夕方からは事務所で仕事をした。その時ようやく、遥から受け取った弁当箱を開けた。彼女はもう退勤していて、その姿はなかった。他の職員は未だに外で仕事をしていて、水戸以外は居なかった。蓋を開けると、見事に女性らしい弁当だった。色とりどりの鮮やかなそれで、キャラ弁というのはキャラクター弁当なのだと水戸は初めて知る。中身は猫だった。いただきます、と小さく言って食べると、味も美味かった。彼氏は幸せもんだね、と小さく笑った。
帰宅したのは、午後九時近かった。三井は既に食事も風呂も終えたのか、ソファに座ってテレビを見ている。テーブルには、オムライスとサラダとスープが置いてある。またオムライス、と水戸は笑った。帰宅時、三井はいつも、おかえり、と言う。それに水戸は必ず、ただいま、と返していた。今は慣れたけれど、一緒に暮らし始めた最初の頃は、少しばかり動揺した。気恥ずかしくてむず痒くて、言葉を探した。すると彼は「おかえりと言えばただいまだろ」と当たり前のことを言うのだ。けれど生活の中で当たり前の言葉があることを、水戸は知らなかった。それをその時、ようやく知ったのだった。おかえりとただいまが存在する生活に、水戸は慣れていなかった。
水戸はまず、キッチンに立った。鞄から、遥から受け取った弁当箱を取り出してシンクに置いた。水を流して浸けておくからだった。それから冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。プルタブを開けて呷ると、疲れた体に酷く染みる。それを持ったままテーブルに行き、一度置いた。ラップの掛かっているオムライスとスープをレンジに入れ、加熱しておく。その間に一服しようと、ベランダに向かった。その時、ソファに座る三井の後頭部が見える。
「また濡れてる」
水戸が言うと、三井は水戸を見上げた。と同時に、水戸は一本煙草を加えた。なぜか三井は、水戸を見ていた。
「ん?何?」
「いや、別に何でも」
「風邪引くなよ」
そう言って二度ほど、水戸は彼の頭に軽く触れた。ベランダを開けると、室内と外の差異に驚いた。冷やし過ぎ、水戸はいつもそう思う。こうしてここで柵に縋り、水戸は朝晩必ず煙草を吸っていた。それこそ始めは慣れなかった。今までは室内だろうがどこだろうが、所構わず煙草に火を点けていた。それが今は、この部屋に住んでからはここでしか吸わなくなった。でも何故か、窮屈だと感じることもなかった。
夜の風は生温かった。気温はなかなか下がらない。毎日暑くて、外で仕事をすることが多い水戸は、いくら体力に不憫さを感じたことはなくとも、夜になるとさすがに気が抜ける。一本吸い終わり、灰皿にそれを押し付けた。ベランダの窓を開けると、三井はソファにはおらず、キッチンに居た。水戸もレンジまで行き、オムライスとスープを取り出した。三井は新しいビールを持って、シンクを覗き込んでいる。
「何やってんの?」
「おい」
「はい」
「お前こんな女みたいな弁当箱使ってたっけ?」
「ああ、今日経理の人がくれた」
「は?」
水戸は皿をローテーブルに運ぼうと、キッチンを後にする。後ろから足音がして、三井が着いて来ているのが分かった。オムライスとスープをローテーブルに置き、ああサラダ、と思い出して、テーブルに行き、それとビールを手に持って、またローテーブルに運んだ。前に座り、いただきます、と言ってスプーンでオムライスを掬う。すると三井は、ソファには座らず、水戸の隣に座った。
「何で弁当もらってんだよ」
「ダイエット中で食ってくれって言われたから」
「は?!お前それ真に受けてんの?!」
「女の子ってあれで太ったとか意味分かんねえよ、七不思議の一つだね」
「アホか!前に言ったろうが!その経理のねーちゃんはお前に気があんだよ意味分かんねえのはお前だ!」
その言葉に水戸は、はあ、と深い溜息を吐いた。有り得ねえ、そう思ったからだった。
「あのね、俺そんなモテねえから。ほんともう、みっともない嫉妬すんのやめな?」
「お前がここまでバカだとは思わなかった」
「はいはいごめんね、この話終わり」
そう言って、もう一度水戸は、三井の濡れた頭を撫でた。早くこの意味のない話題を終わらせ、オムライスを食べたかった。夕方に食べた、件の経理の人の小さな弁当とおにぎりで、水戸の胃袋が満たされる筈がなかったからだった。三井は黙った。隣でビールを飲む音が聞こえた。そうしている内に、オムライスを食べ終えた水戸は、ごちそうさまでした、と手を合わせる。
「美味かった。ありがとう」
一息吐いて、平らげた皿を持とうとした。その時だった。三井に手首を掴まれ、そちらを見る。と同時に、そのままフローリングに倒された。いて、と小さく言ったと思ったら三井の唇が近付いた。口付けられ、舌を差し込まれた。何だ?と疑問をぶつける暇もなく、性急に求められた。
「どうした?やけにがっつくね」
「黙ってろ」
時々、三井はこういう日があった。以前も、やらせろ、と身も蓋もない言い方をされて、そのままキッチンでしたことがあった。まあいいや好きにすれば、水戸はそう思い、三井の激情の波に飲まれることを決めた。
翌朝、三井は酷く上機嫌だった。今日は午前中は雑用で、午後から練習だと、そう言った。もうすぐシーズンが始まるからか、彼の仕事は多いように思う。これからまた、すれ違いの日々が続く。朝は軽く会話をして、三井は先に出て行った。水戸も支度を終えると、いつものように職場へと向かった。
職場へ着くと、洗った弁当箱を取り出し、遥に手渡した。ありがとうございました、そう言うと、彼女はかぶりを振った。どうでした?と聞かれたので、美味かったです、と返す。すると後ろから、騒がしい声がした。後輩の藤田だった。彼は朝の挨拶から、酷く騒がしい男だった。
「あれ?水戸さん!」
「何だよお前は。朝からうるせえなぁ」
「キスマーク!首の後ろにキスマーク付いてますよ!うっわぁ、貴重なもん見たー!しゃちょー!水戸さんが!」
「は?ちょ、藤田お前黙れ!」
昨日のだ、水戸は知らぬ間に付けられていたキスマークに呆れていた。思わず息を吐くと、遥の視線に気付いた。彼女は物言いたげな表情を見せたものの、結局何も言わず自席に着いた。
それからは社長から始まり、藤田は勿論、先輩達からも質問責めにあった。水戸はずっと、彼女は居ないと言っていたからだった。めんどくせえなぁ、と思いながら、続く質問を適当に遇らう。その作業が酷く億劫だった。だから見えるとこに付けんなって言ってんのに、水戸はまた、深々と溜息を吐いた。
帰宅すると、三井は既に帰っていた。おかえり、と声を出す彼はまた上機嫌で、その表情に水戸は確信犯だと分かった。水戸はまた、今日何度目か分からない溜息を、あからさまに深く吐いた。
「見えるとこに付けんなって言ったろ?」
「お前があんまりバカだからだよ」
「何回言えば分かんの?みっともない嫉妬すんじゃねえよ、めんどくせえな」
「てめえが人の話も聞かずに浮気じみたこと何回もするからだろうが。ふざけんな!」
「だから!浮気なんかしたことねえっつーの!人の話聞いてねえのお前だろ」
あ、またお前って言った、水戸はそう思った。すると、三井の顔が豹変する。引越しを決めた時、あまりにも計画性のない言葉を吐き出した三井に、水戸は一度だけ「お前」と言ったことがあった。その時は上手く流されたようだったけれど、今回は違う。元々喧嘩腰だった。始まりからそうだった。だから流される筈もなかった。三井は水戸に近付き、胸倉を掴んだ。ここまで酷く、彼が怒りを露わにしたのを見たのはいつ振りだったか、水戸はそれもよく思い出せない。
「お前やっぱり、女の方がいいんだろ?」
またそれ言うか、水戸はそう思った。その言葉は、水戸にとって禁句だった。胸倉を掴む三井の手を掴み、力を込めた。そのまま睨みあげると、彼は多少怯んだ。そのまま逸らさずに数秒の間黙っていると、三井の目が揺れた。動揺しているようだった。
「俺もう、あんたに手ぇ上げたくないんだけど」
三井は未だに手を離さなかった。目も逸らさなかった。
「殴りたくもねえし、酷い抱き方したくないんだよね」
そう言うと彼は手を離し、一人寝室へ消えた。一人で寝ろ、とも言わなかった。あーあ、水戸はもう、それしかなかった。


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