短編

□謎解き心中
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「三井さん、ネクタイ結んで」
「は?」
「苦手。出来ない」
水戸が言うと、三井はコーヒーを飲む手を止めた。そして眉間に皺を寄せ、何度か瞬きをする。変な顔、水戸は素直にそう思った。三井はちょうど、テーブルに座り、コーヒーを飲み始めた所だった。リーグ戦のシーズンが始まった彼は、月曜日の朝は遠征帰りの翌日ということで大概のんびりとしていることが多かった。今日も然り。午後出勤なのだろうと、水戸は思った。
水戸はというと、今日は朝から自動車部品を扱う大手企業で会議があるのだ。去年までは永瀬モーターの社長、永瀬が一人で参加していたのだけれど、今年は何故か永瀬自身が水戸も来るように言った。何で俺?そうは思ったけれど、社長命令と言われたら仕方ない。それに水戸は、永瀬からしょっちゅう相談を受けている。仕事のことにしても、プライベートのことにしても。もっとも、プライベートの話は聞いても聞かなくてもどちらでも良いような内容なのだけれど。
という経緯があり、水戸は今日普段は着ないスーツを着ていた。それに引き換え、三井は試合中は必ずスーツだ。だから、ネクタイを結ぶのも得意だろうと水戸は踏んだのだけれど、彼は、まさか水戸がそんなことを頼むなど思っていなかったという顔をしている。
「お前ネクタイ結べねーの?ちょっと笑えるんだけど」
「普段スーツなんて着ねえもん。成人式以来」
水戸のその言葉に三井は鼻で笑い、椅子から立ち上がる。めんどくせえパターンだ、これ。水戸は瞬時に感じ取った。立ち上がった三井に、水戸はブルー地に白と黒のストライプのネクタイを渡した。渡されたそれを手に取ると、三井はまず水戸の体にネクタイを当てる。
「オレの見立てに間違いはなかったな」
「はいはい、どうも」
「いいんじゃね?なあ?」
「どうでもいいから早くしろよ。遅れる」
「つまんねえ奴。ネクタイも結べねーくせに」
「めんどくせえなぁ、もう」
得意気にネクタイを当てる三井が鬱陶しくて、水戸は呆れた。彼は特に気にした様子もなく、すみませんね、と言いながら水戸のドレスシャツの首元にネクタイを通した。簡単に結ぶ三井に、水戸は感心する。
「上手いもんだね」
「慣れてるだけだろ」
よし、最後三井はそう言って、結び目に触れた。出来たらしい。三井は水戸を満足そうに見下ろしている。
「どうも。じゃあね」
「あ、会議ってどこであんの?」
「川崎」
「一緒だな。おせーの?」
「夕方には終わるんじゃねえ?直帰だと思うよ」
ふーん、三井はそう言うと、何かを考えているようだった。サンダースは川崎がホームだ。だから練習するコートも川崎にある。
「夜、外でメシ食わねえ?」
「いいよ。終わったら連絡する。じゃあ」
三井はまた椅子に座ると、水戸を見ることなく手をひらひらと振った。返答はない。もうコーヒーを飲んでいた。午前中はゆっくりするんだろうな、水戸はそう思った。
シーズン中は、二人の時間はほぼ合わない。水戸の仕事が詰まると尚更だった。だから、今日のような日はなかなか無いに等しい。たまには良いのかもな、そんなことを考えながら、水戸は履き慣れないビジネスシューズを取り出す為、シューズインクロークを開けた。そこにはずらりと三井の靴が並んでいる。スニーカーにビジネスシューズにその他諸々。水戸には全く分からない世界で、見た瞬間にぎょっとする。靴ってこんなに居るもの?水戸がここを開けることはほぼないけれど、開ける時は毎回思う。あの人はこの場所を堪能してる、それも何かの時に必ず思うことだった。
水戸はビジネスシューズを履いた。慣れねえなぁ、硬い革が足に纏わり付いて、普段とは違う妙な感覚だった。マンションから駐車場に向かって歩く間、スーツを着ても暑くないことを知った。今は秋だった。秋はあまり際立った匂いがしない。乾いていて、空気が少しだけ乾燥している。短くてすぐに終わるそれは、もうすぐ寒くなることを告げている気がした。見上げると鱗雲が並んでいて、空は季節を顕著に表すと水戸は思った。車に乗り、シートベルトを付けてエンジンを掛ける。サイドブレーキを下ろし、アクセルを踏んだ。足が動かし辛い。そうだスーツだ。めんどくせえなぁ、水戸はそう思いながら、胸ポケットに入れていた煙草を一本取り出し、ライターで火を点けた。
このスーツは三井が選んだ物だった。社内である小さな会議の時は作業着でそのまま参加するのだけれど、少しばかり大きな会議に出る時はスーツが必須なのだ。それに出なくてはならないことを告げ、一瞬三井に借りようと思った。あ、と口に出しかけて気付く。サイズが違う、と。すると何故か、三井が選ぶと言ったのだ。ホームで試合がある日の夕方を狙って待ち合わせた。すると彼は、またローマ字が並ぶ店へ連れて行こうとしたのだけれど、丁重にお断りした。そんな金ない、そう言った。するとスーツの量販店へ行き、店員さながら水戸の体に合わせ始める。三井が選んだのは、黒、濃紺、グレーの三色だった。試着しろ、そう言ったので、もうめんどくせえから言うこと聞いとこう、と水戸は試着室へ入った。黒でいいだろ、そう思ったから黒を最初に着て出ると、「いいじゃねーか」と満足そうに笑う。じゃあこれで、水戸は言った。しかし三井は引き止めた。「待て待て、まだ残ってるだろ」と言ったのだった。まじでめんどくせえ!水戸は心の中で悪態を吐いたけれど、こんな場所で喧嘩しても何の得にもならないと、三井の指示に従った。結局黒に決定が下され、じゃあ最初で終われば良かっただろ、という水戸の言葉は呆気なく無視されたのだった。
煙草を灰皿に押し付けながら、水戸は三井とのやり取りを思い出した。合わねえよなぁ、ほんと。そんなことを幾度となく考えながら、辿り着く結論には苦笑するしかなかった。川崎までは三、四十分程度掛かった。三井はこの辺りまでいつも、電車で通っているのだろう。水戸にはあまり用のない場所だった。駐車場に車を停め、神奈川では大手の某会社のエントランスに入ると、永瀬は既に待っていた。おはようございます、そう言うと彼は、おはよう、と返す。そして、受付のおねーちゃんイマイチだったわ、と明らかに残念がっていた。そうっすか、と水戸は半ば呆れて言うと、永瀬もまた、つまんねえ奴、とぼやいた。
会議室に行くと、神奈川の自動車整備会社の人間がそれなりに集まっていた。始まる前に資料が配布され、新しい部品開発や、その用途、注意点が事細かに記載されている。資料を読みながら、水戸は顎を親指でなぞった。その時だった。
「コーヒーどうぞ」
資料の横に置かれたインスタント用のコーヒーカップに目をやり、斜め上を見上げた。するとそこには、この会社の社員と思われる女性が、にこりとしながら順にコーヒーを置いているのだった。
「ありがとうございます。いただきます」
水戸は彼女を見て会釈すると、彼女はまたにこりと笑い、また、コーヒーどうぞ、と今度は隣の人間にカップを置いていた。社長が好きそう、そう思った。すると脇から小声で、あの子可愛い、永瀬はそう言った。水戸は小さく、はは、と笑いながら、やっぱりな、と思ったのだった。
会議は昼食を挟んで午後四時過ぎまで続いた。意外と早かった、そう思いながら永瀬とエントランスを歩いていた。二人で、あの部品を使ってみるかどうするか、そんな話をしていた時だった。
「あの!」
割と大きな声だったので振り返ると、そこにはコーヒーを配っていた女性社員が立っていた。俺?水戸は一瞬考えて、忘れ物でもしたか、と思案した。けれど何も忘れてはいなかった。すると彼女は、小さく折り畳んだ紙を水戸に差し出している。
「あの、これ……」
「俺にですか?」
「はい。呼び止めてすみませんでした」
彼女はそう言って、水戸の手に紙を渡して頭を下げた。そしてまた、職場に戻って行く。その後ろ姿を見ながら紙を広げると、名前と携帯の番号とメールアドレスが記載してあった。まずいことになった、水戸はそう思いながら、スーツのポケットにその紙を入れた。
「モテるな、洋平」
「モテないですよ、たまたまってだけで」
「たまたまであれはねえぞ」
「そんなもんっすかね」
「どうすんの、それ」
どうすっかなぁ、水戸は息を吐いて、考えた。
「多分捨てると思います」
「何で?!可愛かったろ!オレならいく、間違いなくいく!」
その言葉に、水戸は苦笑した。あんた嫁さん居るだろ、そう思ったけれど言わなかった。何しろこの社長は、結婚しているのにも拘らず、長年不倫していた男なのだ。今は多分、新しい経理の職員を狙っている。確かにあの人は可愛かったと思う。でもそうじゃない。それじゃない。欲しいのはそういうのじゃない。水戸は自分自身の思考回路に呆れるしかなかった。
「期待させるのも悪いじゃないっすか。応えられないのに連絡するのは優しさじゃないでしょ」
「彼女居ないんだろ?じゃあ良いじゃん。付き合っとけや」
水戸はその言葉にも苦笑して、エントランスを出た。永瀬は未だに納得していないようだったけれど、直帰でいいぞお疲れ、と最後に言った。水戸も、お疲れ様でした、と会釈して、駐車場に向かった。
外で食うんだっけ?水戸は朝のやり取りを反芻して、携帯を取り出した。さすがにまだ早いだろ、そうは思ったけれど、一応電話を掛けてみた。やはり出ない。当たり前だった。どうするか、と考えていると、折り返しがすぐに掛かった。
「はい」
『おう、お疲れ』
「終わっちゃったんだよね、会議。あんたまだだろ?どうする?」
『いや、オレも今日は終わり。ミーティングと軽く流す程度にしたから』
ああそうなんだ、そう言うと三井は、当たり前のように、迎えに来い、そう言った。偉そうに、とは思ったけれど、携帯を切って彼の職場に向かった。しばらく走っていると、歩道でスポーツバッグを掛けた男性が手を上げている。居た、見付けた直後スピードを軽く緩めてウィンカーを出した後、路肩に停車する。三井はすぐに助手席を開け、車に乗り込んだ。すると彼は、水戸をまじまじと見つめた。
「何?」
「やっぱ良いな、スーツ」
「俺は窮屈で仕方ねえよ」
そうだった、思い出したように、水戸は首元に手をやり、ドレスシャツのボタンを外そうとする。
「あ、待った!」
「はあ?今度は何!」
「外すな」
「何で?」
「オレの趣味だから。気にすんな」
「どんな趣味だよ、あんたやっぱ頭おかしいだろ」
「良いから出せ。いざ横浜!ゴー!」
「今から?やだ、ぜってえやだ」
「黙れ、行け」
「ああもうめんどくせえなぁ!」
結局三井の言う通り横浜へ行き、少しの間ぶらぶら歩いてから、食事は三井の決めた場所に入った。水戸はラーメン屋だとか定食屋だとか、そういう店で夕食を摂るのだと思っていた。が、三井が選んだ場所は、少し洒落た店だった。パスタやピザもあり、洒落たアルコールも何種類も飲める店だった。またベタなのが好きだよなぁ、この人。そんなことを考えながら、何でまた?そう思った。だから聞いた。すると、お前がスーツだから、そう返ってきた。そして、今日は時間も早いしシーズン中は暇もねえし、と続けたのだった。前者の理由の意味はさっぱり理解不能だったけれど、後者の理由は分かった。別に何でもいいけどね、水戸が言うと、三井は歯を見せて満足そうに笑った。
水戸は食事をしながら、会議の話を少しした。三井が聞いてきたからだった。部品開発の話と、安全性や逆に危険性の話をした。そこで思い出した。あの紙切れどうすっかなぁ、と思ったのだった。個人情報が書いてあるから下手な場所では捨てられないし、家のベランダで灰皿に入れて燃やすか、水戸は決めて、また話を始めた。

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