短編

□淀む瞳
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水戸が煙草の味を覚えたのは、中学生になったばかりの頃だった。
母親が置いていったそれを、見よう見まねで火を点け、吸い込んでみる。それは、とても美味いとは言えない代物だった。一箱弱残っていたそれを、毎朝一本づつベランダに出て吸っていた。その場所からは海が見えた。それを眺めながら毎朝、水戸は自分の名前を思い出した。洋平、それを何度反芻してみても、結局その意味を見出すことは出来なかった。その内、母親の声を思い出そうとしても、覚束ないようになる。母親の置いていった煙草は、どうやらメンソールの効いた物だった。だからやけに喉に残る、そう思った。絡み付くようなそれが酷く不快で、その内、別の物を試すようになった。
中学生に上がってしばらくすると水戸は、桜木だけではなく、大楠、野間、高宮と連むようになった。きっかけは単純に彼らに絡まれる所から始まった。まただ、水戸はそう思ったけれど、彼ら三人の目は真っ直ぐだった。正直で嘘がなく、虚像もましてや水戸を蔑む目でもなかった。水戸はこの年齢で生活費を稼がなくてはならない環境だった為、歳を誤魔化してアルバイトをしていた。そこには、嘘で固めた大人達が大勢居たのだ。だからある程度彼には、それを見抜く力が備えられた。自分が望むことなく、否応なく。だからこそ水戸は、彼らの偽りのない姿が最初から気に入っていた。ある時三人が他校の大勢に絡まれたのを助けてからというもの、一緒に居ることが当たり前になったのだった。
彼らはよく、水戸の住むアパートにやって来た。四人の嘘のない性分と年齢に伴った言葉は、水戸をただの中学生に戻した。四人と話している瞬間だけ、水戸は暗がりの部屋に自分で灯りを灯す煩わしさから抜け出せたのだった。それは水戸を幾度となく暗闇から救い上げた。一人きりの時、帰宅して暗い部屋を明るくすると、夜の窓ガラスに自分の姿が映った。その日は酷い喧嘩をした後だった。見知らぬ大人の男性数人に囲まれ、まだ小柄な水戸を殴り、蹴った。辞めたいと足掻いていた風俗嬢を一人、匿っていたからだった。その喧嘩に、水戸は勝った。手負いはあった。けれども、小柄な自分が戦う術を身に付けていた水戸は、躊躇なくその大人達を返り討ちにした。その後の処理は、知り合いの人間が上手くやったのだと思う。水戸は知らない。自分が知るべきではないことも、水戸は十分過ぎるほど学んでいた。
砂みたいだ、水戸はいつも、喧嘩をした後に思う。どれだけ血を流そうとも、痛みを感じたことはなかった。そして自分の表情がどんな物なのか、ガラス越しには全く分からなかった。きっと鏡を見た所で分からない、水戸はそう思う。
水戸は中学三年になった。四人との交流は深くなるばかりで、今日も水戸の部屋に集まっていた。夏だった。外は異常なほど暑かった。歩いていると、向こう側から陽炎が見える。学校が終わるとあまりの暑さから、水戸のアパートに集まることがほぼ毎日だった。その日も同じように同じ場所で、何をするでもなく過ごしていた。夕方になると、夏の鍋大会だと騒ぐ桜木の為に、水戸は祖母に教わったやり方で、出汁を取った。それを食べる時、桜木は決してアルコールを飲まなかった。煙草も吸わなかった。水戸も桜木が居る時だけは、ベランダで煙草を吸うようにしていた。桜木が要求した訳ではない。水戸は自らの意思で、そうしていた。
四人は水戸が作った鍋を、美味い、と絶賛する。鍋だけじゃない。カレーも、炒飯も、うどんでさえ、何もかも彼らは、絶賛する。水戸はそれが嬉しかった。その言葉に偽りがないと信じられたからだった。その内、桜木が一人、寝る、と言う。水戸のベッドに横になる。その直後、見に行くと寝息が聞こえる。水戸はその寝顔と寝息を聞くと、いつも安堵する。桜木はよく眠る。寝る子は育つ、それを水戸は毎回思う。
桜木が寝た後、未だに眠気の来ない四人は、麻雀をすることが定番になっていた。彼が起きている時もやることはあるけれど、彼はなかなかルールを覚えない。だからいつも、水戸の後ろに居て、無駄に声を出す。お!と言ったり、来たんじゃねえか?!と無駄に騒ぐ。そこで水戸はいつも笑う。うるせえんだよツキが逃げる、そう言っても水戸は、桜木が後ろに居ることを嫌だと言ったことも、ましてやそう感じたこともなかった。
「洋平」
「んー?」
雀卓を囲み始め、一戦目が始まった所で、大楠が声を出した。
「また良いとこに良いもん付けてんなぁ、羨ましくて仕方ねえよ」
「何それ」
水戸は何のことか分からず、大楠を見た。捨てる牌を頭の中で計算しながら。大楠は自分の首を人差し指で二度突いた。それを見て気付く。ああ昨日のだ、と。自分では全く気付かなかった。水戸はいつも頓着しない。だからいつも指摘されて気付く。そしてそれを、毎回億劫に思う。
「花道、気付いてるかな」
「そりゃそうだろ」
億劫に思うのは、大楠に対してじゃない。それを付けた女性に対してだった。
「言っとく。見えるとこに付けるなって」
「あのねえ、お前がキスマーク付けてるなんて日常茶飯事なの。今更花道が気にするかよ」
「日常茶飯事は言い過ぎだろ」
「いーや!日常茶飯事だね」
なあ?大楠が野間と高宮に同意を求めると、二人は深く頷いた。手は麻雀牌を引いている。そして要らない牌を捨てる。
「今度は誰だよ」
「大学生。二十歳の」
三人はぎょっとして水戸を見た。
「中三がどうやったら二十歳と付き合えんの?!」
「普通に声掛けられてそのまま。どうせ遊びだろ?あっちは他に本命居るんじゃねえの?知らないけど」
「え、お前そんなんで良いの?」
「別にどうでもいいよ。あの人自分からバラすような馬鹿じゃないし、そこが可愛いから別に何でも」
「洋平様!」
大楠が急に大声を出した。野間はそこで、声を出して笑った。まただよ、続けて野間はそう言ったのだった。
「弟子にしてください!」
「俺に勝てたらな。リーチ」
「げ、早っ」
高宮が呟くように言う。野間は溜息を吐いて、掌で額を覆う。大楠は今度、声にならない声を上げる。そして恐る恐る、大楠が牌を捨てると一言。
「あ、それロン」
「まじか!」
「何で?!」
「ここの使い方と運が違う」
はは、と笑いながら、水戸はこめかみ辺りを人差し指で二度ほど突いた。
「ノーー!!」
大楠はフローリングにばたりと倒れ、騒ぎ出した。その後も何度も何度も続けたけれど、大楠が水戸に勝てることはなかった。弟子はお預けだな、そう言うと大楠は、酷く悔しそうにしていた。
数日後、水戸は二十歳の大学生に会った。その日も寝た。見えるとこに付けないでね、そう言うと彼女は笑った。バレた?と言った。可愛い人だとは思ったけれど、一ヶ月後彼女に別れを告げた。彼女は泣いた。俺じゃなくてもいいだろ?そう言ったけれど泣いた。洋平がいい、縋られた言葉には何も、魅力がなかった。
蝉が鳴いている夏の終わりだった。
それから一年後、夏の終わりに桜木は居なかった。バスケットで故障して、リハビリで入院中だった。水戸は学校に居ない桜木を思い、出来る限り授業に出てノートを取っていた。昼休みの屋上で、水戸は校門辺りをぼんやりと眺めている。今日も暑い。溶けるような暑さに加え、止まない蝉の鳴き声と、真上から照り付ける太陽が体感温度を上昇させた。九月も始まった、それなのに夏の暑さは終わらない。何も考えず、時々当たる生温い風を背中で受けていた。その時だった。名前と顔を知っている、二つ上の上級生が、昇降口から出て行くのを見た。その背中を追いながら、水戸は彼のシュートフォームを思い出す。
どっか行くのかね、あの先輩は。きっと学校近くにあるコンビニだと、水戸は思った。いつだったか、夜の体育館に灯りが未だに灯っているのを見付け、たまたま体育館に寄った。その時、水戸に背中を向けながら、必死にシュートを放っていた。一本打つごとにスリーポイントラインまで戻り、また打つ。それを何度も繰り返す。その日水戸は、喧嘩をした後だった。他校の連中に絡まれた水戸は、手負いは負うものの、負けることはなかった。ただ、いつもは感じない筈の痛みが、水戸を襲った。殴られた頬に触れると、そこは痺れたように熱かった。砂じゃない、ただそう思った。それから何度か、あの人以外居ない体育館を覗くことが増えた。そして、自分は砂じゃないと顕著に感じた。
制服のポケットから振動を感じた。携帯の振動だった。取り出すと、付き合っている女性の名前が画面に出ていた。
「はい」
『わたし。今日会えるかな』
「今から?」
『今ってきみ学校でしょ?』
水戸は午後の授業を頭の中で思い出した。体育、選択授業の美術、今日は六限授業でアルバイトは休みだ。
「今からでもいいよ」
『授業受けなよ』
転がるようにくすくすと笑いながらも彼女は、水戸の申し出を断る様子でもなかった。
「どこ?」
『うちに来る?』
「分かった。じゃあ後で」
携帯を切ると、水戸は屋上を後にした。教室に寄り、自分の鞄を手に取る。騒ついた室内で、水戸が居なくなることに目を向ける人間は居なかった。昇降口を出ると、また太陽が照り付けた。あち、と独り言ちて前を向く。すると数メートル先を、あの人が歩いているのが見えた。おかえり、水戸は心の中で呟いた。彼はまだ水戸には気付いていないようだった。その距離凡そ、五メートル、四メートル、そこまで水戸は彼を見ていた。三メートル、水戸は軽く俯く。だから目は合わない。二メートル、一メートル、ゼロ。その瞬間、水戸は彼に会釈した。桜木の先輩だからだ。言葉は交わさず、ただ頭を軽く下げた。彼がそれに対しどうしたのか、水戸は知らない。すれ違ってそのまま、校門を出る。
一度だけ振り返った。彼はもう、居なかった。校舎に入った後なのだろう。
「じゃあね、また明日」
呟いた所で、あの人は勿論、辺りには誰も居ない。
その声を聞いたのは、何処かしらで鳴き続ける蝉だけだった。また明日、水戸はあの背中を思い出しながら、もう一度呟いた。





終わり。

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