短編

□きみを好きになった瞬間について
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遠征先から帰宅した三井の耳にまず届いたのは、水戸の笑い声だった。珍しい、と何度か瞬きし、誰か来てる?と玄関を見下ろすも、見慣れたスニーカーが一つ、揃えて置いてあるだけだった。三井も同じように玄関に履き慣れたスニーカーを揃えて脱ぎ、それからリビングへと続く廊下を歩いた。ただいま、そう言ってドアを開けると、おかえり、とソファに座っていた水戸は、顔だけを三井に向けた。表情を観察すると、やはり上機嫌だった。テレビからは落語が聞こえている。水戸は落語が好きだ。これを観たり聴いたりしている時は、珍しくよく笑うのだ。その顔を三井は、酷く気に入っていた。疲れた体に良い物が見れた、と三井自身も気分が高揚する。土産を渡そうと水戸に近付き、ソファの下のフローリングに座る。すると、くく、とまた含み笑いのようなものが聞こえ顔を上げると、水戸は親指で唇をなぞりながら笑っている。三井は水戸の珍しい表情は気に入ってはいたけれど、落語の何が面白いのかは正直分からない。水戸曰く「落語家の賢い所」だそうだ。確かにテンポ良く小気味良い声と口調には納得がいく。けれど、わざわざDVDで観るほどとはとても思えなかった。オレならバスケ観る、そう思うことは何度もあった。
テーブルには以前三井が遠征先で買ってきた、これもまた土産物である地酒が置いてあり、水戸はこれを飲みながら落語を観ていたようだった。三井は日本酒は好きではなかった。不味いとは思わない。嗜む程度なら良かった。あれには以前酷い目にあったからだ。水戸の祖母の店で飲んだ時に加え、大学生の頃も飲み口が柔らかいからといって飲んだら、次の日バスケどころではなくなった。それ以降は、あまり飲まないようにしている。酒は飲んでも飲まれるな、これだ。
「お疲れ様」
「ほい、土産」
「ありがと。見ていい?」
どうぞ、と施すと水戸は紙袋の中を覗き込んで取り出した。
「あんたはほんと、俺の趣味を分かってるね」
「好きなもんは大概知ってる」
「へえ、言ってみろよ」
「煙草、酒、パチンコ、落語、バイク。あと何だろ。あ、料理洗濯掃除」
「前半三つだけ聞くと俺ろくでもねえ奴だな」
「最後んとこでポイント高くなるだろ?」
「つーか、料理洗濯掃除は趣味じゃねえから。必要に迫られてやってるだけ」
あんた何回言っても直んねえし、と言うとまた水戸は笑った。呆れながらも笑っていた。本当に機嫌が良さそうで、そんなに落語が面白かったのだろうかと、三井はまた彼の趣味を怪訝に思う。合わねえよなぁ、と天井を仰ぎ見ながら、今更のように思う。
土産物は新潟の淡麗辛口が謳い文句の地酒、久保田という日本酒とどぶろくだ。それから甘い物が苦手な彼に、うす揚げえび味というおかきを買って帰った。きっと酒のアテになるだろう。
「どうだった?」
「ああ、全勝。すげーだろ」
「すげえじゃん。ホームの試合、また観に行こうかな」
そう言うと水戸は、飲んでもいい?と日本酒に触れた。いいよ、と言うと蓋を開ける。お猪口より多少大きな、今も使っているグラスに少しだけ日本酒を注ぎ、まずは鼻を近付けて香りを嗅いでいた。それから口を付けると、美味いね、と薄く笑う。水戸は時々、ホームの試合は観に来ることがあった。三井がコートに立つことはないけれど、それでも気にはなるらしい。彼はバスケ観戦も好きなようだった。ルールもそこそこ分かっていて、元々動体視力も良いのか、よく動いて裏の仕事をする選手に目を付けることが多かった。好きな物、一個追加。三井は頭の中にそれを置いた。
「明日は?休み?」
「午後から。ちょっと休めるかな、久々に」
「良かったね、風呂溜まってるよ」
未だにフローリングに座っている三井は、ソファに座ったままでいる水戸を見上げた。こういう風に、彼を見上げる回数は少ない。なんか新鮮、三井はその時々、水戸の表情や言葉や行動、それを不意に新鮮だと感じることがあった。もう出会って何年にもなる。それなのに。思えば、趣味も嗜好も合わない。三井はバイクも乗らなければパチンコにも興味はない。煙草も吸わなければ、アルコールにも然程強くない。どちらかといえば飽き性で適当でいい加減。でもバスケだけは幼い頃から変わらず熱中している。要するに合わない。水戸とは基本的な部分で全く合わないのだった。本人からも同じことをしょっちゅう言われている。耳にタコが出来るほど。それでも何故か、水戸と居ることを三井は、決して飽きなかった。それ所か寧ろ、知れば知るほど深みにはまっていきそうで怖くて、しかしそれは恐怖からではなく純粋に水戸に対する恋愛感情から生まれる物以外の何物でもなかった。好きだった。とにかく好きだった。
三井は四日間は自宅に居なかった。リーグ戦が始まるとこうなることはほぼ毎週で、練習やその他諸々の雑用に追われ、シーズンの間はあまり暇がない。水戸もまた連日の仕事に追われていて、顔をしっかり合わせるのも久々だった。だから余計に、水戸の別段変わりない姿に、逆にふとした瞬間に見せる違った表情に、三井は目を瞠る。
「お前どうしたの、風呂まで溜めてるって優し過ぎて怖いんだけど」
「何気に酷いこと言うよな」
そうか?と訝しんで水戸を見ると、彼の手が伸びる。その掌は、三井の頭を撫でた。そしてもう一度、お疲れ様、と言うのだった。水戸の掌は大きい。その掌で、三井の髪を優しく遊ぶように触れている。触れられる時もいつも思うのだ。大きくて乾いた掌が、好きで仕方ないと。オレの好きな物って何だろう、撫でられることが気持ち良くて、三井はその緩慢な動きに身を委ねながら考えた。
バスケ、洋服関係、それから何だろう。ああそうだ水戸だった。同列に並べるのも可笑しな話だったけれど、三井は水戸を好きだった。バスケとは別の次元で、自分にとって絶対失いたくない必要不可欠な物。それはずっと前から、飽きることなく。
見上げていると、水戸はまたテレビに視線を移し、それからリモコンを手に取るとDVDを停止してテレビ自体の電源を落とした。それからソファから降りて、三井の正面に座り直す。水戸の目を見ると、少しだけ水気を孕んでいるように見えた。頬も凝視しなければ分からない程度だけれど、仄かに赤い。
「もしかしてお前酔ってる?」
「そうかも」
結構飲んだから。続けてそう言うと水戸は、次は三井の顔を撫でた。三井はまたそれに全てを委ねながら、酔った水戸を見るのも珍しいと考えていた。箱根以来?と。
「お前知ってる?酔うとなんか色っぽいんだよ」
「色っぽいかどうかは知らねえけど、そういうことは考えてる」
「そういうことって何だよ」
「久々にあんたを抱きたいなぁって」
「外でも酔っ払うの?」
「急に質問内容が変わるね」
今度は軽く俯いて目を細め、薄く笑った。色っぽいなぁこいつ、俯瞰で見ようが正面から見ようが、漂わせるそれは変わることはない。
「オレ以外には見せるなよ、その顔」
「どの顔か知らないけどご心配なく。外で酔っ払ったことねえから。あいつらと飲んでも酔わねえし」
あいつらって軍団か、当たり前のことを考えていると、水戸と目が合った。そうだ、この目も好きなんだ。三井は好きな物を一列に、同列に並べていく。水戸は目を細めるようにして、三井を見た。キスされる、そう思った時には唇が触れていた。ゆっくりと侵入する舌からアルコールの味がして、鼻からその香りが抜ける。キスをするのも久々だった。いつ振りかも思い出せないくらいであることは確かだった。
オレの好きな物。水戸の目。水戸のキス。すげー好き。大好き。他は、他は、何だっけ?もういいや、どうでもいい。
水戸と出会って、もう十年近く経っていた。その間会わなかった期間を撥ねたとしても、もう五年になる。五年の間に、数え切れないほどキスをした。キスだけじゃない。数えるのも億劫になるほど抱かれた。何度しても飽きなかった。まだキスは続いている。角度を変えて、舌を出し入れしながら優しいキスは続いた。時々目を開けると、水戸も目を開けていた。至近距離で合って、三井はまた目を閉じる。水戸はキスの最中は目を閉じない。決して。ずっと前からそうだった。だから三井が目を開けていると、「何で開けてんの?」と怪訝そうに聞かれるのだ。何でと言われても見たいから。それしかなかった。
「今日はそういう気分ですか?」
「何それ」
「だって先輩こないださぁ、そういう気分じゃなくても付き合ってやってるっつってたろ?」
「お前がしたいなら付き合ってやってもいいよ」
嘘だけど。この間言ったことも嘘だった。三井は思い出していた。水戸に触られると、気分も何もあったものじゃない。それを自分自身よく知っていた。
「じゃあやめとく?疲れてるだろうし」
「は?!いやいや、付き合ってやるっつってんじゃん」
「はは、おもしろ」
水戸はまた笑うと、続けてキスをした。キスが好きなんじゃない、こいつはオレが好き。そう考えるだけで三井は否応無く欲情した。
今日は後ろから突かれた。顔が見たい、そう言っても、ダメ、と一蹴される。それでも三井の喜ぶ箇所ばかりを攻め立てるから、喘ぐしかなかった。自分の耳に届くのは男のそれでしかなくて、これの何がいいのか三井には未だに分からなかった。でももしも、水戸の艶っぽい声が聞けるなら聞いてみたいとも思った。今度挿れさせろって言ったらやらせてくれるかな、そんなことを三井は考えた。そして、きっと殴られて終わりだという結論に至って考えることをやめた。三井は伏せていた顔を横に向け、頬にフローリングの冷えた感触を受ける。そのままリビングでしていたからだ。目だけで水戸を見ると、短く息を吐きながら、欲に満ちた目で三井を見下ろしている。この目が好き。また三井は、好きな物を並べる。
「俺の好きな物、あんたが絶対知らないもの教えてやるよ」
言われた所で、三井は返答など出来なかった。この時また、抉るように突かれたからだった。
「あんたの背中が好き。高校でバスケしてる時からずっと、背中見てるのが好きだった」
そう言うと水戸は、三井の背中に口付けた。それからべろりと舐めて、また何度も口付けた。後ろから覆い被さった水戸は、三井の手を握った。それが思いの外熱くて、その熱に三井は浮かされるようにまた声を上げる。
三井は水戸の目が好きだった。高校時代、あの目が自分を見ていないことが気に入らなくて、自分から仕掛けた。その目が背中を見ていたとも知らず。知る訳がなかった。背中を見ていたなど、知る由もなかった。
オレの好きな物。バスケ。洋服関係。水戸の目。掌。唇。ほくろ。
それから、水戸洋平。




終わり。



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