短編

□覚めて夢みる人
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喧嘩をした。それはそれはくだらないことだった。
昨夜、新しく入った経理の人から仕事のことで電話があった。最初は仕事の話をしていたけれど、相手の話が段々と脱線してきた。それに付き合っていたら、二十分くらい時間が過ぎていて、気が付いたら三井さんは風呂から上がっていた。新しい経理の人は、二十八のバツイチの女性だった。言っちゃなんだが、社長の好みだと思う。あの人は確実に、自分の好みで経理の人間を選んでいる。どうでもいい不倫話に付き合わされるのも、時間の問題だと踏んでいる。
三井さんは、珍しいな、と言った。何が?と返すと、お前にしちゃ長電話だった、と笑っていた。そこで俺は、新しい経理の人、と言って先を続けようとした。すると、みるみる内に彼の顔付きが変わる。え、俺今回はぜってえ間違えてない、そう思った。カーン!どこかでゴングが鳴った気がする。
「経理の人って女か?」
「そうだよ」
「歳上だろ?」
「そうだけど」
「お前はもうちょっと自覚しろ!」
は?は?もう全然意味が分かりません先輩。多分俺は顔を顰めた。言葉が出て来なくて、意外と気に入っているお高いソファに座りながら、立ち尽くして俺を睨み付ける三井さんを見た。彼は未だにタオルを頭に掛けていて、俺は的外れにも髪乾かそうよ、と思う。
「自覚って何を?」
一応聞いてみた。けれど聞いた所で多分、俺はよく分からないと思う。
「いいか、よーく聞け。お前は歳上にモテる。多分その経理の女もお前に気がある。分かったな!」
「あのね三井さん、俺モテねえから。モテるっていうのは流川みたいな奴を言うの。分かる?」
「流川とお前はちげーんだよ!流川みたいな、こう……、万人ウケっつーか、きゃーきゃー騒がれるタイプじゃねーんだよ」
「流川っていや、あいつすげえね。スター選手じゃん。あんたんとこに流川引き抜けよ」
「ふっざけんな!うちみたいなとこは金がねーんだよ!引き抜けるか!……じゃなくて!」
ちっ、騙されねえな。つまんねえ。思わず舌打ちすると、それがまた頭に来たのか、更に大きな声を出し始める。
「お前はな、変なフェロモンがあんの!知らん間に色目使ってんの!じゃなきゃ高校生がカルティエのジッポ貰わねーんだよ、覚えとけ!」
「は?何?かる何?日本語だか英語だか混じってて全然分かんねえ、バスケ用語?」
俺は本気だった。本気で分からなかった。フェロモンまでは分かった。でも色目だか何だか終いには、高校時代にかるなんちゃらが何とかで、真面目に聞いたのに、三井さんはまたキレた。それで結局俺が、
「くっだんねえ。まじでめんどくせえ」
と吐き出した。するとお決まりの「一人で寝ろ!」で締められる。そして俺は、風呂に入って一人でリビングに布団を敷いて寝た。
翌朝、珍しく三井さんは早起きして、キッチンで何かをしていた。俺は起きていたけれど寝たふりをして、その音を聞いていた。今日あの人休みだっけ?と思いながら、薄眼を開けてその動きを追った。三井さんは休みの日、ごく稀に早起きをする。そして極々稀に、朝食を作る。でも喧嘩中。そう思いながら、その内アラームが鳴ったので起き上がる。ベランダへ行き、煙草に火を点けた。俺が高校生の頃、昔付き合っていた人から貰ったジッポを使っているのをあの人が気に入らなくて捨ててから、それからずっと百円ライターだった。多分昨日の話はそれだ。あんな何年も前の話を未だに引き出すあの人の頭の構造は、正直理解不能だった。よく分からない所で嫉妬深い。今一緒に居るのだから、それで十分じゃないのか。あーあ、と溜息を吐いた後で、鼻から外の空気を吸い込む。
夏が近付いているのか最近は、朝から妙に蒸していた。夏の前に早々に梅雨が来るかもしれない。空気の匂いにそう思った。
ベランダから出て、顔を洗おうと洗面所に向かった。キッチンを通る時、横目で一瞥してみたけれど、俺には目もくれず何か作業をしている。洗面所から戻っても未だに黙々と下を見ていたので、おはよう、と声を掛けた。
「おう、これ持ってけ」
渡されたのは弁当箱だった。
「え、何?真面目に怖いんだけど」
そう言うと、不敵な笑みを浮かべ、ふっと鼻で笑う。あ、何かイラっとする。多分食えない物は入っていないだろうとは思ったけれど、中身を確認するのも嫌だった。毒でも一服盛ってあるのか。怖すぎる。喧嘩した翌日に弁当箱を渡される。しかも初めて。怖い。普通に怖い。
「寝るわ、おやすみ」
三井さんは一言言って、寝室に向かった。休みだったらしい。俺は朝食を適当に食べ、一応あの人の分も用意して、仕事に行った。
そして昼休み、事務所の自席で弁当箱を袋から出した。隣では藤田が、また一人で喋っている。俺の斜め前には、くだんの経理の人が座っていて、彼女も弁当箱を出した。気があるってそんな訳ねえだろアホか。
「水戸さんっていつもお弁当なんですね」
「ああ、昼飯代が勿体無いっすから」
「分かります分かります」
はは、とお互いに笑いながら、やっぱり社長の趣味だよなぁ、と漠然と考えた。そして弁当箱の蓋を開け、一瞬で閉じる。何も言わずそれを持ち、外に出た。裏の空き地の喫煙所まで歩いて、その辺りで胡座をかいて座った。もう一度蓋を開け、どんな嫌がらせだ、と思う。一口食べると普通に美味くて、結局すぐに平らげた。
ごちそうさまでした、と小さく呟いて、弁当箱に蓋をして袋に戻した。烏龍茶を飲み込んでから、煙草に火を点ける。それから作業着から携帯を取り出し、あの人に電話を掛けた。
『もしもし』
「俺ですけど」
『知ってます』
「地味な嫌がらせすんなよ」
『はは、ざまあみろ』
「まあ、美味かったです。ごちそうさまでした」
携帯の向こう側で、三井さんが満足そうに笑っているのが想像出来る。今日は早く帰れますように、と仕事の流れを頭の中で組みながら、食い終わったハートのそぼろご飯の味を思い出した。




終わり。

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