短編

□憂いた朝日
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「マルボロ?」
って読むの?ぼそりと呟くように言った。あの人に背中を向けて、ベッドの上に座って何も考えずに煙草を吸っていた時だったから、少しだけその声に驚いて振り返る。思いの外掠れていて、それにも少し。
「何?煙草?」
「お前いっつもそれだな。いつから吸ってんの?」
いつからだったか、言われて思い出そうとしてみたけれど思い出せないほど昔のような、そうでもないような、それは酷く曖昧だった。その会話をしたのも、思い出せないほど昔のような、そうでもないような、酷く曖昧だ。
思い出が交錯する瞬間、俺はいつも砂になる。




拳にめり込んだ物体の感覚があって、その直後、それと砂が擦れる音がした。人が倒れてる、他人事のように思った後で、自分が殴った相手なのだと気付いた。地面に這い蹲っているのは数人、無傷で立っているのも数人居た。その内一人が向かって来たから屈んで躱して、地面の砂を握って強く目元に投げ付ける。潰れたように目を閉じてよろけた相手の顔面に、自分の拳を叩き付けた。変な声を上げてまた一人、今度は仰向けに倒れる。一人が俺の顔を殴った。また一人が殴った。何で痛くねえのかな、また他人事のように考えたけれど、それはすぐに結論付けられる。自分が砂だからだ。また砂に変わったのだと。
マルボロ?そう聞いたあの人の声を思い出した。
ああ、煙草吸いてえなぁ。人を容赦なく殴りながら、頭の中では全く違うことを考えていた。未だに立っている人は居た。まだ居る、そう思ったけれど、俺を見る顔付きが妙だった。 まだやるの?と聞こうと思ったけれど、逃げ出すこともしなかったからやめた。早く終わらせたくて、何しろタイムセールあるし、もうどうすっかなぁ早く終わんねえかな、と地面に目線を動かすと、転がっている一人が腕時計を付けていた。擦れたのか、文字盤が割れている。ちょうど気絶していたから、そいつの手首から腕時計を引き抜く。拳に巻いて握って見遣ると、早く済みそうだ、とただ思った。
「俺、急いでるっつったよな?」
一応確認を取ってみたけれど、誰からも反応はない。いいんだ、そう思って走った。耳の向こう側で蝉の鳴く声が聞こえて、去年の夏の終わりを思い出す。覚束ない景色と屋上とあの人の顔と、ぼんやりした走馬灯みたいに流れる中で、ただ肉が弾ける音が近くから聞こえた。相反した物が交錯した時に、俺は一層砂に変化する。やっぱり早く済みそうだ最初からこうすれば良かった、顎や耳や鳩尾を狙って打つと、簡単に倒れる。ちょっとした道具の力は大きかった。
「洋平!」
元々大した話じゃなかった。ついこの間、肩がぶつかったとかぶつかっていないとか、その時は数人ですんなり事は済んだ。大体ぶつかって来たのはあっちで、俺は別にどうでも良かった。そのまま去ろうとした所で、水戸だろ?だとか何とか言っていたようないなかったような、とにかくすぐに済んだからよく覚えていない。
「洋平やめろ!」
今度は人数を増やして現れて、またやるのかめんどくせえな、ってただそれしかなくて、タイムセールに遅れるのがとにかく嫌で、しかも俺は最初に急いでるっつって、それでも俺に用があるっつって何の用だって聞いても通じねえし、今日は鶏肉安いし野菜も安いしビールも安いから、大楠も「手伝うから何か食わせろよ」って着いて来てて、何作ってやろうかなって考えてたとこに、
「洋平!!」
来てんじゃねえよぶっ殺すぞ。
「タイムセール遅れるぞ!」
「あ、やべ」
手の力を緩めると、一人がその場に崩れ落ちる。胸ぐらを締めていたからだ。そいつはその場に這い蹲って、ぴくりともしない。もう気絶しているようだった。腕を垂らすと腕時計が掌から滑るように落ちる。地面にぶつかる音が玩具みたいに軽々としていた。時計自体はめちゃくちゃなのに。
額から何かが流れる感触あって、汗か血が分からないまま制服の半袖で乱暴に拭う。見るとそこには、赤々とした血が滲んでいた。漂白、そんなことを考えながら袖を眺めた。
「お前さぁ、勘弁してよマジで」
「何が?」
近付いた大楠は、途方に暮れたような盛大な溜息を吐いて言った。
「オレが止めなかったらあいつ死んでるぜ、多分」
「手加減してるよ」
嘘吐け、大楠は呟いたけれど、どれくらいの力で気絶してどれくらいの力で死ぬのかくらい、喧嘩をする前から心得ているつもりだった。だった、けど。
制服のポケットから煙草を取り出して、火を点けた。歩き出すと大楠も歩いて、そのままスーパーに向かう。買う物を頭の中で反芻しながら、夜は何を作ってやろうか考えた。パチ屋に行っている忠と高宮も呼ぶとなると、大勢でやるといったら鍋か鶏肉ですき焼きか、すき焼きでも良いかもしれない。部活が終わったくらいに花道も呼んで、でも俺が怪我してたらあいつ心配するかもなぁそれは嫌だ。でも呼ばないのもどうか、そんなことを考えながら近所のスーパーで粗方買い終えて、外に出ると「すっげー量」と大楠が笑った。「すき焼きにしたらお前ら大概食って飲むよ」そう返して俺も笑った。
重い荷物を持ってまた歩いて、アパートの三階まで運んだ。鍵を開けて部屋に入ると、夏の空気が漂っていた。あち、と一言ぼやくように言うと、大楠も、あっちーなぁ、と続けた。リビングに入ってもその空気は変わらない。カーテンを開けて、部屋の空気を入れ替えようと窓を開ける。開けた所で、夏の暑さは変わらない。冷蔵庫に肉やら野菜やらを並べていると、大楠は既に座っていた。ビールでも出すか、と思ったけれど、生憎買ったばかりのそれは歩いている間に温くなってしまった。烏龍茶をグラスに入れて渡すと、大楠は一言、さんきゅ、と言う。
窓を閉めて、エアコンを入れた。また煙草に火を点ける。大楠も同じように、煙草に火を点けた。緩く舞う煙を追いながら、暑くて堪らない部屋が涼しくなるのを待った。不意に開襟シャツの袖口が目に付いた。血が付いているそれは、漂白しても消えるかどうか分からない。まずいことした、頭の中では思っていたけれど、特に焦ってもいなかった。
「なあ」
「ん?」
どこを見るでもなく、大楠が声を出した。他に人は居ないから、俺に話し掛けていることは確かだった。
「行ってやれば?」
「どこに?」
「お前はほんと、自分のことは全然分かってねーんだよなぁ」
そんなん誰だってそうじゃねえの?そうは思ったけれど、口には出さなかった。
「いつから会ってねーの?」
「さあ、忘れた」
あの人のことだということは、最初から分かっていた。
「すき焼き?だっけ?明日で良いって」
「お節介だね、お前」
「世話焼かねーとダメなヤツ限定」
つまりお前だ、大楠はそう言うと灰皿に煙草を押し付けた。
「あの人さぁ」
「うん」
「マルボロ知らねえんだよ、読み方」
「へえ、煙草吸わねーからじゃね?」
「いつから吸ってんのか聞かれたんだけど、お前覚えてる?」
「忘れた」
「覚えてねえよ、俺も」
それと同じくらい、いつ会って喋ったか、それも覚えていない。
「鍵、明日返して」
「おう」
制服を脱いで、シャツとデニムに着替えた。血の付いたシャツはとりあえず洗濯機に入れて、明日考えればいい。顔を洗って血を流すと、ようやく痛みが襲う。鏡で顔を見たら、それなりに殴られていた。ひっでえ顔。痛みが消えないそこに、自分は砂じゃないことを知る。それが誰のせいかも分かっていた。
スニーカーを履いて玄関を出ると、未だに外は暑くて蝉も鳴いている。もう五時を回っているのに明るい空は、まだ夕暮れさえ迫っていない。その感覚は、去年の夏と一緒だった。駐輪場に置いてあるバイクに跨り、エンジンを掛けた。原付ではなくバイクに変わった。そこだけが、去年の夏とは違う。駐輪場から出て、ただ走った。高速に乗ってまたしばらく走る。変わらない道路がずっと続き、段々と車の数が多くなってくる。風が顔に当たると染みた。慣れてはくるけれど、じわじわと痛む。俺は砂じゃない。看板を見て、高速を降りると街並が違う。ここは神奈川じゃない。それが容易に分かる。あの人は今、ここに住んでいる。
未だに慣れない街並をまた走り、あの人のアパートまで着いた。そこは住宅やアパートが転々と並ぶ場所だった。いつも停める、階段脇にバイクを停めて階段を上った。時間を確認すると、午後七時を回った所だった。まだ帰っていないかもしれない。玄関の前に立ち、インターホンを押した。やはり反応はなく、待つことに決める。合鍵は貰っていた。でもなぜか、入る気にはならなかった。柵に肘を掛け、景色を眺めながら煙草に火を点けた。マルボロの箱を眺めて、赤と白の模様を見ながら、いつから吸ってたっけ?と考えたけれど、やはり思い出せなかった。マルボロにした理由も何だったか。
午後七時の空は、ようやく夕暮れが差し掛かってきていた。もうすぐ日が暮れる。それでも夏の暑さも風の温さも消えない。撫でる空気は生温い。それは一緒だった。でもここは、神奈川とは匂いが違う。
こうして、ぼんやり外を眺めることは嫌いじゃなかった。不意に掌を見ると、未だに血が滲んでいる。時計を巻いて人を殴ると、自分もそれなりに怪我をする。これを見れば多分、あの人はきっと何かを言う。めんどくせえなぁ、そう思った。それから少しだけ待った。もう一本吸おうと思った所で、うるさく階段を上る音が聞こえる。見るとそこには、慌てているのか口の開いたあの人が階段を上り切った所だった。
「水戸!」
「よう」
「おま……、何で?」
「ちょっと落ち着こうよ」
「下にバイクあったから慌てて、連絡くらい寄越せ。つーか入ってろよ」
三井さんは鍵を取り出して、玄関を開けた。続いて後から入ると、やはり匂いが違う。他人の匂いがする。それでも、夏の空気は変わらない。可笑しな話だ。
あっちーな、三井さんはぼやくように言った。部屋に入ってエアコンを付けると、唸るような音がする。
「お前、またケンカ?」
「ああ、そうだね」
「今日のは結構ひでーな」
「人数多かったから」
「何したの」
「さあ、よく分かんねえ」
「ケンカ好きだな」
「まさか。避けられるもんなら避けてえよ。俺、こう見えて臆病だし。殴るの嫌いだし」
訝しんで俺を見る三井さんを見て、頭を掻いた。このやり取りがまだ続くのだろうか、と。
「もういい?」
「何が」
「早く抱かせろよ」
次はぎょっとしたように見る。早く言えば良かった。要は喧嘩と同じだ。面倒だなぁ早く終わんねえかなって。済ませるか済ませないか、もうどうでもいいから早く。
「いやいや、久々に会ったんだし何かあるだろ」
「何かって?」
「何してた、とか」
俺は笑った。何してたって聞くの?俺が?変わんねえだろ。そう思った。けれど聞くのも嫌だった。口でも拳でも、今日はもう喧嘩は要らない。このやり取りが面倒臭い。
「あんたの話はもういいよ」
何か喋られる前に口を塞いだ。そのまま倒すと、足元がテーブルに当たったのか音がする。それを聞いて、地面に落ちた腕時計の玩具みたいな音を思い出した。酸欠になるほど長い間口を塞ぐと、諦めたのか三井さんは俺の髪に触れる。首を噛んで吸った。彼は顔を歪めながらも、されるがままだ。
殴られた顔が痺れるように痛む。




「帰んの?」
「学校あるし」
午前六時、また掠れた声で三井さんは聞いた。起きているとは思わなかった。
「お前、ヤンキーのくせに真面目だな」
「そうだね」
「次はいつ来んの?」
「さあ、分かんねえ」
じゃあね、そう言って振り返ると、まだ眠いのか細く目を開けている。もう何も言わず、玄関に向かった。鍵を開けて外に出ると、朝だからか気温はそこそこ。今はまだ、茹だるような暑さはない。鍵穴に鍵を差し込んで捻る。簡単に掛かる鍵に、玄関の向こう側に、妙な感覚が体を伝う。
階段を降りて、バイクのエンジンを掛けた。うるさく響く音を聞きながら、煙草に火を点ける。思い切り吸い込んで吐き出すと、太陽の光と混じって見えなくなる。朝日はとっくに上った後だ。今日もまた暑くなる。
次はいつ来んの?三井さんの声を思い出した。マルボロ?そう聞いた声も一緒に重なった。
いつ来んのって知らねえよマルボロの名前くらい知っとけよあんたがこっちに居るからだろバスケなんて辞めちまえ。
神奈川に帰ったところで、あの人は居ない。





終わり。

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