短編

□ラブ・ブレイカー
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目が覚めて体を起こすと、横で気持ち良さそうに寝ている人がいた。仰向けでほぼ大の字で、ここまでしっかり眠れたら最高だろうな、そう思った。携帯で時間を見ると、午前九時だった。今日は休みなのに眠りが浅いからか、いつも早く目が覚める。頭を掻いて、ベッドの下に放り投げていた煙草とライターを持った。あの人曰く、このベッドはフロアベッドと言うらしい。フローリングから程近い所にマットレスがあり、手に伸ばせばすぐにそこは床だった。かっこいいだろ?と物凄く自慢気に言われたけれど、俺は寝られれば何でも良かった。こんな所に金掛ける意味あんのかね、時々色んなことに対して疑問を感じるけれど、とりあえず放っておいている。
ベッドから降りると、マットレスが揺れて音がする。一瞬だけ隣の人に一瞥をくれたけれど、特に起きた様子もなかった。未だに寝息が聞こえている。よく寝てる、そう思いながらフローリングに足をやると、そこは少しばかりひんやりしていた。春特有の緩慢とした空気が気に入らなくて、その冷えた感触が心地良かった。寝室の窓の鍵をカーテンの隙間から開ける。ゆっくりと窓を開けて、ベランダに出た。午前九時の春の空気は、どこか気怠い。今日が日曜日で更に青空が広がっているから余計だ。陽気でほのかに甘い匂いがする気がして、春は少しだけ苦手だ。それを掻き消すように煙草に火を点けた。ここに引っ越してからというもの、この家ではベランダでしか煙草は吸わない。室内では吸わなくなった。あの人は別に構わないと言った。でも何となくやめている。
三井さんは、ようやくオフシーズンに入った。入ったとはいえ選手ではないから、事後処理が詰まっていると言う。ここ二週間と少し、彼の帰宅時間は日を跨いでいた。スポンサーとの会議や予算編成、選手育成のプログラム作成、引き抜きその他諸々。しかも今度のシーズンからは、チームをほぼ任せられるかもしれないとも聞いた。今の監督が解説だの何だのメディアへの露出が多くなるからだと。良かったじゃん、そう言うと彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。自分でプレイした方がマシ、とそう言った。あのバスケ馬鹿が相当追い詰められてる、だからその場は黙って聞いておいた。それが確か三日くらい前の話だ。
その週は俺の方も仕事が詰まっていて、朝しか顔を合わせていない。夜、俺が寝た後でベッドに入った時は目が覚めるから分かる。でもその直後すぐ寝息が聞こえるのだった。相当疲れてんな、と感じながら俺も眠りにつく。朝もぼんやりした顔で起き、特に話すこともなく朝食を食べて、「明日の朝はパンが食いたい」と何気にリクエストされて早々に仕事へ行く。え、それに毎朝対応するんですか先輩、という返答はしないでおいた。それが二週間以上続いた。そして昨日の朝は、「明日は休みだから味噌汁飲みたい出汁のやつ」と言って出て行った。出汁取れってことすか先輩、とも言わないでおいた。
煙草を一本吸い終わり、灰皿に押し付ける。ベランダからもう一度寝室に入り、窓の鍵を閉めてカーテンの隙間を閉じた。三井さんは、まだよく寝ていた。起こさないように音を立てず、そこから出る。あの人はよく、俺に優しさが足りないと言う。デリカシーがないとも言う。俺から言わせれば、毎朝リクエストにお答えして起こさないように寝室を出る辺り優しさで溢れていると思う。これの何が足りないのか全く分からない。
洗面所へ行って顔を洗い、それから洗濯機を回した。キッチンに戻り、味噌汁の準備をする。ついでに出汁巻き卵も作ってやるか、と決めた。出汁のほのかな香りが漂ってきて、この匂いは好きだと思う。味噌汁を作り終えて、もう一服するかとベランダに出る。この部屋は、リビングからでも寝室からでもベランダに出られる構造だった。だからとにかく、ベランダも広い。洗濯物がよく干せて、そこは助かっている。
すげえいい天気。晴れ過ぎていて、少しだけうんざりした。あの人が寝ていると、ここは酷く静かだ。俺がベランダで煙草を吸っていると、時々現れて何か喋っていることが多い。別について来なくていいのに、と思うけれど、その時間も嫌いではなかった。
リビングに戻って洗面所に向かうと、ちょうど洗濯機が止まった所だった。洗濯物を干す為にまたベランダに戻る。それらを干して時間を見ると、まだ十時半だった。三井さんは起きる気配もなさそうなので、コーヒーを淹れて一人で飲んだ。とにかく暇で、時間を持て余しているくだらない感覚が、今日は休みなのだと実感出来る瞬間だった。お高いソファは、お高いだけに座り心地がとても良い。そこから窓を見ると空が見えた。あの人が選んだこの場所が、段々と悪くないと思えてくる。
不意に寝顔が見たくなって、寝室に行ってみた。まだ寝てる。でも寝返りを打っていて、珍しく横向きだった。近くまで行き、座ってそれを眺めた。手を伸ばして髪の毛に触れた。それは柔らかくて、指に絡むのが気持ち良い。遊んでいたら、少しだけ唸るような声を出した。思わず笑うと、薄っすら目が開く。
「え……、何?」
いきなり目の前に俺が居たことに驚いたのか、瞬きを何度かする。まだ意識がしっかり覚醒していないようだった。こういう時とか寝付く直前、俺は無性にこの人を抱きたくなる。理由は知らない。
「してもいい?」
「は?やだ」
「珍しいね、そう言うの」
「でもお前は、やだって言っても聞かねーと思う」
「はは、正解」
ベッドに上がり込んで、三井さんの顔を撫でた。また目を閉じるので、眠いんだろうな、と分かる。耳を軽く噛むと、体が一瞬動いて、腕が伸びて首に巻き付いた。この人の「やだ」ほど信用出来ないものはないと思う。キスをして舌を差し込むと容易に応えるから、躊躇なく掻き回した。二週間以上、話すことは業務連絡のような連絡事項しかなく、当たり前に触れることも触れられることもなかった。体を撫でていると、自分がこの人に触りたかったのだと気付く。
そういえば腹が減った。だから「やだ」と言ったのかもしれない。食べてからすれば良かったとも瞬間的に思ったけれど、もうどうでもいいや、と性欲が勝った。昔はこんなんじゃなかった。もっと若い頃、皮膚も脂肪も柔らかい女の子と付き合っていた頃、その頃はしてもしなくてもどちらでも良かった。普通、若い時期の方がこういう衝動は沸き起こるものだと思うのに、俺はこの人を前にするとガキみたいな欲求が起こる。
どうかしてる。この衝動に駆られる時、俺はいつも思う。
その時、床から携帯の着信音が鳴った。
「誰の?」
「オレじゃねーよ、お前だろ。オレのこっちにあるもん」
「え、俺?まあいいや、ほっとく」
そのまま放って続けようと思ったけれど、切れることなく鳴り続けた。そしてその内インターホンまで鳴る。しかもしつこく鳴る。まさか同一人物。仕方なく着信相手の名前を見ると、その人物の名前に深々と溜息を吐いた。
「最悪……」
「誰?」
あまりこの名前は出したくなくて項垂れた。ちょっといい?と言ってベッドから降りた。それから一度息を吐いて通話ボタンを押した。それと同時にインターホンが鳴り止んだから、やはり同一人物なのだと分かった。

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