短編

□泣き砂
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運転中、寒気がした。あ、やばい。そう思った。
仕事中から何か変だな、とは感じていた。煙草を吸っても味がおかしくて、吸い込むと咳き込んだ。やっさんに、「風邪引いたんじゃねえか?」と時々聞かれて「大丈夫です」と返しながら、明日大丈夫かな、と考えた。
帰宅途中で風邪薬を買って、アパートに着いた頃には頭がぐらぐら揺れていた。駐車場に車を停め、鉄階段を登る。足が酷く重くて、こりゃ駄目だ、と思ったら笑えてきた。頭がぼんやりして、引き摺るように体を動かした。二階の部屋までの距離がいつもの倍くらい遠く感じる。鍵穴に鍵を差し込んで玄関を開けると、室内は冷えていて静まり返っている。その閑散とした空間は、いつも以上に物寂しかった。
スニーカーを脱いでも揃える気にならなくて、電気を付けるとすぐに薬を飲んだ。ばあちゃんに、「薬飲む時は絶対何か食べてから!」と耳にタコが出来るほど言われてきたのでそれは覚えているけれど、何か口に入れる気力もなければ作る体力はもっとない。エアコンも付けずにスウェットに着替えてすぐにベッドに入り、被るように布団に潜り込む。明日電話、そう思った頃には自然と瞼が落ちた。
どこかでうるさく何かの機械音が聞こえて目が覚めた。携帯の着信音だと気付くのに数秒、どこに置いたか思い出すのにまた数秒、頭は未だにはっきりしなかった。どこやったっけ?と考えながら起き上がり、ふらつく体が未だに風邪が治っていないことを分からせる。そこでようやく、携帯をデニムのポケットに入れたままだと思い出した。今何時だ?着信の名前と同時に確認すると、もう午前十一時を回っている。約束の時間は十時だった。ぜってー怒ってる、そう思いながら携帯の通話ボタンを押すと、かなり大きな声で『何やってんだよ!』と聞こえて来た。あまりにうるさくて、耳から携帯を外した。頭に響いてまた揺れそうになるからだ。
「ごめん。風邪引いた」
『は?風邪?』
「わりーね、ほんと」
連絡出来なくて、そう続けると、『大丈夫か?』と意外と神妙な声で、信じてもらえたようだと安堵する。そういえば、少し声がおかしい気がする。耳の辺りも騒ついた。治んねえなぁ、諦めたように思う。
「この埋め合わせは必ず。じゃあ」
『待て待て』
「何?」
『ちゃんと食ってんの?』
「どうだったかな」
『今から行くわ』
ああもうめんどくせえな。勘弁して。
「いいって。来んな」
『もしかしたら浮気って可能性もあるだろ』
「ねえよ。このやり取りが疲れる」
『分かんねーだろ、前科持ちめ』
「だからあれは謝ったろうが。藤田のー……ってもういいや。寝る」
余計な言葉を喋られる前に通話終了。それから起き上がって、未だに気怠い足で歩いて玄関のチェーンが掛かっているかを確認する。合鍵で入られても困るからだ。まあ、どちらにしても同じか。あの人のことだから少し開いた隙間からでも「開けろ」と怒鳴り込んできそうだ。
今日は出掛ける予定だった。久々に休みが重なって、俺は特に出掛けたい場所もなかったけれど、あの人が言い出したのだった。行く場所は聞いていない。ゆっくりさせて。そう言った。あとはパチンコか。誘ったら平然と、興味ねえ、と返されたのだ。じゃあ俺はあんたが行こうとする場所に多分興味ねえ、そう思ったけれど言わなかった。アウトドア派だなぁ、合わねえなぁ、と約束した時も思ったけれど、今も思う。
大体前科持ちって何だ。浮気なんて生まれてこの方したことねえよ。
もう一度テーブルまで戻って、煙草に火を点けた。変な味、それでもやめられなくて、思い切り吸い込む。そうしたら咳き込んで、煙草って体に悪いんだな、と今更のように気付いた。喉が渇いて、また台所に戻る。水を飲もうと蛇口を捻ってグラスに水を注いだ。カルキ臭のする水が、今日は味がしない。舌がイカれてる。こりゃ重症だ。それでも喉が渇いていたからグラスに注いだ分は飲み込んだ。寝よ。ベッドに戻ろうとした所で、カーテンの隙間から光が見えた。開けるとそこには嫌というほど晴天が広がっていて、冬の空は雲がないからか青々としていた。悪いことした、と一瞬だけ思ったけれど、それはすぐに払拭される。今生の別れじゃなし、いつでも会えるからだ。あの頃と違って。
煙草を灰皿に押し付け、薬だけでも飲もうと思ったけれど、何か食わないと流石に良くないと思った。でもやはり作る気力もない。やっぱり寝よ。食わずして薬を飲むかそのまま寝るか、二者択一の末寝ることに決めた。その時、玄関の鍵が開いた音がして、やっぱりめんどくせえことになったと心底思って溜息を吐いた。そしてチェーンの掛かっているドアを無理矢理開けようとして、がちゃがちゃうるさい音を鳴らしている。
「てめえ水戸!チェーン掛けてんな!浮気だろバカ!」
「ちっげえよ黙れ!つーか来てんじゃねえ帰れ!」
ああもう、大声を出したら余計に疲れる。未だにがっちゃんがっちゃんうるさくて、むしろさっきより酷い。無視していたら確実に壊れる。その請求費を考えたら一瞬足が竦んだ。ぞっとして慌ててチェーンを外したら、開いた、と一言言って三井さんはにやりと笑う。
腹立つ。何かすげえ腹立つ。
お邪魔ー、と我が物顔でスニーカーを脱いで部屋に入って来た。手にはビニール袋をぶら下げていて、この光景は昔見たことがあった気がした。まだ俺が、海の見えるアパートに住んでいた頃だ。
「来んなっつったろ」
「行くっつったろ」
話すことすら面倒で、もう好きにすればいいと思った。テーブルの前に座ってもう一度煙草に火を点けると、はいはい煙草禁止、そう言って彼は煙草を灰皿と一緒に取り上げる。深々と溜息を吐くと、それは一切無視して持って来ていたビニール袋を漁り出した。
「とりあえずポカリ飲んどけ。あと今からうどん作ってやっから。それ食って薬飲んで寝ろ」
「は?うどん?」
「お前教えてくれたじゃん、オレが大学の頃。卵入ったやつ」
「あー、そうだっけ。忘れた」
教え過ぎてどれがどうだったか覚えていなかった。あの頃は、この人が不器用過ぎて「違う」だの「不器用」だの散々言った気がする。しかもゴミの分別も分かっていなくて教えるとキレられるし、何か思い出したらまた頭が痛くなってきた。しかもポカリは飲めない。これ絶対自分用だろ、いい加減にしろ。
「まあいいや、何でも。お言葉に甘えるんでお好きにどうぞ」
「そうそう、病人は甘えときゃいいんだよ」
三井さんはテーブルの上にポカリと烏龍茶と(俺用があった)、居座る気満々の菓子類を広げ、一人台所に向かう。まさかずっと居る気?もうほんとやめて。
それなりに料理が出来るようになった三井さんは、時々作ることがあった。でもそれは、俺が居ない時だ。例えば俺の仕事が遅くなって自分がたまたま来た時、居ない時、それ限定。俺が居る時は何もしない。だからまだ、多分あの台所には慣れていない。なぜなら向こうから、ねーな、とか何とか、そういう言葉が聞こえるからだ。だから嫌だったんだ。こうなることが分かっていたから。
「水戸ー。あれどこ?あれ」
「あれで分かるか!」
一つ舌打ちをして俺も台所に向かうと、未だに何かを探している。その何かが分からなかったけれど、粉末出汁と醤油とみりんと酒を出して、三井さんの目の前に置いた。どうやら鍋の在り方は分かったらしい。コンロに鍋が置いてある。
「とりあえずこれ出しとくから好きに使って」
「これこれ」
何がこれこれだ。病人だと思ってんなら働かすな。
またテーブルまで戻り、煙草に火を点けようとした。でもどこにもなくて、取り上げられたことを思い出した。ほんとめんどくせえなぁ、とまた息を吐く。何となく口寂しくて、手土産らしい烏龍茶のペットボトルを開けて、グラスに注ぐ。開けたカーテンから光が射して、グラスに反射していた。それを手に取って見ると、液体が揺れる。窓の向こう側は変わらず晴天で、台所からは音がする。烏龍茶を飲み込んでテーブルに置き、後ろにあるベッドに頭と体を預けた。
目を閉じて、向こう側の音だけを聞いていると、段々とこういうのも悪くないと思えてくる。その一周回った考え方に苦笑した。その内思考が止まって、眠りそうだと分かる。テーブルの下に伸ばされている足元が覚束なくて、不意に砂浜を踏んで歩いた卒業式の朝を思い出した。初めて見た朝焼け、自分の名前、あれからもう十年近く経っているけれど、あの日から一度も二人で海には行かなかった。何でかは分からない。
「寝てんの?」
「いや、起きてる」
目を開けると、湯気の立ったうどんが目の前に置いてあった。溶き卵とネギが散らしてあって、それなりに美味そうに見える。
「凄いね」
「何が?」
「形になってる」
「バカにすんな。お前が教えたんだろ」
そうだったね、そう言って体を起こして、箸を持った。いただきます、と言って手を合わすと、どうぞ、と三井さんは小さく言った。自分用もきちんと用意してあり、三井さんも、いただきます、と言って食べ始める。一口食べると、柔らかく煮込んであるのか飲み込みやすくて食べやすかった。味はよく分からないけれど、何かが舌に残る。
「何?生姜?」
「そうだよ。言ったじゃん、うどんには生姜入れたら美味いって」
うどんに生姜だと最初に教えてくれたのはばあちゃんだった。その時も確か、あれはまだ小さな頃だった。
「小学生の時」
「うん」
「風邪引いたらばあちゃんがうどん作ってくれて、絶対生姜入ってた。あったまるからって」
「なるほどね。ばあちゃん元気?」
「そういや一回会ったっけ?卒業してから店に飯食いに行ったんだよな」
「お前、ばあちゃんにも似てる。目元とか」
そう言われて俺は三井さんを見た。そういえばこの人、俺とあの人が似てる、そう言ったこともあった。その言葉を聞いた時は、もう怒りだとかそういった類いの感情を全て通り越して尊敬すらした覚えがある。この人は達人だと、本気で思ったのだ。
「言われたことねえよ」
「えー?そっかぁ?」
「父親似」
そう言ってまたうどんを啜ると、三井さんは黙る。思った通りの顔と反応をする所は、未だに変わらない。多分この人は、ずっと変わらない気がする。
「あの人に言われたことあんだよね。あんたは父親似だって」
「……会ったこと、あんの?」
「ないよ。顔も知らない」
また同じような顔をするから、思わず笑った。三井さんはばつの悪そうな顔をして、今度は黙ってうどんを啜り始める。
それなりに食欲はあって、全部食べて薬を飲んだ。体が少しだけ暖かくなる。窓から差し込む光は変わらなくて、今更ようやく、どっか行きたかったと思い始めた。
「海」
「何?」
「今度休みが合った時は、海見に行くか」
俺が言うと、一瞬だけ三井さんは目を開いた。それからすぐ笑う。
今度こそ眠い。頭と体をそのまま後ろのベッドに預けて目を閉じた。足元にはまだ、砂浜を踏む感覚が残っている。





終わり。

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