短編

□ロマンチックステレオ
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そこは酷くぼんやりしていて、地面を歩いていても空気の上のような、とにかく踏んでいる感覚がなかった。
場所は多分鎌倉で、俺は一人で歩いていた。そうしたら前に見知ったような人が歩いていて、少しばかり悪くなった目を凝らすと、それはやはりよく知った人だった。笑って誰かと話しているように見えたその人に声を掛けようとしたけれど口を開けても空気を吐き出しても声が出なくて、喉を掌で軽く押さえる。何だ?そう思った。その内距離が開いて、追い掛けようとしたけれど足元が妙に浮ついて動きが悪い。まだ地面が覚束ないような、とにかく足場が悪かった。ここ鎌倉か?疑問に感じて辺りを見渡すけれど、やはりそこはよく知った場所で違和感もない。
その日はやけに人が多くて、避けて歩くのも上手くいかなかった。よく知ったあの人が見えなくなる。居なくなる。でも足が動かない。意味分かんねえ。喉を押さえていた掌を外して、あ、と声を出した。ようやく出た、分かった所で息を吸い、もう一度吐き出すと同時に大きく呼んだ。
三井さん。
振り返ったその人は別段変わった様子もなかったけれど、見知らぬ女性と一緒だった。
その衝撃的な映像を見た瞬間、頭の上で音が鳴る。規則正しくうるさく鳴る。目を開けると、そこは鎌倉ではなく見慣れた自分の部屋だった。変わらない安アパート、見慣れた天井、鳴っているのは携帯のアラームだった。夢だ。起き上がって息を吐いた。どうかしてる、そう思った。普段あまり夢など見ないからか、それは酷く鮮明で、現実的に思えて仕方なかった。どうかしてるのは間違いなく俺で、あれが現実に起こるかもしれないことも、よく分かっている。再会した時のあんな感情だけが優先した口約束を交わした所で、それが一生続く訳でもなし。心変わりするなと言う方が間違っているのだ。
三井さんとは、二週間程度会っていなかった。自分の仕事やあの人の遠征が重なるとこういうことはよくあることだった。どうということじゃないのに、おかしな夢を見たからおかしなことを考える。頭を掻いて、テーブルに置いてある煙草に火を点けた。灰皿を持って咥え煙草で歩いて、湯を沸かす。コーヒーを飲もうと、インスタントコーヒーの粉をカップに入れた。煙草を唇から外して首をぐるりと回すと、唸るような声を出る。あー、と自然に出てくるそれは、寝起きのかさついたものだった。
短くなった煙草を灰皿に押し付け、消した。煙は未だにゆらゆら揺れていて、それをぼんやり眺める。変な夢、また思い出して、息を吐いた。今日も仕事だ、沸いた湯をカップに入れて、一口飲んだ。あち、と呟いた声が、狭い台所に響く。
カップを持ってテーブルに戻り、テレビを点けた。ちょうど天気予報が流れていて、「神奈川の今日のお天気は快晴です。冬の始まりですが、気温も高くて過ごしやすい一日になりますよ」と綺麗なおねーちゃんが可愛く転がるような喋り方をしている。普通だったらこういう子が良いんだろうな、とぼんやり考えた。
職場はいつも通りだった。整備する車はいくつもあって、合間に社長との会議、部品の発注、後輩の指導、そうしている内にあっという間に昼休みになる。この会社には食堂なんて便利なものはなく、外に出るか事務室の自席でパソコンを前に各々好きに過ごすのがルールだった。
「水戸さんっていつも弁当っすね」
「昼メシ代勿体ねえだろ」
「彼女が作ってくれるんすか?」
「俺」
「え?まじで?」
「まじで」
弁当男子、隣の席の後輩は驚いて言った。本人は焼きそばパンとコロッケパンを並べ、一つのビニール袋を開けた所だった。弁当男子って何?そう思ったけれど聞かなかった。まずその言葉に興味がなかった。実際弁当と言っても、飯と残り物を詰めるくらいで特に朝何かを作ることはしない。後輩は未だに、凄いっすねー!と目をキラキラさせている。こいつは俺が初めて指導に当たった奴で、名前は藤田だ。よく懐いてよく喋る。俺が何も返答しなくても、次の話題に移ってまた喋る。でも不思議と不快にはさせない空気を持った奴だった。
「水戸さんって浮いた話ないっすね」
「浮いた話って何だよ」
「彼女が居るとかそういうの」
「あーあーあー、めんどくせ」
「ほらー、またそういうこと言う!」
お前のせいでまたあの夢思い出したじゃねえかよ、心の中で悪態を吐いて、思わず舌打ちする。弁当を掻き込んで、ペットボトルに入れてきている烏龍茶を飲んだ。食後の一服で煙草に火を点けると、藤田は俺の前に灰皿を差し出した。さんきゅ、と言うと、歯を見せて笑った。彼は舌打ちされようが何を言われようが、特にめげた様子もなければ気にした様子もない。慣れているのだと思う。図太いのか何なのか、俺が何も話さないから、自分の彼女の話をし出した。
髪が長くて可愛くてー目なんかうるうるしててとにかく可愛いんっすよ。
その言葉が耳を素通りする一方で、夢に出て来た女の子はどんな感じだっただろうと思い出そうとしたけれど、俺に呼ばれて振り返った三井さんの普通の顔しか、今は思い出せない。
その時携帯の着信音が鳴った。誰だ?と取り出すと、タイムリーにあの人の名前が映し出されている。
「はい」
通話ボタンを押して声を出すと同時に、席を立った。咥え煙草のまま事務室を出て、工場を抜ける。その辺りで『おう、オレオレ』と軽く弾んだ声が聞こえた。すぐ側の裏手に出て、「何?」と返すと少しだけ黙る。三井さんは、はあ、と一度溜息を吐いた。何で溜息、そう思ったけれど聞かなかった。
ここには喫煙者用の灰皿が置いてある。そこに灰を一度落として、また咥えた。
『今日早く終わるんだけど飯行かねえ?』
「ああ、いいけど」
『お前、ちょっとは喜べよ』
呆れたようにまた三井さんは溜息を吐いた。あの夢が、脳裏を過る。
「何か変な夢見てさ」
『へえ、どんな?』
「……忘れた」
覚えてるけど。本当は。
『はは、何それ』
「終わったら連絡するよ。じゃあね」
『おう』
通話を終えて携帯をポケットにしまうと、煙草の火種が根元で消えていることにようやく気付いた。灰皿に捨て、もう一本火を点ける。こう見えて喜んでますけどね。空を仰げば晴天で、天気予報で言った通りだと気付く。一本吸ったら仕事、頭の中で午後の仕事の段取りを組んだ。こっちは早く終わんのかね、煙草の煙が、仰ぎ見ていた晴天と混じって消える。
結局仕事が終わるのは午後八時半を回った所だった。本当なら八時辺りで帰れる筈だった。ただでさえ仕事が押して、それは仕方ないにしても、着替えて帰ろうと思った所で社長から相談事を受けたのだ。その内容が仕事の話ならまだしも、「嫁さんに二人目が出来たのをあいつに言った方が良いかな?」という思わず脱力するような相談で、「好きにしてくださいよ」と呆れてそれしか言えなかった。何の話かと思ったら経理のねーちゃんとの不倫話か。そこで帰ろうとしたのに引き止められ、「あいつと別れたくねーんだよー」と泣きつかれる。元々不倫に対して可もなく不可もなく要するにどうでも良いと思っている俺からしたら、今日の相談事は聞いても聞かなくてもどちらでも良かった。時間に余裕があれば聞くけれど今日はない。話が長くなりそうだと踏んで、「明日でいいですか?約束あるんで」と言った。すると社長は「洋平、お前女居たのか?いや、居ねーのがおかしいとは思ってたんだよ」と、さっきの泣きついてきた縋るような表情はどこへやら、今度は好奇の目に変わる。「先輩です」そう言って事務所を出た。
俺達の関係は当たり前に人には言えなくて、当たり前に俺には女性が付くものだと思われている。職場の連中に、それこそ藤田にも、コンパに誘われることもあった。でも俺は、あの人と再会してからことごとく断っている。厄介だなぁ、何となくそう思った。
社員駐車場に向かう途中で携帯を取り出し、三井さんの名前を出して通話ボタンを押した。するとワンコールで『もしもし』と聞こえる。
「今終わった。どこに居んの?」
携帯の向こう側の三井さんから、含み笑いが混じる。何だよ絶対めんどくせえ感じだろこれ。
『どこに居ると思う?』
「知らねえよ、めんどくせえ」
『出た出た。機嫌わりーな。おーい!』
声が携帯からと、少しだけ遠くからと、二箇所から聞こえる。まさか、と思った。小走りして車の辺りまで行くと、頭だけがルーフから飛び出ている。
「来てたの?」
俺の声に気付いたのか、三井さんが振り返った。そこに居たのは笑って立っている別段変わりないその人で、もちろん隣に女の子は居なかった。あの夢も、こうして振り返ったんだよな。
「チームの奴が彼女に乗せてもらうっつったからオレもついでに乗っけてもらった」
「あんた、ちょっとは遠慮しようよ」
「この辺だって言うからだよ」
「あっそ、まあ良いや。乗ってください、コーチ」
揶揄するように言うと、三井さんも笑って助手席に乗る。
「いつから待ってたの?」
「十分くらいじゃね?もうちょい遅かったら電話しようかなって思ってた」
「寒かったろ?すぐ電話くれりゃ良かったのに」
エンジンを掛けながらそう言うと、三井さんは黙って俺を見た。何?と聞いても、別に、としか返さない。まあいいやと車を出した。それから飯どうする?だの腹減っただの、とにかく飯の話しかしなくて、近くの定食屋に入った。早々に飯を平らげて外に出ると、三井さんは、泊るつもりだけど、と言う。俺はそれに対して、ああ、と返す程度だった。彼は訝しげに俺を見た。何か変か?と思ったけれど、何も言わず車に乗った。
三十分程度走る車内は、酷く静かだった。俺は時々煙草を吸って、信号で停車すると外を眺める。隣の三井さんはやはり黙したままでいて、じっと前を見ていた。信号が変わった。アクセルを踏んで出発する。運転しながら俺はただ、おかしな関係だよなぁ、と今更ながら考えていた。いつ終わってもおかしくないのに、理由なんて腐ったまま一つだけずっと側にあるのに、未だに続いている。
自宅アパートの駐車場に車を停め、鉄階段を登った。後ろから彼は着いて来ていて、足音が二つになる。鍵を開けて部屋に入ると、そこは酷く冷えていた。電気を点け、スニーカーを脱いだ。上がって今度は部屋の電気を点け、エアコンを点ける。
「なあ、何か怒ってんの?」
「そう見える?」
「見える。理由が分かんねーからムカついてる」
「あんたって普通に男前だよね。今更気付いたけど」
「今更かよ、昔から気付けよ」
座って煙草に火を点けた。白く細い煙が揺れる。エアコンの唸る音が聞こえて、部屋が段々と暖まってくる。彼も斜め前の定位置に座り、俺を見据える。
この人が男とどうこうなっているなんて、本来間違っている。
「俺と会わなかった間、誰か付き合ってる人居た?」
「は?何の話?」
「泣かせるくらい酷いことしてえな」
話が見えない、そう言うように目の前の人は瞬きを何度かした。珍しく自分でも何が言いたくて何をしたいのか、よく分からない。ただ靄が掛かったような塊が真ん中にあることは確かだった。
「オレお前に何かしたっけ?」
「した」
「いつ?」
「今朝。夢の中で」
彼は何のことか全く分からないようだった。俺も結局正体不明の何かは解決しないまま、勿体無いから煙草を最後まで吸って、灰皿に押し付ける。それから普通に三井さんを押し倒した。彼はこのことに対しては特に違和感を感じてはいないようだった。二週間以上会っていなくて泊まるということは、そういうつもりだったに違いないからだ。
酷くしたかったけれど、逆に優しくした。喜ぶ場所を触って好きな箇所ばかり攻めた。喘いで出して、やっぱりおかしな関係だよなぁ、と思わざるを得ない。その内それに飽きたのか、噛んで、と言った。俺は笑った。ほんと痛いの好きだね、そう言った。すると彼は、違う、と言う。そして、お前が好き、そう言った。あーあ、と思った。変な人だ、そう思った。お望み通り噛んだ。強く千切るように噛むと、彼は顔を歪める。その顔を俺は、凄く好きだと思った。変な人、そう思った。自分に対して。
「気分が良いから教えてやるよ」
終わった後で、勝ち誇ったような笑みを浮かべて三井さんが言った。何かすげえムカつく顔してる。それは言わなかったけれど、多分本人は気付いている。でも本当に気分が良いのか、珍しく何も言わなかった。何でそんなに上機嫌なのか全く分からない。出したからか?
「お前と会わない間、誰とも付き合ってねーよ」
「何で?」
「さあ、忘れた」
「あっそ」
ついでにもう一つ、三井さんはそう言って、未だにムカつく顔をやめない。やっぱり腹立つ、そうは思ったけれど黙って聞いておいた。
「お前のそれを、人は嫉妬と呼びます」
「は?何それ」
「まあ、お前にゃ分かんねーだろうな」
珍しいもん見たなー、そう言って笑うその人は、寝返りを打った。寝るんだろうな、と思いながら、今朝から気分が乗らなかった理由をようやく知った。





終わり



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