短編

□切っ先の恋人に告げる
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電車から海を見たのは久し振りだ。細長い箱に揺られながら、外を眺めた。吊革に捕まっていると、それは緩慢に揺れる。その怠惰にも感じる規則的な揺れは、酷く気怠くさせる。電車の外は雨が降っていた。東京は曇っていたのだが、神奈川は雨らしい。朝テレビで天気予報を見たような見ていないような、とにかくぼんやりと眺めていただけのような気がする。
神奈川に帰って来るのは久々だった。当然、海を見ることも。大学一回生の夏休みと正月に二度ほど帰省した。それも合わせて四日ほどの短い帰省だった。それ以外は部活に加え学生の本分も忙しく、一度も帰っていない。今は冬の終わりで、学生は長い春休みに入っていた。春からは二回生に進級する。
水戸とオレは、上手くというよりどちらかと言えば綱渡り状態で続いている。少なくともオレはそう思っている。何故なら、生活がすれ違い過ぎたからだった。思いの外、大学生は忙しかった。バスケ推薦で入学したからには、それを怠ることは許されないし講義も受けて単位を取らなければ容赦無く切り捨てられる。崖っぷち、よくそう思う。高校を卒業してから、水戸は少しだけ優しくなった気がした。気がした、というのは会えない時間が増えると小競り合いが増えるからだ。水戸は自分の生活を崩すことはしないし、それはオレも同じだった。だから、水戸の優しさが分からなくなる。それをはっきり伝えると、あからさまに億劫がる。そして必ず、「めんどくせえな」と言う。それに苛ついて噛み付くように喧嘩をする。繰り返されるそれは、毎回駄目になることを予想する。
崖っぷち、またそう思って溜息を吐いた。今日から三日間、部活が休みだった。体育館の工事をするらしく、部活が禁止になった。幸い当分の間試合もない。オレはこの三日間、帰省すると決めた。時間はもう午後八時だった。一応朝電話してみたのだけれど、着信音が鳴るだけで応答はなかった。折り返しもない。特に喧嘩をしているということはなかったのだけれど、かといってしょっちゅう連絡を取り合うこともしていなかった。特に心配も苛立ちもなかった。水戸はこういう奴、それで割り切っていた。
電車に揺られながら、このまま水戸のアパートに行こうと決めていた。もしバイトで居ないのなら、その辺りで暇を潰してまた行けば良い。それくらいの余裕が、今の自分にはあった。水戸に会える、それが今のオレには、悔しいけれど堪らなかったのだった。
ここ二週間、いや三週間近く、水戸には会っていなかった。春休みの前の試験や部活もあり、水戸は抜けられないバイトがあり、それが重なり会えなかった。だからといって連絡し合うということもしないから、続いているのかいないのか、時々分からなくなる。だけれど、こんなことはしょっちゅうだった。やはり、高校生同士とは違う。その抗えない現実には、焦燥することが多かった。
鎌倉高校前駅で停車した所で、電車を降りる。はー、と息を吐くと、その白い空気は宙に舞った。駅を出て傘を差し、歩いた。冬の終わりの雨は酷く冷たい。海沿いということもあり、風も強い。だけれどこの空気に焦がれるように一瞬立ち止まり、そしてまた歩き出した。こういう風に水戸のアパートに行く為に歩くのは久々だからだ。以前はしょっちゅうだったのに。時間の経過を嫌というほど目の当たりにしながら、否応無く進む現実の前向きさには呆気に取られる。
しばらく歩いて、水戸のアパートに着いた。三階まで歩きながら、この階段の音も久々だと思う。この場所は、冬の硬い空気をより一層深く感じさせることも。角部屋まで着き、インターホンを押した。居なきゃ居ないでどっかで暇つぶし、そんなことを考えていたその時、ドアが開く音がした。
「誰?」
そこに立っているのは、色香を剥き出しにした女性だった。長い髪に手をやり前髪を掻き上げて、酷く気怠そうにしていた。明らかに寝てました臭が漂っているその女性は、キャミソールにパーカーを羽織り、細身のデニムを履いている。背も高い方ではない。小柄なのに、妙なオーラがあった。
それ水戸のパーカー。思わず指を指して口をぱくぱくと開けた。我ながら間抜け、そう思った。女性を見ただけでも目眩がしたのに、キャミソールの上に羽織っているのは、水戸がいつも部屋で着ているパーカーだった。頭にたらいが落ちて来たような衝撃だった。
どっちが浮気でどっちが本命?頭の中には、怒りという感情以前に二人が似合いすぎて、そっちに対して頭がくらくら揺れた。
「あ、分かった!あんた洋平の友達?背も高いしバスケ関係者だ。花道とも友達なんでしょ?」
桜木にも紹介済み。また目眩がした。
「上がんなよ。あいつバイト行ってて、もうすぐ帰って来るから」
はあ、そう言ってそのまま部屋に上がった。オレ何やってんの?額を掌で押さえて溜息を吐いた。
つーかこれ怒っていいレベルの展開だよな。でも本命がこの人ですとか言われたらまじ太刀打ち出来ねーんだけど。
そう思うとより一層頭が痛くなった。リビングに入り、暖かい部屋に足を踏み入れる。その久々に見る光景は以前とまるで変わらないのに、そこには違和感があった。突然、怒りが沸々と湧き上がる。
違和感があってあたりめーだろ玄関からフェロモン女が出て来て部屋に入れられて友達だとか何だとか友達でも何でもねーよ。
「あのー……」
「何?あ、ビール飲む?」
飲めるか!思わず突っ込みたくなる。
「つかぬ事をお伺いしますが」
「どうぞ」
「水戸とどういったご関係で?」
「わたし?母親だけど」
「は?」
「母親」
思わずオレは後退る。母親?ってあのオトコのとこに行きっぱなしの母親?え?まじ?この人が?
「今オトコとケンカしててさー。でもこっちでも洋平は愛想ないし喋んないし、どうしよっかなって」
「……若っ!」
つい口から出ていた言葉に、水戸の母親は笑う。そして炬燵に座り、煙草に火を点けた。その横顔を見て、あ、と思う。似てる、と。顔じゃない。この人は二重だし、顔立ちはどちらかと言えばはっきりしている。でも何か、何かが酷く似ていた。
「君、何くん?」
「あ、三井寿です」
初めまして。と言って、軽く会釈をする。
「三井くんさー、洋平と仲良いの?」
「まあ、それなりに……」
気まずい。そう思った。当たり前だった。この人はオレを友達だと思ってる。それが異常なほど、オレの居場所を無くさせる。
「わたしねー、洋平のこと分かんないの全然。分かる?あいつのこと」
分かるかと聞かれたら正直微妙な所だった。会う回数も減ったし、喧嘩をすることも増えた。もっとも、喧嘩と言えどオレが一方的に怒鳴って水戸が沈黙することの繰り返しなのだけれど。けれどそれは、酷く険悪になることが多かった。
「まあ……、それなりに」
嘘吐いちまった。また溜息を吐いた。そして、出直した方がいいとも思った。この状況は明らかにまずい。水戸が苦手とする地雷を前に、オレは立ち尽くしていた。
「わたしは母親なのに全然分かんない。帰れとも言わないけど優しくしてもくれないし。自業自得なんだけど」
また似てる。何かの度にそう思う。顔じゃない雰囲気そっくり。それはオレを、無性に居た堪れない気持ちにさせる。自分に期待していない横顔。この表情はよく知っている。何度も見てきた。例え幼い頃から母親が居なかったとしても水戸自身が気に入らなくとも、そこに親子という関係は確実に成立していて、必ず似通った部分がある。
何にせよ、この状況がよろしくないことに変わりはなくて、オレはとにかくこの場を去りたかった。彼女の身の上話を水戸からではなく、不可効力であったとしても彼女から聞くことは、良いとは言い難いのだ。それにこの問題は、自分が口を挟むことじゃない。それはよく分かっていた。結局地雷だらけ。諦めたように、また息を吐いた。彼女の言う通りであれば、水戸はもうすぐバイト先から帰宅する。その前に退散した方がいい。
「オレ、帰ります」
「何でよ。話し相手になってよ。それにわたし、洋平と二人じゃ無理なんだって」
その言葉はオレを苛つかせた。正直カチンときた。何か得体の知れない塊が、ばこんと沸点に触れる。
「あんたさぁ、水戸のこと分かんなくて当たり前なんだよ」
「え、何?」
彼女は目を瞬きさせ、オレを見た。あーあーあー言っちまった。頭を掻いて、出た言葉は取り戻せないと気付いた。それでも、どうにでもなれ!知るか!と、息を吸った。吐くと同時に、声を出す。
「そりゃ母親だから帰れとは言わねーっすよ。でもそれは親切心で、いつも居ねー人に優しくなんて出来ねーでしょって話」
その時だった。リビングのドアが開いて、明らかにいつもと違う目をした水戸が立っている。あー失敗した今すぐ帰りてー。頭の中でその言葉が駆け巡る。だからオレは帰るって言ったんだよ、と心の中で叫んでも、その叫びは声にはならない。
「何やってんの?あんた」
「はは、よう。久しぶり」
とりあえず笑ってみた。もっとも、その引き攣った笑みは水戸にとって言い訳にしか思えないだろうけれど。水戸は溜息を吐いた。深い深いそれは、オレを酷く重くさせる。流れる空気が重過ぎた。声を出すことも憚られたけれど、息を吸えば普通に吸える。あ、と吐くように出せば、声も出た。
「帰る。悪かった」
「別にいいよ」
え、いいの?首を動かし斜め下を見ると、水戸は真っ直ぐ母親である女性を見据える。
「あんた店あんじゃねえの?帰れよ。いつまで居る気?」
「……言われなくても帰るよ」
「今日はこの人泊めるから。涼子さんはオトコのとこ帰んな」
「ケンカ中なんだってば」
「知るか」
「わたしがそんなに嫌い?」
「好きでも嫌いでもない」
水戸が吐き出すように言った言葉に、オレは思わず顔を顰めた。それはねーよ、そう思ったからだった。母親を名前で呼ぶのは勿論のこと、まだ嫌いって言われた方がマシだ。彼女は多分、その選択肢を敢えて残していたのに、水戸はそこまで見透かしている。相変わらずきっつい。オレは苦虫を噛み潰したような顔をしていると思う。
彼女は無言で立ち上がり、着ていたパーカーを脱いで床に置いた。目のやり場に困る体付きで、この人が母親という存在であることが信じられなかった。ハンガーに掛けてあったジャケットを取ると、それを羽織った。それにマフラーを巻いて、小さな鞄を持って水戸をすり抜けるように横切る。その一瞬、彼女は水戸の肩に手を置いて声を出した。
「あんたの趣味って分かりやすい」
じゃあね、最後笑ってそう言って、リビングのドアを開ける。少しして、玄関から出て行く音がした。未だに重い空気を纏うこの部屋は、音が異様に響く。自分が息を吸う音すら耳にうるさい気がした。つーか分かりやすい趣味って何だよ。気が重い。胃が痛くなりそうだった。
水戸が歩き出して炬燵に座った。それから煙草に火を点け、顔を顰める。吐き出された紫煙を眺めながら、似てる、またそう思った。
「いつまで突っ立ってんの?」
オレを見ることなく、ただ正面を見て水戸は言った。どことなく釈然としなくて頭を掻き、オレはいつも自分が座っていた水戸の斜め横に座る。
「朝、電話したんだけど」
「ああ、携帯持って出なかったから」
「それって意味ねーじゃん」
「鬱陶しい」
何が?とは聞けなかった。
「あんたがあの人と喋るとかマジ勘弁して」
「喋るったって友達かって聞かれたくらいで、別に変なこと喋ったわけじゃねーって」
「そういう意味じゃねえよ」
「じゃあ何?」
水戸がそのまま黙りを決め込んだので、今日は駄目だと悟る。喧嘩にもならない。こんなことは初めてだった。帰る、そう言いかけた時だった。
「親切心とか優しさとか何?」
「は?」
「さっきあの人に言ってたろ?親切心だとか優しさじゃないとか」
「あー……、言ったね。言った、かな?ははは」
「余計なこと言ってんじゃねえよ」
あーあもう何でこんな言い方すんのかなこいつは。
「オレが口出すことじゃねーけどさ」
「じゃあ出すなよ」
忘れてないけど忘れてたけどやっぱり忘れてないけどオレは沸点低い方なんだよ。それでこいつが喋る正論はそれを掻き毟るみたいに逆撫でる。知ってたけど分かってたけど腹立つ。マジで腹立つ。
「お前さぁ、人の逆剥け思いっきり捲るタイプだろ?」
「は?逆剥け?」
「それで自分も一緒に傷付けて抉ってんだよ」
水戸に睨み付けられ、体が騒つく。この目は駄目だ。それが否応無くのし掛かる。この続きを言えばどうなるかは分かっていた。でもそれを言って水戸を傷付けて抉ってやりたい、そう思っているのも確かで、本当は逆剥けを捲りたいのはオレの方だ。
優しさの押し売りですみません。そう思ったら笑えてくる。
「好きでも嫌いでもないってそういうことだろ」

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