短編

□小指に刃
1ページ/1ページ



「今日部活なくなっちまってよー」
体育館使えなくてさ、独り言のように言った。
「ふーん」
ふーんって何?隣で煙草をふかす水戸を横目に、オレは思う。あからさまに溜息を吐くと、何だよ、と眉を顰めて問われる。その表情をしたいのはオレだ、声を大にして言いたかった。
昼休みの屋上で何となく会って話すようになって数日、特に約束している訳でもないけれど、屋上の陰に座って昼飯を食うのが日課になっていた。それは二人だったり、他の連中も居たり、様々だった。もっとも、どちらにしてもこいつの態度は一切変わらない。さすがにオレも慣れてきた。こいつはこんなもんだ。話した所で何をした所で、水戸が何を考えているかなんて全く分からない。むしろ、あんなことがあった後の方が一層。
「一緒に帰る?」
「は?」
「そういう話なんだろ?要は」
オレは多分、ぽっかりと口が開いていた。なぜなら水戸の口から有り得ない言葉が出て来ていたからだった。
「別に良いよ。バイトないし」
あ、予鈴、そう言うと立ち上がり、予鈴と共に、あっさり背中を見せて歩き出した。他に特に言うこともないまま、結局水戸は屋上から居なくなる。多分水戸は今日も、授業に勤しんでノートを取るのだろう、そんなことをぼんやり考えながら、オレも立ち上がって屋上から出て行く。
その後の授業は受けたような受けていないような、いつもそんなもんだけれど、今日の午後もそうだった。夏の空気は、いつも怠惰な気配を孕む。特にこういう、夏の終わりは特に。気怠くて掴み所のない匂い。何かに似ている。そう思った。しばらく教室の窓の向こう側を眺める。そこからはついさっきまで居た屋上が見えていて、誰か居るかどうかの気配すら分からない。妙に耳の辺りが騒ついて、指先で掻いてみる。そこにあったのは、水戸が屋上のドアを閉めた音だった。
あいつはいつも、オレより先に来ていて、オレより先に帰る。よう、と声を掛けると、大体、何?とかそういう愛想のない言葉が返ってくる。くだらないことを話すと、少しだけ笑って、煙草を吸う。あの指先と唇が、煙草を遊ばせる。その仕草を眺めているだけでオレは良くて、話す内容なんてどうでも良かった。だからくだらないことしか話さない。見ていたいだけだった。
ああ、そうか。気怠くて掴み所のない匂いや空気、水戸の後ろ姿に似てる。あの背中、何を考えているのか分からない後頭部。
そっくり、小さく呟いて、窓から目を逸らした。黒板に書いてある文字を何となく書き写して、今頃あいつも書いてんのかな、と考えていた。
七限が終わり、終礼も終わり、今日は部活ねーんだなぁ、と未だにぼんやりした頭で考える。脇に掛けてあるスポーツバッグを手に取り、教室を出た。三年校舎は、どこか浮ついた雰囲気が漂っている。普通なら部活も引退していて、受験に専念するからだ。今から補習を受ける連中も居るだろう。浮ついているのはオレもか、そう思いながら廊下を歩いた。一緒に帰るんだっけ。はあ、と俯いて溜息を吐いた。あんなこと言うの?水戸が?何か裏があるんじゃねーだろうな、猜疑心が沸々と湧き上がり、自分の眉間に皺が寄るのが分かった。
考えていない訳じゃなかった。あいつの家に行こうかな、とかそんなもんだった。それが、一緒に帰るって何だ。おかしい。間違いなくおかしい。とりあえず一年校舎に向かってみる。水戸のことだから、適当に言ってみただけかもしれないし、あっさりと帰っているかもしれない。もしクラスにも校門にも居なければ普通に帰ればいい。体育館が使えなくて部活が出来ないだけなら、その辺の公園でやればいいだけの話で。
確か一年七組だった。一年校舎は、どこか居心地が悪かった。ちらちらと見られていて、何で三年がこんな所に、と言われているようだった。七組、七組、それだけ考えながら、視線は気にしないように歩いた。七組のプレートを見付け、中を覗いてみる。一通り見回してみたけれど、水戸は居ないようだった。
「あれ?ミッチー」
振り返るとそこには、ひょろっとした金髪が立っている。
「おう、お前水戸知らね?」
「洋平ならさっき帰ったよ。用あるっつって」
「あっそ、さんきゅ」
用、ねえ。一応その気はあるようだ、と分かったので、オレも行くかと踵を返そうとした。
「待て待て」
「何だよ、急いでんだよ」
「ミッチー最近洋平と仲良いだろ?耳寄り情報教えてやるよ」
「アホか。仲良くねーっての」
むしろ悪くなった気がするわ。それは言わず、喉に飲み込んだ。
「あいつがああいう言い方して先に帰る時は大概女なんだよ。花道にバレねーように、まずはオレらを騙そうとすんの」
「桜木に?何で?」
「あいつそういう話、花道には絶対しねーから」
「へえ。何でまた」
「何でだろうねぇ。ヒーローだから?」
オレは吹き出した。何だそれ。
「あいつがヒーローって柄かよ」
「洋平にとって花道はガキの頃からヒーローなんだよ」
納得出来るような出来ないような、オレにはまだよく分からないことが多過ぎて、その言葉が腑に落ちることはなかった。ふーん、と軽く相槌を打って横目で天井を見て、まあ良いやと大楠を見る。
「残念ながら女ってのはハズレ」
「え、そうなの?」
「オレだよ」
じゃあな、短く言って、今度こそ踵を返した。走るのは癪に障ったから、普通に歩いた。下駄箱でスニーカーに履き替えると、三年連中もぞろぞろと帰る所らしく、それなりに人は多い。その連中をすり抜け、校門に向かった。そこまでの距離を一応見渡してみるけれど、水戸の姿はない。校門の辺りも居ない。真面目に帰ったんじゃねーだろうな、そう思った時、三井さん、と声を掛けられる。
「あ、居る」
「居るよ」
呆れたように言われ、大楠が言った「用がある」その言葉が何気なく脳裏を過ぎる。少しだけ笑えた。
「何笑ってんの?」
「別に。コンビニ行こうぜ。あっちーからアイス食いてー」
「はいはい」
それから歩いて、学校から一番近いコンビニまで向かった。水戸の横顔を見下ろすと、それはやはり気怠そうで思考が読めない。何かに纏われている気配がした。隣に居てもそこにはオレが存在しないような、そういう寄せ付けない空気があった。でも現実には間違いなくオレが今隣に居て、適度な距離を保っている。
コンビニに入ると、いらっしゃいませー、と間延びした、少しだけ怠惰な声が聞こえる。何食うの?と聞かれたので、ホームランバー、と答えた。そこでなぜか吹き出され、オレは釈然としない。というより、こいつが笑うツボがよく分からない。お前は?と聞くと、アイスコーヒー、と言って、それを手に取った。
会計を済ませると、ありがとうございましたー、と入店した時と同じ間延びした声が耳に入る。
歩きながらホームランバーの包装を開けて、一口食べた。水戸は隣で、アイスコーヒーを飲んでいる。
「あんた、当たりが出るまで食いそうだね」
「聞いて驚け。オレは二回連続で当たりを出した男だ」
「はー、さすが元MVP」
「バカにしてんだろ!」
「してねえよ。素直に先輩やっぱすげえなぁって思ってますよ」
学校の帰り道、こんな真っ昼間、並んで歩くなんて光景、この先二度とあるかどうか分からない。夏の終わりのように簡単に過ぎ去る男が、いつまでも側に居るなんて思ったら大間違いだ。少なくともオレはヒーローなんかじゃないし、そういう美しく硬い友情で結ばれてもいない。もっと打算的で欲塗れの小汚い、口に出すのも厄介な関係だ。
蝉の声は今日も続く。太陽は心地良さを遥かに超えてうるさく照っている。照り付けるそれは、じりじりと容赦無く肌を焼いた。持っていたホームランバーが溶けそうで大口で囓る。それは冷たくて甘くて、不意に初めて付き合った女の子との帰り道を思い出した。あれは中二の夏で、今日みたいに暑い日だった。その日はアイスは食べていなかったけれど、互いに何を話して良いか分からなくて沈黙していて、蝉の声だけがいやに大きく聞こえていたことだけ繊細に覚えている。
「お前よー」
「んー?」
あの日も確か、ただ歩いていただけだった。女の子の家まで送っていたのかもしれないけれど、その道がどんな場所でどんな風景だったか、それはもう忘れてしまった。
「初めて付き合った子と、初めてデートした場所ってどこ?」
「は?何、急に」
「どこだよ、言え」
「どこだっけ?んー、ラブホ?」
水戸は笑いながら言う。
「はぁー……、お前に聞いたオレがバカだったわ」
「そういうあんたはどこだった?」
水戸がオレを見上げて言った。オレ達が歩いている場所は人通りは少なくて、海の音も聞こえない道だった。この道には見覚えがある。水戸の家に行く道だ。行って良いんだ、と考えながら、やはり女の子の家に続く道は思い出せなくて、風景は朧気だった。夏の暑さと蝉の声と、それからそうだ。そうだった。
「確か中二だったかなー。その日もバスケ部がたまたま休みでさ、夏のあっつい日で一緒に帰ったんだよ。でもお互い話すこともなくて、無言でひたすら歩いてた」
「はは、なるほどね」
「手をさ、」
「手?」
「確か手ぇ繋ぎたくて、でもあっちーから汗ばんでて繋げなくて、結局家に送っておしまい。バスケもあるし、その子とはすぐに終わったんだよな」
ホームランバーはもうなくなっていて、残念ながらハズレだった。その棒を歯で囓って遊びながら、オレは自分の掌を見る。
「甘酸っぱ」
「うるせーな。そういう時もあったんだよ」
水戸が急に立ち止まった。どうした?そう聞くと、見ていた掌を掴まれる。ぐっと握られた手は汗ばんでもいなくて、少し冷たいとすら思った。
「キレーな指」
水戸はオレの手を掴んだまま、放り投げた言葉は置いて早足で歩き出した。耳に届く蝉の声は未だに鳴き止まなくて、うるさく届く。体全体が熱くなった気がしたけれど、そんなこともどうでもよくなるくらい早足で歩いていた。あの女の子の時は景色もろくに覚えていなかったけれど、今歩いている風景は、たった二度目だとしても鮮明に焼き付いた。階段も引き摺られるように登ったからか、早い足音が響く。その間会話は勿論なくて、常に早足だった。いつの間にか玄関のドアの前に着いていて、水戸はポケットから鍵の束を取り出すと、その束から一つの鍵でドアを開ける。玄関が開いた瞬間、大楠が言った「用あるって」という言葉をまた思い出した。水戸の用は、オレと帰ることなのか、それとも単に。もうよく分からなくなって、引き摺られたまま玄関の中に入った。水戸が靴を脱いだのでオレもスニーカーを脱ぎ、廊下を走るように歩く。あっちーな、悪態を吐くように言って、短い廊下を歩いた。
水戸がリビングのドアを開け、オレの手を取ったままエアコンのリモコンの電源を押す。それから思い切り放り投げるようにして、オレの手を離した。勢いがついたまま壁に叩き付けられた。
室内は締め切られた状態の蒸し暑いままで、カーテンは開いていて無駄に明るい。水戸が近付く。さっきまで繋いでいた手を取る。手の甲が、がつん、と硬い壁にぶつかる音がした。そこに押さえ付ける水戸の掌はやはり冷えていて、心臓が無意味に跳ねる。
「冷え性?」
「何の話?」
「こんなにあっちーのに、お前の手は冷てーんだな」
「あんたは無駄に体温高いね」
エアコンが動き出す音が聞こえる。唸るそれは、必死に室内を冷やそうとしている。この部屋は蒸して暑くて、汗が吹き出る。水戸が押さえ付ける手は痛んできて、痛くて暑くて、頭がくらくらする。またあの目で見られて、思考が止まる。あち、それを払うように小さく呟くと、水戸は押さえ付けていたオレの手を眺めた。
「キレーな指」
またそう言う。何が綺麗なのか分からないオレは、されるがままにしていた。水戸は手を取ったまま、小指を舐めて噛んだ。
「いてーな」
「その顔やめろって言ったろ?」
「お前も似たようなもんだって言ったろ」
水戸の冷えた指先が離れて、首を撫でた。顔が近付いて、あの目がオレを捕らえる。未だに暑い室内は、酷く静かだった。エアコンの音しかない。暑い、暑い、暑くて死にそう。
「どうして欲しいんだよ」
「何でもいい」
そう言うと水戸は笑った。頭に血が上って、目眩がする。揺れる。
「変態」
「何とでも言え」
聞こえない筈の蝉の声が、わんわんと頭の中で反響した。それが残っているだけで、頭の中が沸く。水戸が見ている。あの目がオレを喰おうとする。
「お前のその目、オレにしかしないって分かってんの?」
「知ってる」
ずっと前から。そう言って、唇に噛み付かれた。いてーな、小さく呟きながら、小指が疼いたのを感じる。
あそこには多分、水戸の刃が残っている。




終わり。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ