短編

□欺け!青春
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四限目の授業は数学で、元々苦手なのも相俟ってか全く身が入らなかった。頬杖を付いて窓から外を眺めると、憎たらしくなるほど爽やかな晴天だった。九月も半ばなのに未だに暑い毎日で、開襟シャツはそのまま続いている。教室には勿論エアコンなんて文明の利器は設置されていなくて、気怠い暑さが身体中に纏わりつく。窓から視線を外し辺りを見渡すと、生徒の誰もが授業に集中していないように見えた。この暑さじゃな、仕方ないと自分のだらしなさを正当化する。
この教室からは屋上が見えた。そこの様子は伺えないけれど、ただ見えるのだ。居るかもしれない。と、考えれば考えるほど授業は上の空になり思考が飛ぶ。四限目が終わったら行くべきか行かざるべきか、今オレの頭を占めているのはほぼそれで、教師がこの暑さの中必死に声を出してしている講義は右から左なのだった。
雨降って地固まるのか固まっていないのかよく分からない週明けの月曜日。昨日は会ってもいないし連絡もない。というより、連絡先すら知らない。これどうよ。小さく息を吐いた。もっとも、オレも教えた訳ではないけれど。となると、会えるのはあそこだという結論に至った。ただ、気まずい。これ以上ないほど気まずい。勢いのままにあんなことをして、最後はぶつかるように言いくるめた。いっそ勢いしかなかった気がする。時間を置けば置くほど、自分が酷く滑稽に思える。気温の高さだけじゃない。思い出すと体が熱くなる。オレは頭を掻いた。その場に突っ伏したくなった。
四限目終了のチャイムが鳴り、纏まらない思考はそのまま、クラス委員が号令を掛けた。教師が教室から出たことを合図に室内が騒ついた。各々が購買に行くだの今日は弁当だの、毎日のありふれた言葉を交わしている。もういいや、体のどこかが吹っ切れた。あの勢い以上に羞恥なことがあってたまるか、そう思った。オレはパンとお茶が入ったビニール袋を手に取り、教室を出る。廊下を歩いていても、雑音のような会話は消えない。夏の終わりの気配を纏って、言葉達は全てぼんやりしていた。膜が張ってあるように、鼓膜を通る前に遮断されていく。
水戸は居るだろうか、そう思いながら屋上へ向かった。そこに続く階段には人はあまり寄り付いていなくて、多分一部の生徒しか来ないのだと今更のように知る。しかもそれは、全員オレが知っている連中ばかりだった。今日は宮城が来ませんように!思わず歯を食いしばり、そんな不埒なことを考える自分は、益々滑稽だった。
リノリウムと上履きの擦れる音が響く。屋上のドアを開ける直前、オレは深く息を吐いた。これで居なかったら、多分舌打ちはすると思うけれど安堵もする。これで居たら。そして一人だったら。どう声を掛ければ良いのか全然分からなかった。くそ、確認する前に既に小さく舌打ちし、知らねーよ!と思い切りドアを開ける。開けた瞬間、晴天と風が一気に迫ってきて、思わず息を飲んだ。この開放感はやはり、屋上ならではだった。少し歩いて物陰の、いつも水戸が居る場所に向かう。そこは屋上のドアを開けても見付からない、サボるには絶好の場所だ。
ざり、という上履きとコンクリートが擦れる、聞き慣れた音がする。もし水戸が居るなら、とっくに気付いているのかもしれない、何となくそう思った。奴は並の人間より五感が発達している気がする。
「あ、居た」
「何?」
何って何?その返答に、オレは何?と聞きたくなる。水戸は煙草を吸っていて、咥え煙草のままオレを見上げた。
「昼飯食いに来たんだよ。わりーか」
「あっそ。座れば」
こいつと喋る際の注意点。オレは学習した。それは、いちいち傷付かないことだ。この口調と言葉に参っていたら、会話などままならない。そう分かっていても苛ついて、少し離れた場所に腰を下ろしかけた。
「何で離れて座ろうとしてんの?」
見透かすように笑って言われ、オレはばつが悪くなる。何となく釈然としなかったけれど、結局水戸の隣に座った。
「お前メシは?」
「さっき適当に食ったよ」
「そういや今日一人なんだな」
「そんな年がら年中連んでねえよ。パチ屋でも行ったんじゃねえの?駅前が新装開店らしいから」
「へえ。お前は行かねえの?」
「俺はノート取らなきゃなんねえし」
は?パンが入っているビニール袋を開けて、齧る前に開けた口から間抜けな声が出た。ノート?はい?
「授業の話?お前真面目に受けてんの?」
「花道が入院してっからね。代わりにノートくらい取らねえと」
また赤点七つとかあんたらも困るだろ?水戸は煙草を携帯灰皿に押し付けながら言った。
「保護者か、お前は」
そう言いながらオレは、多分少しだけ嫉妬した。男相手に嫉妬してどうする、そう思ったけれど、身を晒して玉砕してまで側に居るオレよりきっと、桜木の方がずっと近い。そして多分、オレがその距離まで近付くことは、ない。
開けたままにしていたパンを齧ると、見事に味がしなかった。夏の終わりの屋上は少しだけ涼しいけれど、やはり暑い。日陰とはいえ、蝉の声も相俟ってか酷く気温が高い気がした。未だにうるさく鳴き続ける蝉は、疲れることを知らないのだろうか。
首からじわりと汗ばんだ気がした。指で触れると、軽く湿っている。あち、小さく言うと、視線を感じた気がして水戸を見た。
「何だよ」
水戸がオレを見ていた。見るというより鋭く睨まれている気がして、その目に悪寒が走る。この目はよく知っている。
「別に」
だけれどそれはすぐに逸らされ、また水戸は煙草に火を点けた。オレはパンを囓る。やはり味はしなくて、とりあえず腹におさめようと黙々と食べた。二つをあっという間に食べ終え、お茶で流し込む。結局その間会話はなかった。オレ達はこの先どうしたいんだろう、終着点のないその疑問が、ひたすら脳裏を過ぎる。
どうしたいもこうしたいも、このまま何も変わらない。
一瞬で到達したその答えに呆気ないほど納得した。
蝉は鳴き止まない。止まることを知らず、延々と鳴き続ける。あっちーな、また小さく言って、首を軽く掻いた。自分の爪で引っ掻いた感触に、水戸が噛み付いたことを思い出した。バカだオレ。
その時、水戸がばりばりと音を立てて何かを開ける。
「それどうした?」
小サイズのポテトチップスの袋だった。食う?と聞かれたので遠慮なく貰った。
「クラスの女の子がくれた。この間ゴミ捨て手伝った礼って」
別に良いのにね、と薄く笑う。
「え、お前ゴミ捨てとかすんの?」
「そりゃするでしょ。女の子が重たそうに持ってたら代わらねえ?」
そんなん普通に出来るのお前だけだ、そう思ったけれど口には出さなかった。ついでに、オレに対してもその十分の一で良いから態度を改めろ、とすら思った。
それが無性に苛ついて、水戸が貰った物でも構わずばりばりと食べた。水戸は摘む程度で、時々コーヒーを飲む。上向きになるとより一層浮き出る喉仏を見て、この首筋に触れてーな、と考えていた。
また水戸が薄く笑う。
「付いてる」
そう言って手を伸ばした。あ、と思った。指が触れる、と。
蝉の声が頭に響いた。わんわんと、鳴いている子供のように、響く。
伸びた指先はオレの唇に触れ、何かを掬う。それを水戸は、簡単に舌で舐めた。
「ガキみてえ」
「なっ!」
今度は頭を掴まれ、水戸の顔が近付いた。またこの目だ。人を喰らい尽くそうとする目だ。それを間近で見る度胸が今はなくて、思わず目を閉じる。その時、唇に生温かい物が触れた。舌だとすぐに分かった。
「その顔、やめた方がいいよ」
「あ?」
「すっげえ物欲しそうな顔」
「てめえも似たようなもんだろうが」
遠くから予鈴が聞こえて、それはぼんやりと耳に残る。水戸はその音を横目で確認し、立ち上がった。
「じゃあ、行くわ」
何事もなかったように普通の顔をして、あの目をあっさり隠して平気でオレの前を去ろうとする。
「……してろ」
「何?」
「何でも」
「あっそ。じゃあね」
名残惜しむ様子もなく、背中を向けた水戸は、簡単に居なくなる。その姿はもう見えなくて、屋上のドアの音が聞こえた瞬間オレは一人になったと知る。空を仰げば晴天で、そいつはオレを嘲笑う。蝉は未だにうるさくて、笑って鳴いての大合唱だ。
物欲しそうな顔してるなんてずっと前から知ってんだよ分かってんだよ。
でもあいつは知らない。多分分かっていない。あいつのあんな目は、オレしか知らない。それを分かっていない。
「覚悟してろ、あのガキ」
あの目を見せる時点でお前の負けだ。バーカ。






終わり

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