短編

□ブーケに唾を吐け
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木曜日午後七時半。今日は早く仕事が終わった。
エンジニアブーツを脱ぎ、作業着も脱いだ。それをロッカーに入れ、着て来ていたデニムを履き、着ていたTシャツの上にネイビーのギンガムチェックシャツを着てからボアジャケットを羽織る。ロッカーの下に入れておいたコンバースオールスターに履き替え、ロッカーに鍵を掛けた。社員用入り口から外へ出ると、当たり前に辺りは真っ暗で、七時半だろうが日を跨ごうが変わらないと気付く。昨日は帰宅したのが十二時ジャストで、思わず、おお、と声を出した。ここの所連日それが続いている。さすがに疲れてきた、と水戸は一つ息を吐く。それは白く舞って、今は冬なんだ、と思い知る。煙草吸いてえ、水戸はポケットに手を入れ、それを取り出す。社員駐車場まで歩く間に、水戸は煙草に火を点けた。思い切り肺に吸い込み、吐き出す。同時に、はー、という自分の声が聞こえた。職場から社員駐車場まで、さほど距離はない。すぐそこだった。水戸は自分の車まで真っ直ぐ歩く。鍵を開け、車の中に入る。エンジンを掛けると、窓を少しだけ開けた。煙草の煙が細い糸となり、窓から出て行くのをぼんやり眺めた。
水戸の車はホンダのHR-Vだ。バイクも車も、ホンダが好きだった。客が持って来る数々の車やバイクを見ても、やはりホンダは作りもエンジンも職人のこだわりのような物を感じて面白い。レースに興味はないが、いずれはレース用の車も見てみたかった。
水戸は高校卒業からずっと、整備士の仕事をしていた。三年の頃からアルバイトで世話になっていた整備工で、そのままインターン見習いとして就職する。そして整備士の免許を取り、今は一級自動車整備士まで取得して、同じ整備工で働いている。インターンの間は、あの市営アパートに住んでいた。金銭的にも出て行ける状態ではなかったからだ。整備士の資格を取ってから、貯めておいた金で引っ越した。安アパートでも何でも良かった。ようやく母親の手から離れた気がして、あの時の開放感は忘れないだろうと思う。母親のことは、苦手ではあるが嫌いではない。ただ、会うとぶつかり合うことが億劫で最後にはうんざりして、とにかく彼女が例え気紛れでも帰って来ない場所に移動したかったのだ。
整備の仕事は楽しかった。手に職を付けたいと考えていた為、好きな車やバイクを毎日見ていられる上にそれが叶ったことは、ある種幸福と言って良い。
が、連日の深夜帰宅が続けば幸福など感じられる訳がない。それでも俺は仕事が好きだ!なんて言えるほど熱い仕事人間でもなければ、他に娯楽がない無趣味な人間でもない。パチンコだって行きたいし、夜はそれなりにゆっくりしたい時もある。疲れた、まじで疲れた、水戸は運転しながら何度も思う。
あの整備工に勤めて八年、水戸は二十五歳になった。勤続八年にもなれば、任されることは整備だけではなかった。一級自動車整備士でもあるし、後輩の指導もあれば、外注の対応、それから社長を交えた会議など、やることは増える。そんな日々がつづくと、水戸は高校時代を思い出した。バスケ部を応援して、屋上で煙草を吸い、花道や軍団連中やあの人と話す。時々それを、酷く懐かしむ。そして終いには、大人になっちまったんだよなぁ、と、疲労から湧き上がる最悪な郷愁を味わうことになる。疲れると人は楽なことを思い出すのだ。それが水戸にとっては高校時代だった。あの時は楽しかった、と過ぎ去った後で気付く。比べる対象がいくらでも増えていくからだ。
水戸の自宅アパートまでは車で三十分程度だ。この距離が好きだった。例えどれだけ深夜帰宅になろうとも、この時間は自分を切り替える大切な物だった。信号が赤になる。停車する。暇潰しに煙草に火を点ける。時計を見るとまだ七時四十五分だ。早い。まだ今日だ。
何食うかな、何かあったっけな、ああもう分かんねえ、買い物行くのもめんどくせえ、もうばあちゃんとこでも行ってやろうか、でも車、飲酒運転、まあ良いや帰る今日は帰る、つーかさみーしあったかいもん食いてえ、鍋だ、鍋食いてえ、呼ぶか、でも時間が微妙、あーあーあーもうどうでもいいや。
高校在学中、水戸は三井と続いていた。会いに行く、と言ったとはいえ、高校生と大学生では、時間の流れが全く違った。水戸も新しくバイクを買うなどした為、アルバイトの数と時間を増やさなければならなかったし、三井は三井で日々の練習に加え土日になれば遠征、リーグ戦、インカレ、一番苦手な学業、諸々重なり、会う時間は限られていた。加えて神奈川と東京、遠距離とは言い難いが近距離でもない。水戸が夜会いに行き、明け方帰る。それ位しか時間はない。すれ違いは続いた。喧嘩はあった。些細なものから大きなものまで、何度もあった。水戸は気が短くはなかった。長い方だと自負していた。ただ、言い方が酷く冷たい。それは自分でも分かっていた。水戸は、家庭環境の違いから産まれたであろう、三井の甘っちょろい考え方に苛つく事が増えていくのだった。
笑い合うことも勿論あった。休みが重なった日は、水戸のバイクで遠出をすることもあった。楽しかったことは数え切れないほどある。だだ、理想と現実は、近くにあるようでとても遠かった。好きだった。とても好きでいた。会えない日は三井のことを考えることもしょっちゅうだった。むしろ、会えない時こそ考えるのだ。それくらい好きだった。ただそれを、三井は分からないと言う。また、分かんねー!の始まりだった。面倒だと思った。めんどくせえな!と何度も言った。その度に喧嘩をした。
そして三井が大学三年の夏、就職活動をするかバスケットを続けるかを悩んでいた際、水戸の方が会えなくなった。高校を卒業してすぐ、アルバイトをしていた整備工で働くようになったからだ。見習いとはいえ、正社員とアルバイトでは全く違う。やることも覚えることも増える。更に、三級自動車整備士の資格を取る為の試験勉強もある為、水戸も時間を割けなくなる。そしてその内、「もう来んな」とメールが着た。ああ、と思った。ただ、ああ、と。そうだよな、と思ったのだった。結局そのメールには返信せず、その後三井から連絡が来ることはなかった。呆気ない、と感じながらも、終わる時はこんなもんか、とも思った。一瞬だけ、三井が卒業するあの日の早朝を思い出した。
その後も時々思い出した。誰かと付き合っている時、寝ている時、一人で居る時、様々な時に三井が水戸の中に顔を出した。携帯を出して名前を見ることもあったが、結局掛けるのをやめた。
それから水戸が二十三歳の夏、高校を卒業してすぐにアメリカへ旅立った花道が神奈川に帰って来ることになった。日本のプロバスケチームに誘われ、帰国することになったのだ。水戸は時々、アメリカにも行った。花道の豪快なプレーは、例え海の向こう側でも人を巻き込む力があった。水戸は高校時代と同じように声を上げた。ほんの一瞬、高一の時あの人のプレイを見て同じように声を上げたことを思い出した。
花道が帰国する日は日曜日だったが、どうしても外せない仕事が一件あり、迎えには行けなかった。大楠達が行くということで話がまとまり、花道が湘北に行きたいと言い出したので、水戸は仕事が終わり次第湘北に行くことを告げた。
午前中には仕事が終わり、車で湘北へ向かった。車を来客用駐車場へ停め直接体育館へ行くと、入り口は開いていた。逆光で中は見えなかったが、ボールを突く音が聞こえる。それからゴールが決まる音。懐かしいな、水戸は思った。花道かもしれない、でも音が違う。しかし、聞いたことがある音なのは確かだった。入り口に近付く。音が近くなる。側まで行き、しばらく目を細める。
そこに立ってボールを突いている人に、シュートを決める人に、十五歳の夏が蘇る。
「三井さん?」
ボールの音が止まる。振り返る。あ、また逆光。そう思った。何かが揺れた気がした。影が近寄り、もう学生ではないその人が、水戸の前に立った。
「え?水戸?」
「はは、何か久しぶり」
「水戸ぉ?!変わった!お前変わった!」
水戸はリーゼントを止めた。整備工の社長に、とりあえず止めとくか!と笑いながら言われたからだ。だから髪を下ろして、少しだけ短くしていた。変わらない三井の口調に、変わった自分の風貌に、十五の夏は終わったのだと思い知る。
「三井さん花道知らない?つーかあんた何やってんの?」
「オレはここの外部指導員……、あーコーチやってんの。今日は一時から」
まだ十二時だ。だからこの人だけだったのだ。
「あとプロバスケチームの副コーチもやってる。ほんとはそっちが本業なんだけど、こっちはその合間」
「プロってすげえじゃん」
「でも実際、それだけじゃ稼ぎ少なくてよー。だから副業してんの」
安西先生だけじゃ手も足りねえし、三井はそう続けた。
「バスケ続けたんだね」
「そうだなー、結局オレにはこれしかねーから」
「そう。あ、花道は?まだ来てねえの?」
「さっき来たぜ?で、安西先生んとこ行った。もうすぐ来んじゃねーの?」
その時水戸は、不意に「もう来んな」という三井からのメールを思い出した。あれに返さなかった自分のことを、三井はもう忘れたのだろうか。
「お前にさぁ、聞きたいことあんだけど」
「何?」
一瞬、時間が止まる。蝉の声が聞こえた。こうやって対峙すると、また十五の夏が無意味に現れる。あれはもう、とっくに過ぎた夏だというのに。
「今日時間ある?飯行かねー?」
三井を見上げる角度が変わっていた。自分は背が伸びたのだと知る。
「大丈夫、だと思う」
「お前、番号変わったろ?」
「変わってねえよ」
「嘘吐け。だってあの時……、まあいいや」
あ、と思った。あのメールの後、水戸は職場で携帯を壊した。それからしばらくの間、どうでもいいと思って新しくしなかったのだ。社長に言われてようやく、水戸は携帯を新しくした。その間にもしかしたら。いや、それも今は無意味だ。
「俺が連絡するよ。何時に練習終わんの?」
「多分六時くらい」
「分かった」
話が途切れた時、花道と大楠達がやってきた。久しぶりに見る親友に手を挙げ、水戸は三井を横目に見遣った後、花道に近付いた。元気だったか?と言うと、以前と変わらない顔で笑う親友に、水戸は心底安堵した。
花道の帰国は、水戸達だけでなく安西や湘北の部員達にとっても、とても喜ばしいことだった。昔の話をしたり練習に参加したり部員達に教えたり、花道は生き生きしていた。それを見ていた水戸も、花道がそこに居るというだけで嬉しく感じたのだった。

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