短編

□ありふれた淪落
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午前五時四十分、辺りはまだ暗い。原付を走らせて、ある場所に到着する。それから携帯を出して、あの人の名前を出した。出なければそれでも良い。諦めも付く。何回か鳴らした。出るか出ないか。
「もしもし」
意外とはっきりした声が返ってくる。
「俺です」
「知ってる」
「今来てるんだけど、出て来れる?」
「え?」
すると携帯の後ろ側が音がした。窓が開く音がして見上げると、三ヶ月振りに三井さんが目に入る。一目見て思う。こんなに会いたかったんだと。
「何やってんの?」
「出て来れる?厚着して来て」
「はあ?意味分かんねー。ちょっと待ってろ」
通話が切れて、規則的な音が耳に入った。俺も携帯をポケットに入れ、待つ間に煙草に火を点けた。三月の朝は冷える。でも空気は澄んでいて、今日は晴れそうだ、と思う。あの人の家には一度だけ来たことがあった。普通の一軒家だ。送りに来て、上がれと言われたから上がった。優しそうな母親が俺を迎え入れてくれ、これが本来の母親なんだと知った。いらっしゃい、と言われたので頭を下げて挨拶すると、後日あの人から、お袋が誉めてた礼儀正しいって、と言って笑っていた。ばあちゃんに心底感謝した。
周囲を歩いている人も居なくて、鳥も鳴いていない。息を吐くと真っ白で、煙草の煙か自分の息なのか分からなくなる。静寂に包まれた場所で呼吸をすると、意識が酷くはっきりした。
後ろの方で音がした。靴音がして、振り返る。
「何、そのカッコ」
俺は言った。笑った。上下スウェットにジャージを羽織っている。今から連れて行く場所を考えれば、多分寒くて堪らないだろう。
「部屋着だよ。何の用?」
「寝てた?」
「起きてた。つーか聞いてんのオレだよ。会話が噛み合わねえんだけど」
「はは、そうだね。とりあえずこれ巻いて、さみーから。ないよりマシだろ」
自分が巻いていたマフラーを取り、三井さんの首に掛けた。何のことか分からない、といった顔をしているけれど、煙草くせえ、と顔を顰めて悪態を吐く。久々のやり取りが楽しかったけれど、間に合わなければ意味がない。三井さんにヘルメットを投げる。
「乗って」
「だから何なんだよ!」
「でかい声出すなよ、近所迷惑だろ」
「こんな朝っぱらから来る方が迷惑だっつーの」
「はいはい、ごめんね。良いから乗りな」
先に原付に跨ると、未だにブツブツ言いながらも後ろに乗る。出すよ、と言うと、彼は返事の代わりに腰の辺りを引っ張る。それを合図にエンジンを掛け、出発した。
原付が走り出すと、後ろから声が聞こえる。さみーよ!だとか、どこ行くんだよ!だとか、無駄にでかい声を出しているからエンジン音に混じってでもよく聞こえた。全て無視して先を急ぐ。否応無く当たる風が、今の俺には心地良かった。後ろにある体温が、どうしようもなく熱くさせるからだ。しばらく走って国道に出て、海沿いを走って浜に降りられそうな適当な場所に止める。真っ暗の世界が、段々と紺色に変わる。夜が朝に切り替わる瞬間に、俺は何を思うのだろう。
原付から降りると、三井さんも降りた。未だに寒いだの何だのうるさくて、だから厚着して来いっつったろ、と言うと、こんなとこ来るなんて思ってねーよ、と返してくる。ごもっとも、と心の中で言った。俺が歩き出すと、きちんと着いて来ているらしい。足音が二つになる。浜辺に降りて立ち止まり、海を眺めた。規則的に聞こえる波音が、すぐ側にある。こんなに近くで見たのはいつ振りだろうか。
「何なんだよ、マジで」
「卒業祝い」
「今の所、祝われてる感じはねーぞ。ひたすら寒い」
「はは、そうだね」
俺は腕時計を見た。午前六時五分。あと少しだ。段々と海の向こう側の色が変わる。隣を見ると三井さんは、両腕を掌で摩りながらマフラーに顔を埋めている。
海を見続けた。色がまた少し変わった。これで何かが変われば良い。
その時、明るさが変わった。海の向こう側から光が差して、太陽が水平線から出て来る。海の色が変わる。真っ暗だった場所が、太陽の色に変わっていく。何色とも言えない光が海全体に反射して、目を瞠る。本当に、ただひたすら真っ直ぐだった。真っ平らで、太陽の色と海が混ざり合う瞬間。初めて見た。今まで逃げ続けていた自分の名前を思い出した。
地平線みたいにとにかく平らで本当に綺麗だった。
朝焼け見てみな、綺麗だよ。あんたみたい。
母親の言葉を思い出した。俺はこんなに綺麗でも真っ平らでもない。大層な名前付けてんじゃねえよ。
「すげ……、初めて見た」
綺麗だな、そう言う三井さんを見ると、竦めていた肩を真っ直ぐにして、海を眺めている。この人が綺麗だと言うなら、もうそれだけで良い。
「卒業祝いってこれ?」
「これ、俺なんだってさ」
「え?」
「俺の名前、母親がこれ見て決めたらしいよ。すげえよな、でか過ぎてお話になんねえよ」
「じゃあ、この景色はお前と一緒なわけだ」
「そうらしいね」
顔を見合わせた。三井さんは笑っていた。久々に見るこの顔を、体を、とにかく全部、俺は欲しくて欲しくて堪らなかった。それは今も。
「たまにはなりふり構わずいこうかなって思って」
たまにはなりふり構わずいこうや。大楠の言葉を思い出した。
「何の話だよ、次は」
「この間ごめん。推薦の話の時、あれただの八つ当たり」
「別に良いよ。言わせたのオレだろ?」
「おめでとう」
三井さんは顔を顰めた。何も言わず、ただ俺を見ている。
「俺のこと分かんねえんだっけ?聞いていいよ。話すから」
「何でも?」
「何でも」
「料理って誰に習った?」
「それ最初に聞くとこ?ばあちゃんだよ。あの人鎌倉で小料理屋やってて、衣食住は全部ばあちゃんに教えてもらった」
へえ、と言って、三井さんは目を開いた。思った通りの顔をする。
「今度連れてくよ」
次はぎょっとした顔をした。面白い人だ、そう思った。
「次は?」
「海嫌いなのか?」
「嫌いだった、けど。好きになれる気がする」
「良かったな」
「他には?何かある?」
彼は一度俯き、言葉を探しているようだった。それから顔を上げて、俺を見る。
「お前、オレのこと好きなんじゃねーの?」
この台詞は前にも聞いたことがある。あの時俺は確か、かもね、そう言った。あの時は本当にそう思っていた。こんな奴やめとけ、と本気で思っていたからだ。でも今は違う。
「好きだよ。自分じゃどうしようもないくらい」
三井さんは溜息を吐いた。それはもう盛大に。
「お前さあ、だったらもっと早く言えよ。こっちは忘れるつもりで必死だったっつーのに。ブザービーター決めた気分だよ」
「ブザービーターって何?」
「試合終了のブザーが鳴るのと同時に決まるシュートのこと」
「山王戦の花道だ」
それそれ、そう言って笑う。かと思ったら、今度は睨まれた。
「いい加減に言ってんだったらぶっ殺す」
「俺がやり返して勝ちそうだな」
笑うと、三井さんはたじろいだ。少しだけ後ろに後退る。襲撃事件を思い出したのかもしれない。
「会いたくなったらどうすんだよ」
「電話してよ。会いに行くから」
「バイト中だったら?」
「終わったら行く」
「簡単な距離じゃねーぞ?」
「あんた、俺にどうして欲しいの?」
俺が声を出して笑って言うと、三井さんは不貞腐れたように海を見た。太陽はさっきよりかは幾分か高く昇っていて、日が浜辺を照らしていた。砂が光ってきらきらと揺れて見える。少し眩しくて、目を細めた。
「オレは、お前が欲しいだけだよ。ずっと前から」
あげるよ、そう言うと、三井さんは俺の手を取る。掌を握り、それから離した。
「親子丼食いてーな」
「好きだね、ほんと」
「美味いんだよ、知らねーの?」
「知ってるよ」
「作れ」
「相変わらず我儘だな。今日全部終わったら来なよ。すげえ美味いの作るから」
俺はもう一度、海を見た。波音が繰り返し聞こえて、それが耳の奥にずっと残る。でもそれは、決して不快ではない。むしろ心地良くて、音も存在も広さも、綺麗なんだと初めて知る。
ずっと母親が苦手だった。話すことが億劫で存在が疎ましくて、その子供である俺自身も名前も堪らなく嫌だった。それを欲しいと言う人が居る。それを言うのは目の前のこの人だった。いくらでもくれてやる、そう思った。少しだけ、自分を好きになれる気がした。
「三井さん」
「何?」
「卒業おめでとう」
歯を見せて大きく笑うこの人は今日、湘北高校を卒業する。





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