短編

□ありふれた淪落
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会わねえもんだな、昼休みの屋上で、そう思った。
年が明けて三年は自由登校になって、三年校舎はがらんどうのようになった。元々その場所に用事のない一年は、がらんどうだろうが脱け殻だろうが、全く問題はなかった。卒業式間近の屋上は、居ることを躊躇うほど寒い。吹き付ける風は、容赦なく俺に巻き付いてくる。手摺に腕を乗せ、体を預けているから余計だ。煙草に火を点けようとしてもなかなか点かないから、仕方なく口に咥えたまま遊ばせていた。風がおさまるまで放っておこうと決める。
あの人は、推薦が決まったそうだ。花道から聞いた。時々大学にも行って練習にも参加しているらしい。何よりだ、そう思った。バスケ推薦バスケ推薦と幾度となく言っていたことが、念願叶ってその通りになる。なかなか人生そう上手くはいかない。努力が実って良かったね、そう言ってやりたいけれど、あの人は居ないし会うこともなかった。もちろん連絡もない。会わねえもんだな、もう一度そう思う。
風がおさまってきた。ライターの火を点ける。首を少し屈めて、掌で小さな風の通り道を少なくする。ようやく点いた。思い切り肺に吸い込んで吐き出すと、溜息のようになって小さく声が出る。
「洋平ー」
手摺に体を預けたまま顔だけ動かすと、後ろ側に大楠が立っている。返事をする代わりに片手を挙げた。足音が近付いて、俺の隣に来たのが分かった。大楠は背中を手摺に預け、それから煙草を取り出してライターで火を点ける。もっとも、風がまた強くなって点くことはなかったけれど。あれ?点かねー、大楠はそう言って結局煙草をケースに収める。
「もうすぐ卒業式だな」
「何だよ、急に」
何の脈略もなく卒業式のことを話し出す大楠に、俺は笑う。
「出んの?」
「さあ?」
沈黙が流れた。また風が弱くなる。それを見計らって大楠は、煙草を取り出して火を点けた。ラッキー、奴はそう言った。俺は吸い終わった所で、携帯灰皿を取り出し押し付ける。そのままそこに捨ててまたポケットに入れた。大楠の煙草の煙が宙を舞う。不規則的に揺れるそれを眺めながら、空を仰ぐ。晴れている、それを今ようやく知った。
「ミッチー来ねーなあ……」
「そりゃ来ねえよ、用ねえだろ」
「お前幾つよ」
「は?」
何言ってんだこいつ、結構真面目に心配した。眉を顰め、大楠を見る。
「お前、とうとう数の数え方も分かんなくなったか?」
「いいから、幾つだよ」
「……十五」
質問の内容がさっぱり分からない。
「だよなぁ、誕生日まだだもんなぁ」
はぁー、と溜息を吐き、物憂げに大楠は空を見上げる。
「おい、さっぱり分かんねえよ。説明しろ」
そうだよなぁ、また大楠はぼんやりしながら呟く。
「たかが十五で落ち着いてどうすんのって話」
「誰の話?俺か?」
「オレはよー、お前が誰とどういう付き合いしてるとか、そんなんはどうでも良いんだけどよ」
未だに何の話か掴めない。俺の話だということ以外は。
「少なくとも、二十歳のおねーちゃんと付き合ってた時よりは良い顔してたぜ?」
「何言ってんの?お前」
「人間臭いっつーか年相応っつーか」
「だから分かんねえよ」
「さっさと大人になろうとすんなよ。たまにはなりふり構わずいこうや」
じゃあ行くわ、最後にそう言うと携帯灰皿に煙草を押し付け、大楠は歩き出した。要するに、そういうことなんだと分かる。気付いていたのかいないのか、それは別にどうでも良いけれど、大人になろうとしていたのかどうかは分からない。俺は多分、誰よりも子供で、誰よりも大人気ないからだ。自己満足で相手を振り回し、暴力的に抑え込む。それのどこが大人だよ。花道も確か、あの人が推薦が決まったと俺に言った時、「良いのか?」と聞いた。何が良いのか分からなくて、別に良いよ、と言った。
あの人は、俺を分からないと言う。俺も自分が分からない。分かるのは、たかが十五のガキということだけだった。何度考えても一緒に居る理由がないのは明白で、続ける意味もない。たかが人一人がここから居なくなる、それだけだ。俺の生活も生き方も何も変わらない。変わらない筈だった。それなのに。
「どうしようもねえなあ」
呟いてみた所で誰も居なくて、空気に溶ける。もう消えてしまって、残った言葉は何もない。俺しか知らない。本当に、どうしようもなかった。どうにもならなかった。俺が言わなければ、あの人は決断しなかった。切り捨て方も知らないから、言うしかなかった。それなのに、時々途方もなく苛ついた。
昼休みが終わりに近付いても授業に出る気にはならず、屋上を後にする。それから教室に寄って、鞄を手に取った。入った時から目立っている赤頭は、机に突っ伏して寝ていた。何度見ても、机のサイズと体が合っていない。声を掛けても起きないだろうけれど、一応、花道、と呼んだ。
「俺帰るわ」
すると赤頭が動く。緩慢な動きで顔を上げ、俺を見る。
「具合わりーのか?」
珍しい。起きたのか。
「洋平、大丈夫か?」
「お前らほんと良い奴らだな」
じゃあな、そう言って教室を出た。昼休みの廊下は騒ついていて、生徒達が思い思いに話している。五限目がどうとか部活がどうとか誰が好きだとか、そういう流れていく会話をただ淡々と。俺も変わんねえんだよなぁ、と今更ながら思う。ただ、あの人が居ない。それだけだった。周りの色が曖昧に見えて、今日が晴れていたことにも気付かなかったくらいだ。屋上で話す時間も、家で過ごすことも、一人になって知る。こんなにも世界が違う。
あいつらに心配されてようやく気付いた。こんなに自分が未練がましいなんて、今まで知らなかった。
昇降口で上履きを脱ぎ、革靴に替える。校舎を去りながら、体育館の方に目をやった。あの人のシュートフォームを思い出す。綺麗に決まるんだよな吸い込まれるみたいに、そんなことを思い出しながら歩いた。
今からどうすっかなぁ一回帰って着替えてパチンコでも行くか。
校舎を出て自宅までの道を歩きながら、今からの暇潰しを考えた。我ながら煩悩の塊だ。これの何が全然分かんねーと言われるのか、正直俺の方が分からない。くだらないことしか考えていない。
「水戸」
呼ばれて振り返る。見たことのない四人が、質の悪そうな顔で立っていた。見た所多分どこかの高校の三年だろう。自由登校で暇だから、俺を暇潰しの対象にしているといった所だろうか。最近絡まれないと思っていた所でこれだ。
「何すか?」
「お前、前に随分調子こいてたそうじゃねえか、ああ?」
「調子なんかこいてないっすよ、あんた方より」
「てめえ!」
「暇だなぁ」
一番暇なのは俺か。苦笑した所で一人が突っかかってくる。拳が出て来る前に鳩尾に一発、屈んだ所に顎に向かって一発、それで一人目が終わる。
「俺すっげえ機嫌悪いんだけど、それでもやる?」
連中は後ろに一瞬後退るも、虚勢からか何なのか一斉に掛かって来る。一人の脇腹に蹴りを入れると、もう一人が俺の顔面を殴る。今度はそいつの鼻をへし折り、ついでに鳩尾に膝蹴りで二人目終了。脇腹に蹴りを入れた奴がよろめきながら向かってきて、右ストレートで終わり。一人は逃げた。
「つまんねえな」
ほんの一瞬だけ暇潰しになった。つまらない暇潰しだった。これならパチンコの方が断然マシだ。帰ろう、そう決めて、崩れ落ちている連中を放ってその場を離れた。
家に近付くにつれ、波音が大きくなる。これを聞く度に気分が削がれる。未だに海は好きになれない。繰り返される音は、あの部屋に越して来た時からずっと違和感を感じさせた。耳鳴りのように延々と残る。あの人は、何か良いな、そう言った。あの人が好きなら好きになれるかもしれない、一瞬だけそう思ったけれど、よく分からなくなる。だから、分かんねーや、そう言った。あの人は変な顔で俺を見た。何でそんな顔で見るのか、俺の方が分からなかった。大楠は、良い顔してた、と言っていた。多分あの人と一緒に居た時のことを言っていたんだろう。つーか二十歳のおねーちゃんって出すとこそれかよ、あいつの言葉を思い出して、息を吐くように小さく笑った。
見慣れた風景、見慣れた階段を上る。三階までの長い階段も、歩き慣れる。慣れないものは、海だけだった。あれにだけはどうしても。
玄関の鍵を取り出し、鍵穴に刺し込む。どこのパチンコ屋に行こうか考えながら、ドアを開けた。靴を脱ごうと下を見ると、見慣れない女物のそれがある。あいつが居る、それを感じただけで、俺の神経は逆立った。何で今日に限って居る。今日はどうしても無理だった。そのまま出て行けば良かった。でも多分、あいつは俺を見るまで帰らない。面倒ごとは先に済ませた方が得策だ。
玄関のすぐ近くにある個室は、あの女の部屋だ。俺は入ったことがない。掃除もしない。多分埃だらけだろう。そこに居る気配はなさそうだ。廊下を歩き、リビングに続くドアを開けた。炬燵に座り、我が物顔でテレビを見ている母親が居た。
「おかえり」
「何で居んだよ」
「何でって、私の家でもあるんだけど」
「オトコと別れたの?」
「違う」
「じゃあ帰れよ」
冷蔵庫を開けて、烏龍茶を出した。そこには賞味期限切れの牛乳が置いてある。この間間違えて買ってしまって、そのままになっていた。気分が悪くなり、すぐに冷蔵庫を閉めた。グラスに烏龍茶を入れ、ペットボトルを冷蔵庫には戻さず、そのまま台所に置く。グラスを思い切り呷り、勢い良く置いた。
「洋平、あんた牛乳飲むようになったの?」
「勝手に開けてんじゃねえよ」
「あんたはほんと、愛想悪いわ」
黙れ。早く帰れ。
「息子の顔見に来ちゃダメなわけ?」
「ダメじゃねえけど今日は無理。帰って」
「また喧嘩?顔腫れてるよ」
「うるせえな、母親ヅラしてんじゃねえよ」
母親は何を言われても俺を見据えている。ガキの戯言ぐらいにしか思っていない。こういう人だった。通用しない、全ての言葉が。この女は、ここに越して来てすぐに出て行った、それだけじゃない。それまで居た実家でも、しょっちゅう消えていた。一ヶ月帰らないことは当たり前、二ヶ月三ヶ月、帰らない時は半年、それが普通だったのだ。俺はばあちゃんと二人、それが当たり前に過ごして、母親が居ないのが当たり前になる。
それなのに、俺はあそこで良かったのに、何でこの部屋に越してこなければいけなかったのか、海が見たけりゃすぐに見に行けただろ。
「分かったよ、帰る」
炬燵から立ち上がるのが見えた。俺を素通りし、横切る。
「なあ」
「何?」
呼び止めると、こちらを向く。相変わらず、母親らしい顔なんてしていない。急に頭痛がした。耳の奥がキンと鳴る。唾を飲み込むけれど、治る気配がない。
「何でここなんだよ。海が見えて鬱陶しくて仕方ねえ」
「海嫌いなんだ」
「嫌いだよ」
「自分のこと嫌いでどうすんの?だからそんな腑抜けヅラしてんのよ」
「あんたのせいだろ。俺の名前がどうのこうの言うからだろ」
「朝焼け見てみな、綺麗だよ。あんたみたい」
じゃあね、そう言って、母親は出て行った。海が嫌いな理由なんて、言われなくても分かっていた。自分がそこに居るようで、いつも不甲斐ない自分を責められているようで、嫌になるからだ。名前の由来を聞いた時から、眺める度に母親を思い出した。自分を見ているようだった。最初は嬉しかったと思う。いつも居なかった母親が、自分のことを考えた数少ない瞬間だったからだ。それがいつしか、母親が出て行ってから、海を見るのが嫌で嫌で堪らなくて、その癖朝になれば、必ずベランダで煙草を吸った。そして海を眺めた。ここからは聞こえない波音を思い出して、何も考えずにただ眺める。互いに反対側にある感情が、いつも同じ場所に混在していた。
学ランのポケットから煙草を取り出した。一本口に咥え、灰皿を持ってリビングの窓を開ける。ベランダに出て火を点け、手摺に体を預けて海を眺めた。携帯を手に取り、目の前に持って行く。あの人の名前を出して、結局閉じる。声が聞きたい、会いたい、そう思うのに何も出来ない。一発だけ殴られた頬が、段々と痺れてくる。熱くなってきて、じんわりとした痛みが襲う。あの人を思うといつもそうだ。自分は砂じゃないと、何度も何度も思い知る。それが良いのか悪いのか、前者だったら楽になれる。
何かが変わったらいい。海を眺めながらそう思った。


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