短編

□劣等感にナイフを
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土曜日、電車を乗り継いで東京まで出る。それから徒歩やバスで約二時間、目的地である大学まで辿り着いた。慣れないせいで割に時間が掛かったけれど、本当ならもう少し早く着けそうだ。だだっ広いそこは見慣れない異世界のようで、どうにも勝手が分からない。通りすがりの学生にバスケ部の体育館を聞いて、そこへ向かう。大学の名前を聞いてから、バスケ部のことを調べてみた。リーグ戦ではベスト十六、これから伸びる大学だと書いてあり、湘北のようだと思った。だから安西先生は、迷うことはない、そう言ったのだ。
体育館を開けると、部員達がゲームをしていた。事前に連絡を入れておいたので、すぐに気付いた監督がオレに近付く。会釈をして、話をした。調べた通り、これから伸びるチームということ、推薦でも実技試験と小論文と面談があるということ、あとはチームの話を色々とした。試験内容は思った通りで、明日からまた部活に戻ろうと決める。その後チームに入れてもらい、少しだけ練習に参加した。高揚感と大学でバスケが出来るという何とも言えない衝動が、オレを動かした。
神奈川に帰る時も、どこか足元がふわふわして覚束ない。湘北に寄って、宮城達に推薦の話をしようと決める。それからまた、明日から練習に参加することも。今度はすんなり帰ることが出来て、一時間半程度だった。湘北に着くと、見慣れた場所に少しだけ安堵する。今日は快晴だった。風は冷たいけれど、不快ではない。体育館の近くに行くと、外にまで部員達の声が聞こえる。自分はまだ、ここの住人なんだと思った。先に部室へ行き、練習着に着替える。体育館へ行くと、いつも通り鬼キャプテンが吠え、周りが動く。相変わらず流川の動きは鋭くて、桜木はそれに立ち向かう。この光景を見るのもあと少し。
先に安西先生に決心がついたと報告し、それから部員達にも推薦を受けて実技試験があるから練習に参加することを告げた。宮城は当然、まだ居るんすか?と呆れて言い、後輩達は嬉しそうにしていた。そしてオレは、居座ってやる、と笑う。後は普通に練習に参加して、普通に終わりまで居た。さすがに居残りはしなくて、お疲れ、と残った連中に声を掛け体育館を後にする。
外に出ると日は落ちていて、暗闇が広がっていた。日が短くなった。ついこの間まで、この時間は明るかったのに。水戸の、こんばんは、という声を思い出した。あれからまだ、二ヶ月半程度しか経っていない。あっという間の時間だった。携帯を取り出し、水戸の名前を出す。電話を掛けると三コールで出た。
「はい」
「オレだけど」
「どうした?」
「今居る?」
「居る。さっき帰った」
「じゃあ行くわ」
断られる前に通話を切り、歩き出した。水戸は何と言うだろうか、多分、良かったね、それくらいだと思う。そしてオレはどうしたいのだろうか、まだよく分からない。
午後六時、真っ暗の道を歩き、冷えた空気の中で、オレは何を考えている。あれが欲しい、欲しい、それは今も変わらない。でも上手くまとまらなくて、歩くしか出来なかった。歩いて歩いて、とにかく水戸の家に行くしか方法が分からなかった。気が付いたら目の前には玄関があって、インターホンを押していた。今日はなぜか、まとまらない思考の反対側で落ち着いている自分が居る。がちゃり、と重たい音がして、玄関が開く。そこにはいつも通り、愛想のない水戸が立っていた。どうぞ、と言われ、足を進める。
「あんたはいつも唐突だね」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
スニーカーを脱ぎ、水戸の後に続いた。
リビングに入ると暖かくてほっとする。そうだ、今は夏じゃない。夏はとっくに終わった。あの夏は過ぎた後だ。
「何飲む?コーヒー?」
「あのさあ、」
好きだと言った。オレから、目の前のこいつが欲しくて堪らなくて、玉砕覚悟で、そう言った。
「東京の大学、推薦来た」
水戸がオレを見た。変わりばえのない、いつもの表情だった。
「すげえじゃん、良かったね」
あれから、一緒に居ない日の方が少なかった。昼休みは屋上で話したし、会いたくなればここに来た。でもそれでも、水戸のことは分からないことと知らないことばかりで、話すことと言えばくだらない話か、話が終わればセックスするか。でもそれって何?
「そんだけ?」
自分に言ったみたいだ。そんだけ?水戸とオレは所詮そんだけだ。
「そんだけって?」
「言葉のまんまだよ。何言ったって言われたって、オレはずっとお前のこと全然分かんねーままだった」
水戸の表情が変わる。眉間に皺が寄る。怒りが孕む。この表情は、見たことがあった。知っている顔だ。初めてここに来た日、地雷を踏んで殴られた、あの時と同じ顔だ。
「何言ったら良かったんだよ」
「だから分かんねーんだって」
「行くなとでも言えば良いの?違うだろ」
違う、そうじゃない、じゃあ何?
「分かんねえなら教えてやるよ」
水戸が近付いた。胸ぐらを掴んで締める。久々に見る、水戸の狂気が滲むオレを見る顔。苦しい、喉が詰まる、靄が掛かって晴れない。推薦の話が来た時に感じた霧、晴れたと思っていたけれど、ずっと奥にあったままだった、本当は。
教えてくれよ、分かんねーよ。
「あんたはな、自分が楽にバスケが出来る道探してんだよ。俺にそれを言わせようとしてんだよ。離れても続くなんておめでたいこと、最初から考えてなかったのあんたの方だろ」
そうだよ、思ってねーよ、つーかこんだけ続くなんて考えてもなかったよ、でもそれでも。
水戸の手に力が籠もる。喉が締まる。息が詰まる。苦しくて酸素を探そうとする。またやるんだよ、水戸はそう言った。またオレを殴ると、そう言った。そして、傷付けたい訳じゃない、と。今度はオレの方だった。水戸を傷付けたのはオレだ。これを言わせたのはオレだ。
「分かったら帰んな。もう来んな」
喉の圧迫がなくなった。急に入ってくる酸素に噎せ、何度も咳き込む。体を屈めて喉を押さえ、目だけで水戸を探すけれど、そこには背中しか映らない。もう表情さえ分からない。顔も見れない。話すことも、もうない。
何も言わずにその場を後にした。リビングのドアを開けて廊下を歩く。肌寒くて一瞬だけ身構える。それから玄関でスニーカーを履いて、一度だけリビングの方を見た。水戸の姿はない。玄関を開ける。重たいドアを押して、外に出る。また風が吹いた。海が近いから風が強くてとにかく寒い。廊下の比じゃない。コンクリートを歩くとスニーカーの擦れる音が聞こえて、それは雑音のようでうるさい。音が響く。他に誰も居ないからだ。まだ遅い時間じゃない。午後七時、それでも居ない。
同じだ。全部同じだった。ついこの間ここに来た時と何も変わらない。廊下の肌寒さもドアの重さも擦れる雑音も、何も何も変わらない。
それなのに何で。
何で全部が重たくて苦しくて喉が詰まりそうになるんだろう。
最初から続くなんて思わなかった、それはお前だってそうじゃないの?離れて続くなんて思わなかった、それもお前だってそうじゃないの?じゃあ何て言えば良かったんだよ全然分かんねーよお前のことが分かんねーのに言葉なんて見付かんねーよ。そんな言い訳ばかりで本当は、見透かされるのが怖かったからあいつから言わせた。好きだの何だのほざいておいて、終わりを見据えていたのもオレだ。たったそんだけだ。
いつの間にか階段も降り切っていて、駅に続く道を歩いていた。寒くて寒くて堪らなくて、ポケットに手を突っ込んでもそれは変わらなくてどうしようもない。波の音は規則的に聞こえていて、耳に張り付いて離れない。オレは結局、水戸のことを何も知らなかった。どうしてあそこに住んでいるのかも、海を眺めている時に見せる表情の理由も何も。
だったら。何も分からないなら。欲しくても手に入らないなら。いっそ何でも良いから寄越せよ。一つで良い。何でも良い。手も目も口も表情も声も、どうせ記憶にしか残らないんだから何でも構わないから一つで良いから置いていけよ捨てるもんで構わないから。
絞められた喉元に手をやった。表現力の乏しいあいつが唯一出来る方法。幼児並のコミュニケーションの取り方。あれしか出来ない、それは分かっていた。急に痛くなってきた。痛くて痛くて堪らなかった。何で痛いんだろう、分かっている筈だ。あいつがちゃんと、オレを好きだったからだ。そこにちゃんと居たからだ。でもそれを、呆気なく切り捨てたのはオレだ。
もう来んな、そう言われた所で、続かないと分かった所で、切り捨てた所で、結局オレは未だにあいつを思う。簡単に終わる向こう側で、水戸は今煙草を吸っている気がした。
その仕草が、頭の中で鮮明に蘇る。





終わり
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