短編

□劣等感にナイフを
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二十分程度歩いて、アパートに着いた。立ち止まって見上げていると、足が止まっていることに気付く。また風が吹いて来た。海の近くだからかそれはとても冷たくて、思わず肩を竦める。早く階段を上ろう、上がってインターホンを押して部屋に入ろう、そうすれば暖かい、そう思うのになかなか足が動かない。
「三井さん」
水戸の声だった。振り返ると、咥え煙草にパーカーとスウェットという部屋着丸出しな上に、手にはビニール袋というおっさんさながらの姿で歩いていて、思わず吹き出した。
「何?」
「お前ひでーな、それ」
「何が」
「どこのおっさんだよ」
「あんたこそ何ボーッと突っ立ってんの?上がってなよ。寒いのに」
そうだな、そう言って一緒に歩き出した。途中会話はなくて、水戸が携帯灰皿で煙草の火を消して捨てたのが分かった。何買ったの?と聞くと、ビールとつまみ、と簡潔に返って来る。階段を上りながら、三階までがいやに長く感じた。二つの足音が入り混じって、リズム悪く刻まれる。不意に今日の海南戦の音を思い出した。バッシュと床の擦れる何重にも重なる甲高い音、歓声、小気味良いドリブルのリズム、ゴールに吸い込まれるボールの渇いた音、それが聞こえるとほんの一瞬時間が止まる、そしてバスケ推薦。迷う必要なんてない。迷ってはいない。望んでいたことが目の前にある。それなのに、靄が掛かったみたいに体の中が晴れない。ぼんやりして息苦しい。
「どうした?やっぱり悔しい?」
一歩先を歩く水戸の声が聞こえて来て、言葉に詰まる。全く別のことを考えていたので、なかなか声が出ない。スニーカーとコンクリートの擦れる音が、ずっと続く。
「惜しかったね。でもゴリも居ないのに大健闘じゃん」
そうだった、負けたんだ。最後はまた二点差で、結局勝てなかった。
「あんた凄かったよ」
水戸は未だに話している。珍しい、そう思った。前を歩いているから表情は分からない。どんな顔をしているんだろう。
「もー俺あんな声出したの久々。山王戦以来」
喉いてー、そう言って笑っていた。
「時々聞こえた」
「嘘だろ」
「ほんと。お前の声は、何か分かる」
「そりゃ光栄だね」
本当に、水戸の声だけは何故か分かった。シュートを決めた時、パスが通った時、所々で聞こえていた。
「そういやお前、オレのことミッチーって呼んでんの?」
「あいつらにつられんの」
「何か笑えた」
気付いたら玄関の前に居て、水戸が鍵を取り出す。それから差し込んで、ドアを開けた。試合前は追い込みで来ることがなかったから久々だ。水戸の後に続き、玄関でスニーカーを脱いで廊下を歩く。軍団連中の騒ぐ声が響き渡っていて、隣の部屋から苦情が来ないだろうか、と呆れた。うるせえな、水戸も溜息を吐いて呟いている。
「お前らうるせえんだよ」
「洋平おかえりー!ビールくれ」
ドアを開けるともう、アルコールやら煙草やら鍋やら、とにかく色んな匂いが充満していて、呆気にとられるとはこのことだ。
「おー!ミッチー!お疲れお疲れ、まあ座れや」
「お前ら残念会で盛り上がり過ぎなんだよ」
空いている場所に適当に座ると、水戸が、ビール飲む?と聞いた。今日は帰るつもりだったから、断る。するとコップに烏龍茶を入れて目の前に置く。周囲に充満するアルコールの匂いだけで酔いそうだ。そういえば、でかい図体の男の姿が見えない。
「あれ?桜木は?」
「そこそこ」
大楠がオレの向かい側を指す。こたつから乗り出すようにして見ると、この騒ぎの中ぴくりともせずに寝ている桜木が居る。
「食うだけ食って寝た」
「食ってすぐ寝るとかガキかよ」
「ラクガキしたろか」
「やれやれ」
笑っていると、水戸が来て取り皿をオレの前に置いた。ちょっと詰めて、そう言うと隣に座る。普通に座るんだな、と思ったけれど、この狭い炬燵なら仕方ない。我が物顔で寝る桜木で一角分、デブの高宮で一角分、残りに野間と大楠、後から来たオレと水戸。狭過ぎる。
こうなると花道は起きない、水戸が言った。それだけならまだ良いけれど、中途半端な時間に起きてきて悔しくて寝られんと騒ぎ出すらしい。それか早朝に起きて朝練に付き合わすらしい。最悪だな、おい。そう言って返すと、もう慣れた、と言って笑う。
それからはただダラダラと飲み食いして、誰もが好き勝手に喋って、オレも笑って、こいつらは本当に気楽に気も使わずに居れる奴らだと知る。水戸がつるむのも分かる気がした。そして気付く。オレとこいつらは、時間の流れが違う、と。流れる速さは一緒でも、オレは三年でこいつらは一年、高校生活は始まったばかりだ。否応無く立ちはだかる進路を目の前にして、柄にもなく動揺している。立ち止まりたい。でも出来ない。時間を止めたい。当たり前に出来ない。念願だった道がすぐ目の前にあるのに。
時計を見ると十時を過ぎていた。電車のこともあるし、そろそろ帰ろうと決める。
「帰るわ」
「ミッチー泊まんねえの?」
「てめーらと雑魚寝なんて死んでもごめんだよ」
「つれねーなー」
この酔っ払い供め。水戸と言えば、話の相槌を打ったり時々話したり、基本的に静かだった。結構飲んでいたような気がしたけれど、顔も赤くないし、酔っ払った様子もない。
「じゃあな、ごちそーさん」
「ミッチーお疲れ!引退おめでとう!君のことは忘れないよ!!」
「やかましい!おめでとうじゃねーよ、この酔っ払い供!」
「よっ!スリーポイント!名手!」
「外から神!中から牧!」
「海南だろそれ!!」
もう誰の声かも分からないくらい騒ぎ散らして、ミッチーおめでとうだの引退がどうのこうの、終いには海南の話まで出てきて、何がおめでとうで何がお疲れなのか最後の方全然分かってないだろ、お前ら。
リビングを出ると、廊下が肌寒くて驚いた。あそこは相当暖かかったらしい。頬に当たる空気が冷たくて、一瞬で何かが冷めた気がする。後ろには水戸が居て、一応見送りらしいと分かった。玄関でスニーカーを履き、向き直す。
「じゃあな。ごちそーさん」
「すげえ騒ぎだったね」
「苦情こねーのかよ」
「ないね、今んとこ」
玄関と廊下は段差がある。水戸を見上げる形になるのはこの時だけだ。あまりないから変な感じがした。水戸の向こう側からは未だに騒がしい声が聞こえてくる。
「あんたが隣に居るのに触れないとか拷問だった」
「お前でもそんなこと思うんだ」
「くだらねえことしか考えてないよ、俺は」
そう言って水戸は一度、ドアが締めてあるリビングの方を向いた。何かを確認するようにしばらく見ている。
「水戸?」
呼ぶと水戸は向き直し、少し屈んで一瞬だけ触れるだけのキスをする。アルコールと煙草の匂いが鼻を掠めた。手を伸ばしたくなるのを、寸での所で抑える。
何かもう、分かっちまった。
「悪りーね、送れなくて」
「いいよ、女じゃねーんだし」
「そりゃそうか」
オレの迷いはあれだ。
「三井さん?」
「あの、さあ」
「何?」
「いや、桜木によろしく」
じゃあまた、そう言って玄関を開けて外に出た。急に風が吹き付けて息を飲む。冬の空気が体を覆って、冷たい世界は頭をクリアにさせた。暖かい部屋で騒いで笑って、あのぼんやりした場所から一気に現実に引き戻させる。だからこそ一層、意識がはっきりした。
あれが欲しい。オレはあれが欲しいんだ。もう側に居れなくなる。オレの迷いはあれだ。


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