短編

□劣等感にナイフを
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捨てる神あれば拾う神あり、急に推薦の話が舞い込んで来た。
赤点を取ったら選抜が、だの何だの息巻いていた癖に、県大会で海南に負ける。ウィンターには行けなかった。終わった、そう思っていた所で、試合後に控え室に戻る直前、安西先生から呼び止められた。そこには見知らぬ中年の男性も一緒に居て、とりあえず会釈する。その人は、朗らかな笑顔で、惜しかったね、と言った。思い出すと泣けてくるので、俯いて、いえ、とかぶりを振るしか出来ない。それから、うちに来ないか?と言ったのだった。何もいえず、ただ驚くだけで俯いていた顔を上げると、その人は東京の某大学でバスケ部の監督をしていると言った。実は夏の大会から見ていたとのことで、山王戦のビデオを見た時には決めていた、とも教えてくれた。安西先生には相談をしていたけれど冬の大会を見て欲しいと言われたようで、オレには話さなかったそうだ。そして、良かったら来週末にでも一度大学の練習を見に来て欲しい、とも。海南に負けた後の喪失感で溢れ返っていた所にこの台詞。もう何のことやら頭が混乱していたけれど、とにかく、はいありがとうございます、と言ったことは確かだった。そして最後、よろしくお願いします、と頭を下げた。
控え室に戻ると、落ち込んでいるかと思った連中は、意外にもミーティングをしていた。鬼キャプテンに、おせーよ、と言われるけれど、推薦話を言うことは当たり前に憚られ、便所だよ、と返すしかなかった。次は、ミッチー泣いてたんだろ!と桜木に笑われ、ちげーよ!と怒鳴る。オレの高校バスケは終わった。部員達は次に進もうとしている。留まることは出来ないと、改めさせられた気がした。汗が冷えた体は妙に寒くて、ウィンドブレーカーを羽織る。それからオレもミーティングに参加した。頭の中では大学の監督が言った言葉が木霊する。何度も、何度も。やるしかねーだろ、待ち侘びていた向こう側のバスケ、それは目の前にある。何を迷うことがある。進むも退くも自分次第だ。そう思っているのに、靄が掛かったみたいに頭の中がはっきりしなかった。
ミーティングも終わり会場を出ると、外は肌寒かった。乾いた首に風が当たり、身震いする。今日は曇り空だから余計に。特に会話もなく、全員が静かだった。そりゃそうだ、反省点も改善点も山ほどある。個人個人で今日の試合を思い返しているに違いない。いつもはうるさい桜木でさえ黙っていた。負けたことが糧になることは十分過ぎるほど分かっている筈だ。こいつらには、明日も明後日も明々後日も、まだまだ時間がある。来年もある。
電車で湘北まで帰り、その場で解散する。最後安西先生に、迷うことはありませんよ、と言われ、ありがとうございました、ともう一度頭を下げた。部員それぞれが話していたり帰る奴も居たり、ばらばらで散っていく。後輩達数人に、三井先輩今日で最後なんですか?と縋るような目で言われた。うーん、と天井を仰ぎ、曖昧な返答をする。推薦になれば、確か実技と小論文と面談の筈だ。練習には出ておいた方が良い。考えながらまた後輩達に目をやると、辞めないで欲しいと顔に書いてあるようだった。何と言うか、こいつらは襲撃事件の主犯だった時のオレをすっかり忘れているんだろうな、と思うのだ。悪かったな、と何度も思った。それから楽しかった、とも。入学当時と合わせても一年にも満たないこの時間が、楽しくて堪らなかった。無駄に過ごした二年間を片隅に思いながら、このメンバーで試合をするのは今日が最後だ、と柄にもなく寂しく思う。
「でも三井さん、マジでどうすんすか?」
「ん?んー……」
宮城に聞かれ、それに上手く返すことが出来ない。海南戦に負けた直後に確定もしていない推薦話が出来るほど、オレも馬鹿じゃない。考える、そう言って会話を終わらせた。少しだけ気が抜けたということもあり、今日は誰も残らず帰るようだ。じゃあな、と言ってそれぞれが別れ、オレも歩いた。
時間は既に五時を回っていて、辺りはもう薄暗い。夕方のひやりとした空気は、酷く硬質な気がする。寒くてウィンドブレーカーのポケットに手を入れ、風を受ける箇所を少なくした。冬の気配はあまり匂いがない。潮の香りもあるはずなのに、あまり感じない。波の音だけが遠くから少しだけ聞こえた気がして、それは幻聴のように心許なかった。さみーなぁ、オレはぼやくように言った。
今日は土曜日だから、水戸は軍団連中とスタンドの一番前で応援していた。コートに入る最初に目が合うと、口端を上げて笑っていた。何も言われなくとも、頑張れと言われているみたいだと思った。多分もう帰っているだろう。それともさっき帰った桜木と合流するのだろうか。桜木、その名前を思い浮かべたと同時に、以前テーブルの上に置いてあった書き置きを思い出した。「花道の朝練付き合ってくる。鍵は置いとくので学校で返して」と、殴るように書いてあった。水戸の文字を初めて見たけれど、雑、の一言しかなかった。それでもチームの朝練に間に合う時間までぎりぎりまで待った。一向に帰ってくる気配がなかったので、オレもそこから出たのだった。あの夜、水戸は少しだけ変だった。何が変か、と聞かれたらごちゃごちゃしてよく分からない。と思ったら昼休みに鍵を返した時はけろりとして、ありがとう今朝ごめん、と言った。また分からなくなる。また増えた。分からないことばかりだ。
その時、どこからか携帯の着信音が鳴る。誰だ?と見渡しても辺りに人はおらず、そこでようやく自分のだと気付いた。どこやったっけ?と、ジャージのポケットを探ると、右側に発見する。相手は水戸だった。なぜだか動揺し、少しだけ出るのを躊躇う。一息吐いてから、それに出た。
「あー、俺」
「おう」
「何してんの?」
何してんの?って水戸さん、君そういうことで電話する人でしたっけ?
「歩いてる」
「大丈夫?」
「え?ああ、大丈夫」
そうか、負けたから電話してきたのか。今更気付いた。
「今日はお疲れ様」
「うん」
会話が止まった。携帯から聞こえる声の裏側が騒ついている。誰か居るのだろうか。
「誰か居んの?」
「あいつら。残念会っつって鍋してる。花道もさっき来たよ」
「ぶはっ!負けたのに楽しんでんじゃねーよ」
「どっちにしてもやるつもりだったんだよ。海南に勝っても負けても」
その時携帯の後ろ側から、洋平ー!と声が聞こえた。多分大楠だと思う。誰?女か女、そう言って笑っていた。完全に酔っ払いだ。ちげえよミッチー、水戸の声がする。そこで吹いた。呼んでんの?そう思った。呼べば?つーかビール足りねえ洋平買って来いよ、続けて大楠は喋っていた。
「めんどくせえな。来る?」
「良いのかよ」
「良いよ。残念会ならあんた主役だろ?引退するんじゃないの?」
「あー……、そうだよなぁ」
引退、その言葉は未だに実感が湧かない。バスケに関わる時間が短過ぎたからだろうか。
「まあいいや。俺ビール買いに出るから、あんた先着いたら入ってなよ。鳴らせば誰か開けるだろ」
「分かった」
通話を切り、また歩き出す。スニーカーとコンクリートの擦れる音が、いやに響いた。耳に入るのが苦痛で、足を急がせた。そうした所で音が酷くなることは、分かっていた筈なのに。また波音が遠くから聞こえる。雑音が二つになった。幻聴のようだったそれは、呆気なく雑音に変わる。どうしても鬱陶しくて一つ舌打ちを鳴らす。歩くのが嫌だ。止まってしまいたい。
水戸に会うのが怖い。そう思うのは初めてだ。


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