短編

□覚醒少年
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学校が終わっても何となく家に帰るのが嫌で、バスケットゴールがある公園に向かった。そこは閑散としていて、誰も居ないからか薄ら寒い感が否めない。ゴール近くにあったベンチに座り、少しだけぼんやりする。さみーなぁ、と独り言を呟くオレは、バスケ以外やろうと思うことがないのだと今更ながら思う。学ランを脱いで、スポーツバッグからボールを取り出した。ボールを弾ませて何度かドリブルして、スリーポイントラインを測る。それから打った。ベンキョーしねえとまずいよなぁ、と他人事のように考えながら、いやいや鈍るから、と心の中で言い訳する。誰にだ、と突っ込みを入れながら打った。しばらく打って、結局止める。またベンチに座り、腕を組む。腹減った。バスケと食うこと、何とも煩悩の塊だ。そこには勉強のべの字も見当たらない。
水戸の親子丼、前に食った時美味かった。不意に思い出した。と考えた時には既に携帯を出していて、自然と指が水戸の名前を探す。バイトかもしれないだとか、その時は何も考えずにあいつの名前を見付けて通話ボタンを押していた。出なければ出ないで、それでも良かった。ただ、あの日の親子丼を思い出したから、会いたくなった。
「はい」
「今家に居るか?」
「居る」
「分かった。じゃあな」
答えを聞いてすぐに切った。ベンチから立って学ランを羽織る。ボールをスポーツバッグに入れて、よし、とまた独り言を言って歩き出した。まずは本屋に向かった。商店街にある小さな本屋は、公園から程近い所にある。そこで料理本をペラペラと捲る。一冊目にはない。二冊目、次は目次から探してみる。発見。親子丼は七十二ページだ。材料を見ると買う物は、鶏肉、卵、それくらいだろうか。本を閉じて棚に戻す。何気なくタイトルに目をやると、基本の料理と書いてある。親子丼は基本料理なのか、と思った。料理と言えばカップラーメンくらいしか思い浮かばないオレは、親子丼には何が使われているかも漠然としか分からないのだ。以前水戸にその話をしたら、カップラーメンは料理じゃねえから、とばっさり切られた。ごもっともです、はい。
あいつは誰に料理を教わったのだろうか、聞いたことがない。聞かれたら話す、と言われたものの、何が地雷で何がそうでないか分からないオレは、言葉を飲み込む時があった。桜木が羨ましい、と思う。友達だったら良かったのだろうか、と時々考えることがある。情けない話だった。
今度はスーパーに行った。目的の鶏肉と卵はあっさり見付かる。ついでに手土産も買った。合計千円と少し。確かに外で食うより断然安い。
スーパーを出ると、夕暮れのオレンジに夜の濃紺が押し迫っていく貴重な一瞬に出くわした。思わず立ち尽くして息を吐く。そのグラデーションは目を瞠るほど綺麗なのに、人はぽつぽつと歩いているのに、どうしようもなく寂しくなる。冷えた風が吹いた。それは否応なく頬を掠める。思わず、さむ、と声を出した。肩を竦めるけれど、寒さは変わらない。学ランの下に着ていたパーカーに少しだけ救われた。マフラーでも巻いて来れば良かったと後悔する。
水戸はオレを好きだと言った。そこに嘘はなかったと思う。同情で言うくらいなら、あいつはばっさり切り捨てる筈だ。かと言って続くかどうかは別問題だった。今の所、特に問題なく続いている。あれから殴られることもなければ、冷えた目を見ることもない。基本的には物凄く優しい奴だと思う。オレが言う我儘も、言葉の裏側にある狡さも、全部分かった上で呆れた様子でも匙を投げることはしない。ただ水戸は、自分自身に対しての欲がない。投げやりだとかどうでも良いだとか、そういうんじゃない。ただ、自分に興味がないというか冷めているというか。ああ、そうだ、期待をしていない、が一番近いかもしれない。それも他人に対してじゃない。自分に対して。
水戸のアパートまで歩いた。ここからだと歩いて十五分程度だろうか。海沿いだからか、容赦なく吹き付ける風は冷たくて、食材が入ったビニール袋を持ったまま制服のポケットに手を入れた。波の音が聞こえてその方向を見るけれど、防波堤に阻まれて波打ち際は見えない。夕方の色で染まった紺色の海が多少見えた。少し怖くなるほど広くて、冬の海は少しだけ恐怖を覚える。消えない波の音を聞きながら暫く歩いて、アパートまで着いた。見上げてみたけれど、当たり前に水戸の気配はまるでない。冬だからだろうか、人が歩いていないからだろうか、酷く物寂しい雰囲気だった。階段で三階まで上がり、角部屋のインターホンを鳴らす。何度も来たけれど、この瞬間はいつも心臓が早くなる。
ドアが開いて水戸が顔を出した。よう、と言うと、何?と返された。そりゃないだろ、そう思ったけれど、こいつはこんなもんだと理解する。仮にも好きな相手に、だの何だの、こいつ相手に考えても仕方ない。
「これで親子丼作れ」
もう無理矢理手渡して、玄関に押し入る。
「はあ?」
顔は見ないようにした。結構傷付くからだ。
「はいはいお邪魔ー」
「あんたマジで我儘だな!」
水戸の声も聞こえない振りをして、スニーカーを脱いで歩き出す。リビングに続くドアを開けると、暖かくてほっとした。脱力するように息を吐くと後ろから、邪魔、と言われる。もういい、こいつはこんなもんだから。
「何?親子丼?」
「おう、作ってくれ。ムショーに食いてー」
台所にビニールを持って行きながら、溜息を吐かれた。結構酷い扱いだと思った。何となくオレもそこに居ると、水戸はヤカンに水を入れてコンロに置き、火を点ける。
「外寒かった?」
「すげー寒い」
水戸に近付いてオレの両手を顔に付けると、冷てーよ、と笑われた。
「コーヒーで良い?出来たら持ってくから座ってな。寒いんだろ?」
「おう、サンキュ」
水戸はマグカップを取り出して、インスタントコーヒーも準備していた。それを見ていると、何?と言う。別に、と返したけれど水戸は微笑を浮かべたままで、結局こいつは優しいんだよなあ、と思う。
「来ると思ってなかったからびっくりした。試験前だし」
炬燵に入って一息吐いた所で話し掛けられる。そこはとても暖かくて、出たくなくなる。
「ベンキョーしに来た」
「家でやれよ。何でここなんだよ」
「何となくだよ!早く親子丼作れ!腹減ってんの!」
「ほんと理不尽。我儘」
会いたかったとは口が裂けても言えない。でも多分水戸は分かっていると思う。悪態を吐きながらも笑っているからだ。
普通に話すようになってから数ヶ月、水戸は随分と柔らかく笑うようになった。初めの頃からは考えられないほどだ。多分こいつは、自分の領域に他人を入れることはしない奴だろう。自分が信頼した人間以外は。インターホンを鳴らす直前、いつも心臓が早くなるのは、拒絶されるかもしれない懸念があるからだった。急に心変わりされるんじゃないか、と時々思う。好きだと言われた所でオレは、こいつに対して余裕なんかなかった。あの日でさえ、捕まえたと思えたのはほんの一瞬だったと思う。
好きだと言われた翌日、初めてオレは水戸の寝顔を見た。驚き過ぎて逆に声を失った。そんなに朝早いか、と時計を見たけれど十時を回った所だった。あいつは寝顔を見せない。見せないのか、ただオレが起きないからかは定かではないけれど、とにかく一度も見たことがなかった。計画的に見せないようにしているのか、ただ単に早起きなのか、どちらかは分からない。とにかく起こさないようにベッドから出て、シャワーを浴びた。浴室から出てリビングに戻ってベッドを見ると、水戸は居なかった。辺りを見渡したけれど居なくて、どっか買い物でも行ったか?と思った。すると窓を叩く音がして見てみると、水戸が咥え煙草で窓ガラスをノックするように叩いている。あそこか、そう思いながらオレも外に出た。
空を見上げると見事に秋晴れで、空気も澄んでいる。思い切り吸い込むと気持ちが良かった。体に当たる風がとにかく心地良くて、気分が良かった。
「おはよ」
「……おはよ」
「何、その顔」
オレは訝しげに水戸を見ていた。それを言われたんだと思う。随分と機嫌が良さそうで、しかも異常なほど爽やかに朝の挨拶をされるとか、何というか有り得ない。それこそ後で罰ゲームが待ち構えているのではないだろうか。
「何かお前気持ちわりーな、どうした?」
「ぶはは!気持ちわりーってなんだよ」
しかも笑ってやがる。怖過ぎる。
「いや、寝顔見せたり機嫌良かったり、こえーよマジで」
「は?寝顔?」
「初めて見たからさー、何かびびった」
「俺は希少動物か」
「何でそんな機嫌良い訳?」
「久々によく寝れたからかなぁ」
ふーん、そう返すと、水戸は真っ直ぐ先を見て、煙草をふかしている。煙がゆらりと揺れながら宙に舞って、いつしか消える。立ち昇る紫煙は景色と混ざり合って、所々白くなる。水戸の目線の先には海があった。ここから海が見えることを、オレは初めて知った。
「海見えるんだな」
「うん」
「良いな、何か」
「そう?」
「良いじゃん。海好きじゃないのかよ、こんな側に住んでて」
「……よく分かんねーや」
オレは水戸を見た。急に表情が変わったからだった。よく分かんねーや、そう言ったお前の顔が、オレにはよく分からない。さっきまでは笑っていた。寝顔を見せて機嫌まで良くて、怖いくらいだと思った。水戸は酷くぼんやりしていた。ただ真っ直ぐ見ていて、でもその先は定まらないように見える。いつもどこか不安定だった。近付いたと思っていた。手を伸ばせば届く距離に居ると思ったのだ、あの夜は本気で。でもすぐに遠くなる。離れて行く。どうしたら縮まるんだろう、近くて遠いこの男との距離は。
「親子丼」
「は?」
「三井さん、朝からガッツリ食える派?」
「そこそこまあまあ」
「すげー親子丼食いたい気分なんだよね、俺」
「あっ、そー……ですか」
何だこいつ、何が親子丼だよ急に。やっぱり分からん。こいつのことはさっぱり全く分からん。
「まあ見てな、すげー美味いから。昼からの部活頑張れるね、間違いなく」
「はあ……、どうも」
と、呆れて喋るのもどうでもよくなった俺の前に出された親子丼は、本当に美味かった。正直、母親が作る親子丼より断然美味くて、一口食べた瞬間、反射的に美味いと声を出したほどだった。
だからオレにとって、水戸が作る親子丼は、数少ない繋がりなんだと思う。貴重な寝顔と上機嫌、どう考えてもあの朝は特別だった。
目の前には数学の教科書、少し前にあった親子丼と味噌汁は既に片付けられた後だった。水戸は既に風呂に入った後で、オレの斜め横に座り、テレビを見ていた。手には煙草で、それこそテレビなんて見ているのかいないのか、分からないほどぼんやりしている。こうして一緒に居るようになってから、分からないことが増えた。表情にしても生活にしても家族にしても、何もかも。多分オレは、水戸のことを全然知らない。聞くことも出来ない。それは数学みたいに教わることも出来なければ、答えが出る問題じゃない。この先分かるかどうかも分からない。
「やめた」
やめだ、考えるのも試験勉強も面倒だ。
「もういいの?」
「明日やる」
「じゃあいい?」
「何が?」
水戸は煙草を灰皿に押し付けた。残った煙が空中で不規則的に揺れている。
「触らせろってこと」
「ああ、そういう」
手が顔に触れる。そのまま近付いて、水戸の唇がオレの唇に触れる。目を開けたままにしていると、目が合う。そこには何が見えているんだろう。オレなのか、そうでないのか。
「何で目ぇ開けてんの?」
「見たかったから」
お前が何を見てるのか、そう続けた。水戸は少し離れて口を噤む。それはどうしようもなく、酷い表情だった。焦燥とも憔悴とも違う、かといって苛立ちや怒りでもない。脆くて壊れそうで苦しい、そういう何とも言い難い顔だった。
「……見てねえよ」
「何?」
「俺はあんたしか見てねえ」
オレは水戸を抱き締めた。それを合図に押し倒される。風呂入ってない、と言った。水戸は、どうでもいい、と返した。オレはこうして、性急に求められるのが嫌いじゃなかった。むしろ心地良かった。水戸が一枚一枚剥き出しにされて、本性が見える気がしたからだった。多分水戸は、こういうやり方しか知らないのだと思った。何かを示す時、どうしようもない時、それから寂しい時。こいつをひっくり返した時に出て来るのは、幼児並のコミュニケーションの取り方だった。大人びて見えていたけれど、それはオレが勝手に作り上げた虚像でしかなかったのかもしれない。愛情の与え方が分からない子供、そんな感じがした。
あんたしか見てねえってお前そんな言い方しながら苦しそうにすんなよそんな顔見たことねえよオレはここに居るだろ。
それが言えないから抱き締めるしか出来ない。本当は言ってしまえば良いのか、聞きたいことも全部聞けば良いのか、でもオレは口下手だし上手く聞けるかどうか分からない。その言葉が水戸を傷付けたら?そう思うと声が出ない。抱き締めて体を開くしかない。そうすると、例え嘘っぱちでもここに愛情がある気がするからだ。嘘と現実が混在していても、水戸が良いならそれで良かった。
水戸の顔に手を伸ばした。触れた肌質は滑らかだけれど少しだけかさついた、男特有のそれだった。撫でるとまた顔を歪め、オレの手に擦り寄るように頬を滑らせる。自分の掌でオレの手を覆い、しばらく撫でた後指先にキスをした。水戸の唇と指は独特で、いとも簡単にオレを狂わせる。離れたくないし離したくもなかった。でもその先の終わりを見据えているのも確かで、また夢見がちな妄想と現実的な最後が見えて、それが綯交ぜに交錯する。
初めてここに来た日オレは水戸に、寂しいんだろ?と聞いた。あいつは目を見開いていた。それから殴った。暴力的に抱いた。誰でも良かったと言われたのがムカついた、水戸はそう言った。多分それは、半分正解で半分違う。図星だったんだ。寂しかった。それが大元だった。
どこにも行かねえよ、なんて言える筈がなかった。実際卒業したら別々になる。簡単に会える距離には居なくなる。こうやって学校の帰りに寄ることもなくなる。オレは水戸が欲しい。欲しくて欲しくて堪らない。好きで好き過ぎてどうしようもない。何をされても構わないとさえ思う。でもそれでも。多分オレは、バスケに没頭する。
あいつが居ても居なくても。


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