短編

□覚醒少年
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まな板の上には鶏肉が一枚あった。それの余分な脂や皮を除いて身を開き、一口サイズに切っている。下ごしらえしながらちらりと目線を上げると、リビングには炬燵に入ってテーブルに肘を付き、掌で頭を掻きながら唸っている人が居る。煮詰まってんだろうな、と思いながらも声を掛けることはしなかった。教科書と睨めっこしながらシャープペンで時々つついている。手が止まって、俺が入れたインスタントコーヒーを飲む。あの人は甘党らしく、牛乳を入れた上に砂糖を入れる。リクエストされて初めてそれを作った時、俺は絶対やらねえ、と思った。
冷蔵庫を開けて卵を取り出すと、500mlの牛乳が目に付いた。俺は飲まないからあの人用だ。自然と私生活の中にあの人の気配が侵食してきていて、それが未だに慣れなくてむず痒い。先日、久々にばあちゃんが来た。食材を色々とくれた。その時に冷蔵庫を開けたばあちゃんが、洋平牛乳飲むようになったの?と聞いた。別に牛乳くらい大した話じゃない。それなのに俺は、花道用、と嘘を吐いた。そう、と彼女は言ったが、俺が何かを隠したことを多分分かっていると思う。ばあちゃんはまだ若々しい。というより若い。母親を十八で産んだからまだ四十八歳だ。ばあちゃんと呼ぶのも申し訳ないくらいだった。それでも俺は、ばあちゃん、と呼んだ。ばあちゃんって年じゃないよ、と悪態を吐くように言う割には嬉しそうな笑顔を見せる。それが好きでずっとそう呼んでいた。
料理もばあちゃんから習った。今作っている親子丼もそうだ。彼女は小料理屋を営んでいるから料理も上手い。出汁の取り方も習ったが、今日は面倒なので市販の粉末出汁を使っている。そもそも、今日は親子丼の気分じゃなかった。と言っても何を作るか決めていなかった上に食費も浮いたので、もう何でも良い気持ちにもなっていた。
あの人はいつも唐突だ。つい二時間程前電話が掛かってきて、今家に居るか?と聞かれた。居る、と答えると、その一時間後にインターホンが鳴った。ドアを開けるとそこにはビニール袋を持った三井さんが立っていて、これで親子丼作れ、と言うのだった。無理矢理渡されたビニール袋の中身を見ると、鶏肉、卵、スナック菓子他、居座る気満々なそれを見て、俺は、はあ?と思い切り顰めっ面して返したと思う。それでもあの人はお構い無しに、はいはいお邪魔、と言うと人を押し退け勝手に我が家に入って来るのだ。あんたマジで我儘だな!と言っても無視してずかずかと歩いて行った。そして今現在に至る。
「水戸ー、腹減った」
「もうすぐ出来るからあんたは黙ってベンキョーしてろ」
あの人絶対飽きたな、そう思った。今はテスト期間中で部活は休みだった。それで今あの人は必死に教科書に向き合っている。今回は赤点を取る訳にはいかないらしい。冬の選抜が掛かっているからだった。夏の時は追試でどうにかなったが、花道始め主力メンバーは前回のことがある為必死になっているのだろうと思う。
鶏肉にも火が通ったので、溶いた卵を回し入れる。半熟で火を止めて、飯をよそった丼にかけた。その上に海苔を散らすと、我ながら美味そうだ、と思う。一緒に温めておいた味噌汁も汁椀に入れた。何で俺こんな世話焼いてんだよ、とぼそり独りごちながら、進んでいるのか分からない試験勉強中の三井さんの所に運ぶ。美味そう!と急に元気になった人を見て、単純な人だ、と思わず笑って吹いた。それから自分の分も運んで三井さんの前に座ると、彼はいただきます、と手を合わせた。いつの間にか教科書とノートは片付けられていて、この人はここに何しに来たんだろう、と真面目に思う。
「あんたさあ、大丈夫かよ。選抜かかってんだろ?」
「お前こそベンキョーしてんの?」
「俺試験前に焦る必要ないもん」
「余裕ですねー、赤点でも別に良いってやつですか、洋平くんは」
「言っとくけど、赤点取ったことないからね、俺」
は?!と急に大きな声を上げた三井さんは、訝しげに俺を見る。嘘吐くな、とでも言われているようだった。それから急に顔付きが変わり、まさか、と言う。
「お前、ヤンキーのくせに頭良いとかそういう一番教師に嫌われるパターンじゃねえだろうな?」
「良くはねえよ。頭を良いってのはゴリとかメガネ君だろ?俺は普通。平均点くらい。つーか赤点取る方がおかしいの。四つとか七つとか漫才やってるとしか思えねえ」
意地悪く笑いながら言うと、三井さんは押し黙る。何も言い返せないようだった。嘘を吐いた。本当は平均点より大体上だ。でも言うとまた色々とうるさく言われて面倒そうだと妥当な所を言っておいた。実の所、教師達もあまり俺には文句も言わない。というより最近あまり派手なことをしていない。喧嘩もしなくなった。絡まれなくなったのだ。顔を見ると逃げられることが多い。それには心底安堵した。これで花道に迷惑を掛けることもなくなるからだ。
夏のあれを思い出すと、それだけで笑える。赤点七つとかもう神のレベルだと思う。やはり花道は、人とはスケールの大きさが違う。
思い出し笑いをしていると、三井さんは罰の悪そうな顔をして親子丼を食べ出した。子供みたいだ、と思った。
「お前、得意科目って何?」
「んー、数学」
「マジかよ、有り得ねえ」
どうやら彼は苦手科目のようだった。これで推薦狙いというのだから、何かもうどうしようもない気がしてならないのは気のせいだろうか。それともバスケ推薦だったら勉強の出来不出来は関係ないのか、もはや推薦の意味すら分からなくなる。
「大体さあ、数学自体の意味が分かんねえよ。社会に出てからこんな公式使わねえだろ、足し算引き算出来れば十分なんだよ」
「出来ない奴は大抵そう言うんだよなぁ」
「じゃあお前これ見てみろ!意味分かんねえって!」
「三年の教科書見せんなよ、一年が分かる訳ねえだろ」
それでもこの人は、人の話など聞かずお構いなしに開いていたページを見せてくる。読んではみるものの、悪いけどさっぱり分からない。仕方なく二ページほど前に遡り、とある公式を見付ける。それがその問題と似ている気がした。
「これじゃない?」
「ん?」
三井さんが教科書を覗き込む。
「計算式は分かんねえけど、これ使うんじゃないの?この公式。よく読んでみ?似てるから。これに問題の数字当てはめれば良い気がするんだけど」
「ん?ん?」
おい一年に教えてもらってどうする数学の意味が分からん云々の前にあんたが推薦狙う意味が分かんねえよ俺は先に日本語の勉強しろ。
「てんめえ、言い過ぎなんだよ!」
「あれ?声に出てた?」
笑って誤魔化すと、俺から数学の教科書を取り上げた。
「とりあえず食いなよ。食ってからやれば?」
「あーあーもうめんどくせーなー!大体試験って何だよ、やる必要あんのかよ、意味分かんねえよ、バスケも出来ねえし!」
「俺はあんたが大学行こうとする意味が分かんねえ」
「バスケしに行くんだよ」
「……世も末だ」
「うっせえ!」
もう何も言うまい。バスケ推薦で大学に行けた所で、この人の嫌いな勉強が付いて回るに違いないだろうに。それでも行きたいというなら仕方ない。努力しかない。それならわざわざ俺の所で勉強などせず、誰か別の人に教えてもらうなり何なりすれば良いのに、と思うのだ。それともただ単に俺に会いたかったのか。我慢して勉強しろ、と思う反面嬉しいとも思った。可愛い人だと。それから、好きだとも。
目の前の親子丼に箸を付けた。一口食べる。二口食べる。美味かった。目線を少しだけ上げて、ほんの一瞬彼を見てから、また下に下げた。三井さんは普通に親子丼を食べていた。とにかく普通に。美味いよ、と言われたから、どうも、とだけ返した。これがいつまで続くんだろう、と当たり前に側にあった筈の壁をようやく目の当たりにした気がした。それは高くて馬鹿でか過ぎて、飛び越えるのも飛び込むのも無理だと分かっていたつもりだった。覚悟の上で、好きだと告げた筈だった。その覚悟なんて感情だけで揺れる呆気ない物だったのかもしれない。そしてそれは、覚悟なんて大それた物じゃなかった。俺の自己満足だった。
数ヶ月後、この人は居なくなる。会おうと思えば会える距離から離れていく。唐突に会いに来ることも、きっとなくなる。


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