短編

□青い衝動
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放課後になり、一度自宅に戻って着替え、適当に時間を潰して十八時頃母親のスナックに行った。そこにまだ客は居ない。女は一言、洋平、と言った。また幽霊が言ったように聞こえて、急に頭痛がする。
「元気だった?」
「だったよ」
「ちゃんと食べてんの?」
「食ってる」
会話が止まる。水戸は、物心ついた時からほとんど母親に話をしなくなった。特に気まずいという感覚はなく、話すことがないのだと思う。けれど女は、特に気にすることなく話し掛ける。この人はこういう性質なのだと、水戸はそれで片付ける。
「俺じゃなくてあんたのオトコとか知り合いに頼んだら?」
「あの人真面目だもん。ハエ退治なんてしないわよ」
「ふーん」
「洋平」
「何?」
「あんた、女出来たんじゃないの?」
「出来てねえよ」
「避妊だけはしなよ?」
「あんたにだけは言われたくねえな」
ごもっとも、そう言って女は笑った。水戸は溜息を吐いた。その後は沈黙。その内客がぽつぽつと入り始め、水戸はほっとする。母親に詮索されずに済むからだ。水戸は自然と身に付いた仕事を始める。氷を割り、客に言われたカラオケを入れ、アルコールを作る。そして時々、愛想を振り撒く。それを繰り返す。時間は刻々と過ぎる。母親からの合図はない。ハエは未だに来ない。その時ドアが開く。女が目配せする。こいつだ。
見た目は二十代後半のチンピラ、構成員では無さそうだった。面倒なことにはならないだろう。水戸はカウンターを出て、男に声を掛けた。
「ちょっといいっすか?」
「何だお前」
「ちょっと」
そう言うと店の外に連れ出し、路地裏に連れ込んだ。
「てめえ、何のつもりだ」
「うちの従業員があんたに付き纏われて迷惑してんですよ。やめてもらえませんか?」
「ふざけんなよ、小僧」
当たり前に通じなかった。水戸はまた溜息を吐いた。頭痛がする。とにかく面倒だった。なぜ自分は母親の言うことを聞いているのだろう、なぜここに居るのだろう、もう全く分からなかった。目の前の男は未だに怒声を撒き散らしていて、もはや日本語かどうかも分からない。ただひたすら帰りたかった。もう何も考えたくなかった。頭痛がする。
ああ、頭痛え。
その時、目の前の男が殴り掛かってくる。水戸は素早く屈んで躱し、右ストレートを男の顔面に叩き付けた。鼻の骨が折れた感覚が水戸の拳に残る。やっぱ砂かな俺、そう思った。男は路地のコンクリートに叩き付けられ、頭を打ったのか気を失う。それを見届けてから店に戻った。
「終わった」
カウンターに入り、母親に告げた。
「路地で気ぃ失ってる。後は知り合いに頼むなり救急車呼ぶなりあんたの好きにして。今日はもう帰る。金は要らない。あと、こういうのはもうしない。じゃあ」
洋平!また幽霊に呼ばれた気がした。名前を呼ばれた実感が湧かない。じゃあ自分の名前は何だろう、と何気に思う。店の扉を開け、外に出る。夜は少しだけ冷える。原付を置いてある場所まで歩きながら、ただ頭が痛いと思った。そして、声が聞きたいと。
水戸はポケットから携帯を取り出し、時間を見た。二十二時を回った所だった。着信履歴から三井の名前を見付ける。今朝掛かってきたからそれはすぐに見付け出せた。通話ボタンを押して待つ。1コール、2コール、3コール。
「もしもし」
「俺」
「どうした?バイト終わった?」
「会いたい。今すぐ」
「は?何?」
返事を聞く前に通話を切った。そしてまた溜息を吐く。今日何度目だろうか。数え切れないことは確かだった。頭痛は治らない。水戸は原付に跨った。エンジンを掛け、走らせる。また風が身体中に当たり、少しだけ痛かった。もう少し厚手の上着を着てくれば良かったと後悔する。寒い上に頭痛、最悪だと水戸は思った。また海が見える。夜の暗い海は果てしない。際が分からない。飲み込まれそうだ。母親は海が好きだと言う。理由も知っている。それはまるで実感が湧かない。自分の名前と一緒だった。
原付を一度停めた。暫く海を眺めた。頭痛は今も尚続いている。煙草に火を点けた。肺の中に思い切り吸い込む。目の前には海があった。あまりに茫洋とし過ぎて、響く波音すら意味が分からなかった。自分はなぜここに居るのか、母親はなぜあの女なのか、そしてなぜ、三井に電話をしたのか。しかも会いたいなどと言ったのか。きっと三井は居ない。来ないことは分かっていたのになぜ。
電話なんかするんじゃなかった、後悔などしても意味がないのに、今日は無意味なことをしてしまう。帰ろう、煙草の火を消してもう一度原付に乗った。
暫く走って自宅アパートの駐輪場に着いた。いつもの場所に原付を停め、三階まで階段を登る。このアパートは野外灯が少ない。暗くて静かで、酷く物寂しい雰囲気を漂わせている。三階まで辿り着き、後は角まで歩くだけだった。水戸は俯いていた。今日は疲れた。異様に体が怠い。頭痛のせいだ、水戸は思った。
「おっせえ!」
「……!!」
その聞き慣れた声に、水戸は顔を上げた。三井だ。
「てんめぇ、自分から呼んどいて居ねえとはどういうこった」
「え、何で?」
「ふざけんな、お前が呼んだんだろうが」
水戸は三井に近付いた。会いたいと願った人が目の前に居る。ここに居る。三井の手首を掴み、ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。ドアを開けると同時に三井の手首を思い切り引っ張った。ドアを閉めて鍵を掛け、電気を点ける前にキスをした。噛み付くように唇に触れた。触れたなど優しいそれではなかった。噛み付くように、ではなく問答無用に噛んだ。いてーな、三井は声を出した。うるせえ、水戸はそう返して靴を脱いで押し倒した。
「ここですんの?」
「うるせえ黙ってろ」
三井は言われたように黙った。呆れたのかもしれない、頭の片隅に思ったが、水戸にとってそんなことはどうでも良かった。この人を抱きたい、それだけだった。唇を押し付けた。舌を捩じ込んだ。体を弄って、すぐに三井の中心に触れた。そこは緩く勃ち上がっていて、何度か扱くとすぐに硬くなる。濡れてくるとそれを指に絡み付けて後ろに入れた。朝のように優しくなどしなかった。三井は苦しそうに声を出した。いってえな、そう言った。でも水戸は知っている。三井は多少痛みを与えた方が興奮するのだ。痛みは逆に起爆剤になる。それをよく分かっていた。
多少慣らしてすぐに挿入した。動かした。二人の体のぶつかる音と、声と、水音が玄関に響く。それはどうしようもなく扇情的だった。
その場でもう一度交わり、その後ベッドに移動した。そこでもう一度セックスをした。すると三井が、さすがにもう無理、と降参する。水戸は不満ではあったが、明日の部活のことを考えれば仕方ないかと納得した。いつの間にか頭痛は治まっていて、自分は意外と現金だと思う。
「お前、自分のことは聞かれたら話すんだっけ?」
「んー、まあ」
ベッドで三井を抱き締めたまま、水戸は曖昧に返答した。彼は水戸の下に居る状態だった。
「今日さぁ、バイト何かあったんじゃねーの?」
「何で?」
「朝から変だったろ?バイトあるって言った時」
その言葉に、水戸は目を開いた。何で分かった?と思ったからだ。もう一度、何で?と聞くと、三井は、んー?と少し考えている様子だった。
「お前の無表情の変化、段々分かってきたかも」
得意気に話す三井を見て、水戸は思わず笑った。何でこうも、この人は全部飛び越えていけるんだろう。
「今日のバイト先、母親の店だった」
次は三井が黙った。またこの人は、思った通りの顔をする。
「何か勘違いしてるかもしんねえけど、俺別に母親と不仲な訳じゃないよ?」
「あ、そう」
次は少し安堵した顔を見せた。本当にころころと表情が変わる。
「何つーか、一緒に居ねえから違和感っつーか、正直よく分かんねえんだよ」
「ふーん」
これは本当だった。というより嘘を吐いても無駄だと気付いた。
「三井さんさぁ……」
「何だよ」
アホらしい、と朝は思った。この人が呼んだ所で何も変わらないと思っていた。
「俺の名前知ってる?」
「は?水戸洋平だろ?」
「ちょっと下の名前呼んでみて」
「洋平?」
三井は、訳が分からない、といった様子だった。それでも水戸は、ああそうか、と思う。何かが落ちてくる、そう思った。
母親が一度だけ、水戸に名前の由来を説明したことがあった。それはここに越してきたばかりの頃で、なぜ海の側が良かったのか理由を話した時だった。
あんたを出産した時は夜中で本当に辛くて辛くてでも産んでも全然寝れなくて一晩中寝れなくて朝になって外見たら朝焼けが凄く綺麗で起き上がったら海が見えて真っ平らで地平線みたいにとにかく平らで本当に綺麗だった。
だから洋平にしたんだよ。その時思い付いたんだよ。だから海の側に住みたかった。
母親は煙草を吸いながらそう言った。水戸は母親がしてくれたことをほとんど覚えていなかった。でも何故かその言葉だけは全て覚えていた。自分にも多分、母親が全てだった時間があった。それは母親にもきっとあったのだろう。自分だけを思う瞬間が、名前を決めた時と同じように。
「もう一回」
「は?何かの罰ゲームかよ」
「良いから、もう一回」
「洋平」
何かの呼称じゃなくなる瞬間、それを水戸は全身で感じ取る。今までこの衝動が何なのか分からなかった。むず痒くて説明出来ない感情に、三井を苦手で億劫だと感じることもしょっちゅうだった。そして異常なほどに欲しくなる欲求も、壊したくなる衝動も、それが暴力に結び付きそうで自分が怖くて恐ろしくて堪らなかった。それがこんなにも簡単な形で、言葉で、収まるとは思ってもいなかった。
「三井さん」
「何だよ、罰ゲーム終わり?」
「好きだよ」
おっせえんだよ!そう言って顔を寄せて口付けてくる三井を見て、水戸は思う。
この衝動が、どうか愛情でありますように、と。





終わり
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