短編

□青い衝動
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頭痛え。朝目覚めて一番に思った。水戸は起き上がることすら億劫に感じた。しかし一度目が覚めるとどうしても煙草が吸いたくなる。もはや中毒だ。ゆっくりと体を起こすが、それも緩慢だった。おそらく寝癖がついているだろう頭髪を掻き、欠伸を一つ。リビングまで歩き、テーブルに置いていた煙草とライターと灰皿、それを持って窓を開ける。ベランダに出ると、少しだけ空気がひんやりしていた。夏の暑さが消えた風が頬を撫でると、痛みを感じていた頭が軽く和らいだ気がする。水戸は唇に煙草を咥え、それを遊ぶように上下に動かした。
頭痛の原因は分かっていた。昨夜母親から電話があったからだった。彼女から連絡があった翌朝は大概頭痛に悩まされる。それが例えどのような話であろうとも。内容は簡単だった。店のバイトが足りないから手伝って欲しい、あとハエ退治も、と。バイトの不足は多分、ハエが原因なのだろう、水戸は母親の声の調子から感じ取った。母親はここから原付で三十分分程度離れた場所で、小さなスナックを経営していた。そこそこ繁盛していると、大楠の父親から聞いたことがある。母親から聞いたことはない。彼女の声を聞いたのは、約二ヶ月振りだった。相変わらず色濃い声をしていた。あいつは母親じゃなくて女だ、あの声を聞く度水戸は思う。
そこでようやく、水戸は煙草に火を付ける。咥えたまま忘れていた。母親の声を聞いたせいだと、珍しく人のせいにし苛ついた。この部屋からは海が見える。築15年の市営アパートだ。収入や現状に応じて家賃が違うから、他所のアパートより格段に安い。その上海が見えるから、と母親が選んだ。海が見える場所が第一条件だったそうだ。理由も聞いた。それは水戸が中学生になった時だった。だがその一ヶ月後、母親は見知らぬ男の元へ行った。祖母が謝った。洋平ごめんね、と何度も言った。祖母のことは好きだった。母親からは一切聞くことのなかった礼儀や作法を習った。女は十六で水戸を産んだのだ。それを教えられるほど聡明でもなければ、自ら学習しようなどと考えるほど謙虚でもなかった。ガキがガキを産んでどうする、水戸は常々思う。
家賃と光熱費と学費は母親が払っていた。それは彼女が考える母親としての最高のラインなのだろうと水戸は思う。母親は時折ふらりと現れる。男と切れるとやってくる。それは幽霊のように見えた。幽霊に、洋平、と呼ばれても実感が湧かなかった。ただ物体の呼称のような気がしてならなかった。そしてまた、男が出来ると出て行く。それの繰り返しだった。
どこかで携帯の着信音が鳴った。どこに置いたか思い出せなかった。物にあまり執着しない水戸は、携帯も要らないと考えていたのだが、バイトには役立つだろうと購入した。しかしそれは、常に自分が監視されているようで、やはり必要なかったかもしれない、と思わせるには十分だった。咥え煙草のまま窓を開け、ベランダからリビングに入る。携帯はテーブルに置いてあった。それを手に取ると、画面には三井とある。一つ息を吐いて、それに出た。
「はい」
「起きてたか?」
「起きてる」
「遅刻すんなよ」
「はいはい、じゃあね」
三井は気分で朝電話を掛けて来る。一度何でか聞いたことがあるが、モーニングコールだよ嬉しいだろ?と自信満々に返されたのだった。その訳もない自信はどこから来るのか、あの人の幼さに笑った覚えがあった。水戸は時々、三井が酷く苦手になる。億劫になる。自分の意思で選んだものの、未だにこの感情が何者なのか、名前が付けられないからだった。あの人は、とても我儘だった。そして狡くもあった。何故か自分を好いていて、それが可愛くもあった。何で俺を好きなんだろう。何度も繰り返し思う。水戸は灰皿がベランダに置いてあるのを思い出し、もう一度窓を開けてそこに出た。灰皿に煙草を押し付け、もう一本取り出し火を付ける。いつの間にか頭痛は治まっていた。三井と話した後は大概、体が少しだけ軽くなることを、水戸は知っていた。
その後湯を沸かしてコーヒーを飲み、パンを焼いて食べた。目の前を過ぎるように流れるテレビに、今日は金曜日だと知った。だから母親は連絡してきたのかもしれない。理由は明日が学校が休みで使いやすいから。つくづく自分の都合だと、水戸はまた呆れる。適当に食事を流し込み、また一服する。それが終わると洗面所へ向かう。顔を洗って歯を磨く。制服に着替えてからもう一度洗面所へ行き、髪を固める。寝室へ戻り薄っぺらい鞄を持つと、玄関で靴を履く。目の前の扉を開けて外へ出ると、起床後にベランダで感じた風より少しだけ温度が上がっているように思う。まだ日中は暑い日が多い。温い風が体を撫でる。一瞬潮の香りを感じた気がするけれど、勘違いかもしれない。鍵を取り出し施錠する。
海は嫌いだ。水戸は何気なく思いながら、駐輪場に向かう。停めてある原付に跨り、エンジンを掛けた。この音は水戸を現実に引き戻す一つだった。これで学校に行くからだ。強い風が体に当たる。耳に雑音が走る。海が隣に見える。嫌いだ、もう一度そう思う。
授業に出る気にはなれず、そのまま屋上に上がった。自分の定位置に向かうと、見慣れた先客が居る。
「サボってんなよ、先輩」
「……!!」
頭を軽く小突くと、体をびくりと震わせて目を開けた。大方朝練で疲れて寝ていたといった所だろう。
「……お前かよ。あー、びっくりした」
「モーニングコールした人が寝てるってどうなの」
「朝練キツかったんだよ」
この人はすぐ寝るのだ。一緒にベッドに入っている時も、多分五分とかからず寝ると思う。
「あんた単位大丈夫なの?推薦狙ってんでしょ?」
「その辺は上手く調整してんの。体育だし」
「体育なんてすげー張り切りそうなイメージなんだけど。無駄にホームラン予告とかしそう」
絶対そうだ、そう思ったら笑えた。想像で笑うなんてどうかしている、と俯瞰した自分が居ながら。
「無駄じゃねえよ、打つんだよマジで」
「どうだか」
「つーか、朝練まで最近キツくてさあ宮城のやろー。これで一限体育とか殺す気か」
文句を言いながらも、バスケットの話をしている三井は楽しそうだ。常にそうなのだ。バスケットのことになると、子供のような表情に変わる。それを水戸は時々、壊したくなって仕方なくなる。また奪い取って、閉じ込めてしまいたくなる。そこでまた考えるのだ。俺とこの人が一緒に居た所で生産性も何もない、と。側に居る理由が見つからない。どこを探しても、居ない。
「水戸?どうした?」
三井が覗き込む。いつの間にか俯いていたらしい。目の前の瞳が、何度か瞬きする。この人は俺の名前知ってんのかな、と的外れなことを考えた。幽霊みたいにこの名を、呼ぶのだろうか。不意に、洋平、と呼ぶ母親を思い出した。
「三井さんさぁ……」
「何だよ」
アホらし、そう思った。
「いや、今日家来るつもりだった?」
話を切り替える。三井は金曜日に来ることが多かった。大体土曜日は、午後から部活だからだ。
「そのつもりだった」
「わり、今日居ない。バイト入った」
三井は水戸を見ていた。彼はじっと見透かすように水戸を見詰める時がある。その目の理由が水戸には、よく分からない。
「じゃあいいよ」
そして逸らされる。拗ねただけ?とは思ったが、何かが違う気がした。だから触れてみた。そうするとまた三井は水戸を見る。目の色が変わる。この人は本当に分かりやすい。いちいち目で表情を見せてくる。ころころ変わる。顔に触れた。三井の髪を風が揺らす。屋上の風は涼しい。今度は髪に触れた。柔らかかった。水戸とは違い、少しだけ茶色い。もともと色素が薄いのかもしれない。耳に触れると反応する。分かりやすい、とまた思う。この人は、セックスに対して本当に積極的だと思う。快感そのものが好きなのか、ただ俺が好きなのか、よく分からなくなる。でも、分かりやすい人間は嫌いじゃない。
また顔を撫でて口付けた。三井はすぐに応える。唇を薄く開けて、水戸の舌が入りやすいように仕向ける。途中水音が聞こえて、三井の息遣いが耳に届いた。こうなると欲しくなる。ただ欲しくなる。彼を壊しそうになるのを必死で抑える。自分が怖くなる。求め過ぎてしまいそうで恐い。水戸は、ただ暴力行為をしたくて三井を求めているのではないかと恐る。誰に対してでもない、自分に。
「終わり」
だから笑って見せる。これ以上は無理、と言う。明らかに不満気な三井を他所に、水戸は煙草に火を点けた。どうにか自分を抑えようと。
「つまんねーの」
「あんた寝に来たんじゃないの?一限終わったら起こしてやるから寝てなよ」
「目が冴えたっつーの」
煙草を吸う。一口、二口、もうやめた。
「じゃあ、してやろっか」
「は?」
「してやるよ。ベルト外せ」
「ちょ、ちょ、やめろってマジで」
三井は水戸から距離を取った。見せたくないからだと思った。この人が躊躇するのは最初だけだ。水戸は思う。どうせヤり始めたら抵抗なんてしなくなる、と。両手首を右手で抑え、片手でベルトを外して制服のジッパーを下ろした。下着の中に手を入れると、水戸は思わず笑う。
「だと思った。三井さんってほんとやらしー」
「うるせえな!誰のせいだよ!」
「だから責任取ってやるっつってんの」
もう右手で三井の手首を拘束する必要は無くなった。すっかり抵抗しなくなったからだった。右手で緩く扱くと、もっと、と言った。この人の頭の螺子なんてどっか行ってんじゃねえの?と思った。小さく息を漏らすから、その口を塞いでやろうと水戸は自分の指を突っ込む。動かして舐めろと示す。三井の舌が動いた。その顔を見ると堪らなくなる。自分を求められているようで、時々泣きたくなる。子供のように泣いて縋りたくなる。これが何の衝動なのかは分からない。水戸自身にも。水戸は三井の口の中から自分の指を抜いた。躊躇なく後ろにそれを入れると、三井は喘いだ。さすがにまずいから水戸は自分の口で塞ぐ。彼の良い所など知り尽くしている水戸は、自然と指が動いた。柔らかくなっていく中は熱くて熱くて、指が喰われそうだと思った。三井は水戸の口を離し、もう無理、と言った。俺も無理、そう言ってから指を引き抜いて挿入した。散々動いた。また口を塞いだ。唇で塞いだ。舌を入れて動かした。それは蹂躙しているようだった。屋上は酷く静かで閑散としていて、二人の息遣いだけが聞こえる。馬鹿みたいだと水戸は思う。こんな場所で、しかも授業中に、何をやっているのだろう。動物みたいだ、と。




「……疲れた。マジでもう」
「体育サボった意味ねーな」
水戸は声を出して笑った。それから煙草に火を点けた。その時、一限目が終わるチャイムが鳴る。三井は一言、めんどくせー、と言った。
「誰も来なくて良かったね」
三井は黙って制服を直していた。
「多分もうすぐ大楠達来るかも」
「マジ?帰ろ」
「じゃあね」
「おー」
彼は立ち上がり、両腕を伸ばして柔軟する。そしてまた、めんどくせーなー、とぼやくように言った。ひらひらと手を振り、腰をぐるりと回して去って行く。それを見送っていると、屋上のドアが開く音がした。セーフ、心の中で水戸は呟いた。思った通り大楠達で、あれミッチー、と声を掛けている。何か話したのかそうでないのかは分からない。
「お、洋平居たの?」
「おう」
「ミッチー居た?」
「居たよ。寝てたっぽい」
「あの人大丈夫かね?もう一回三年してバスケやってんじゃねーの?」
ぎゃはは、と笑う三人を横目で見ながら水戸も笑う。そうなったら良いのに、なんて夢見がちなことを考えた自分はおかしいと気付く。
頭の螺子がどっか行ってんのは俺だ。水戸は空を仰いでそう思った。


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