短編

□欺く夏
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「三井さん」
「おう、居たのかよ」
「待ってるって言ったろ」
辺りを見渡すと、しっかり校門まで辿り着いていて、考え事をしながらも足は進んでいたことを知った。周囲は完全に静まり返っていて、人の気配はまるでない。時計を見ると20時半を回っている。さすがに部活でも残っている生徒は居ないらしい、閑散とした暗い空気が漂っていて、当たり前にも今は夜なのだと知る。生温い空気も心なしか柔くなったような、そうでないような。だけれど、一度汗をかいた体は湿気を帯びている気がする。何の気なしに首筋に触れると、やはりベタベタしていた。シャワーしてえなあ、と何気に思う。
「乗って」
「ん?」
放られたヘルメットを反射的に受け取ると、そこでようやく水戸が原付に乗っていたことを知った。投げられたヘルメットを頭に被り、言われたように後ろに乗ると、水戸は、ラーメンってどこ?と聞く。オレもさほど詳しくもなかったから、部員連中と時々行く場所を指定した。りょーかい、と水戸はまた淡々と言葉を発すると、エンジンを掛ける。そして走り出す。
体の真横から感じる風は疲れた体に心地良い。耳には原付のエンジン音と風の音が混ざり合って聞こえて、雑音でしかないのに全く不快ではない。思わず上がる声に、水戸が言う。
「なにー?」
「きもちーなって言っただけ」
少しだけ大きな声を出すと水戸は、ちゃんと捕まっててよ、と言った。その言葉に、シートに捕まっていた手を水戸の腰付近に移動させる。それが合図となってまた思い出す。キスをしたことを。しかも自分から舌を絡めたのだ。体育館で。何やってんだ、オレは。
程なくして、指定したラーメン屋に着いた。美味いの?と聞かれたので、チャーシューはやべえよ、と返した。じゃあそれにすっかな、と水戸の機嫌は悪くなさそうで、むしろ笑っていて、オレもさっきのことを忘れた振りをして笑う。空いている席に座ると、すぐに店員が水を持って来る。ついでに注文をしようと声を出した。
「チャーシュー麺大盛り。お前は?」
「俺もチャーシュー麺大盛り。あとは餃子2人前と唐揚げ、それから炒飯も大盛りで」
予想外の量に驚いた。ちょっと待っててね〜、と間延びした店員の声は素通りされていく。
「お前そんなに食うの?」
「だから腹減ってんだって」
「どこに入るんだよ」
「胃袋」
いや、そうだよ、そうなんだけど。まさかこの体でこんなに食うとは思わなかったのだ。いやしかし、だからあのパワーなのか、納得。
「三井さんが食わなすぎなんじゃない?だから体力ないんだよ」
「うるせー」
「バスケ部で来るって言ってたけど花道とは?来たことあんの?」
「一回だけな、もう二度と連れて来ねえよ」
心底げんなりしたように言うと、水戸はまた声を出して笑った。容易に想像出来たのだろう、水戸なんか目じゃないほど注文する桜木の姿が。しかもあいつは平然とたかるのだ、奢れと。
「お前こそ桜木と飯食いに行ったりすんじゃねえの?」
「俺らは外では食わねえかな、大体家で鍋とか適当に作る。外で食ったらシャレになんねえから」
「へ?つーか作るの?水戸が?」
「そう」
驚いた。そして漠然と食いたいと思った。
「今度オレにも食わせろ」
「良いよ」
口から勝手に出ていた言葉に、今度は自分自身に驚いた。その上水戸は、良いよ、と言う。いとも簡単にオレの言葉を受け入れたのだ。何で?と聞こうとした。だけれど、じゃあ言うな、と返される気がして呆気なく言葉を飲み込む。
他愛ない会話をしていると、注文した料理が並んでいく。また意外にも、きちんといただきます、と言うのだった。つられてオレも言うと、みるみる内に料理が平らげられていく。呆然としていると、食わないの?と聞かれた。食う、とだけ答え、オレは目の前のチャーシュー麺に箸を付けた。
この時間はあっさりと過ぎた。食事中は全く会話をしなくて、ただひたすら食べていた。店に居た時間はおよそ30分程度だった。水戸は、ごちそーさん、とまた意外にも手を合わせると伝票を持ち、レジへ行く。本当に奢ってくれたらしく、オレは財布を出すこともなく店を出た。
出てすぐに、ごちそーさんでした、と言うと水戸は口端を上げて笑う。それから原付に寄り掛かり、一本良い?と煙草を見せた。ああ、とだけ返すと、煙草を一本取り出して口に咥え、ライターを付けた。フィルターを火に近付けると、小さく音が鳴った。火が付く音だった。水戸は何も言わなかった。ただ、こちらに煙が来ないように、顔を逸らして紫煙を燻らす。その一連の流れが、オレを捉えて離さない。辺りは未だに騒がしかった。サラリーマンの声、大学生と思わしき連中、それから車の音。全てが交錯してうるさい筈なのに、それらの音全てが遠くに聞こえる。
時折車のライトが水戸を照らし、その度に眉を顰める。煙草の先、赤い種火が緩く燃えていて、水戸の口に吸われる度に、ジジと小さな音がした。その音だけが何故か明確に聞こえて妙だと思った。
また胸の奥の方が痒くなる。いい加減目を離せば良いのに視線は逸らせなくて、くらりと揺れた。揺れる。こいつを前にすると、オレは揺れる気がする。
「何見てんだよ」
出た真性の不良が。その声は確実に怪訝さを含んでいて、眉間に皺まで寄せている。因縁を付けられていると間違われてもおかしくない。
「別に。そんなに美味いもんかと思っただけだよ」
顎で煙草を示して言うと水戸はただ、ああ、と言った。
「吸う?」
「吸わねーよ。つーか普通勧めるか?」
「いや、久しぶりに吸いたくなったのかなって」
「言っとくけどな、一回もしなかった。煙草だけは」
「へえ、凄いじゃん」
やっぱスポーツマンだ、あんた。水戸は小さく言って少しだけ俯く。すると携帯灰皿を学ランから取り出して押し付けた。
「あんたはバスケに戻って正解だったね」
また視線がかち合った。一、二、三、数えるのも覚束なくなるほど、あの目がオレを見ていた。
「あの、さぁ……」
沈黙に耐えられなくなり、声を出す。何であの時、そう言おうと思ったけれど、声は出ない。先に言ったのは水戸だった。
「ああ、キス?だからあんたがボーッとしてたからだって」
「答えになってねえよ」
「じゃあそっちは?何であんなヘタクソなやつしたの?」
「へ、ヘタクソって言うな!」
はは、と声を出して笑う水戸を見て、どうしてか嘘を吐けないと思った。水戸はまた煙草を一本取り出し、火を付ける。オレが何かを言うのを待っている。自惚れでもそんな気がして仕方なかった。
「お前が、見ないからだよ」
「は?」
「オレを見ねえからだよ、文句あるか」
煙草を吸うのを忘れて眉を顰め、目を開いてオレを見る水戸は、初めて見せる表情だった。驚いているのか、それとも訳が分からないと思っているのか、はたまた怒っているのか、どれかは掴めない。
「見てるよ」
「え?」
「見てた。知らなかった?」
知らねえよ言えよ、その言葉は言えなかった。また沈黙が走る。オレ達の隣を、酔っ払い連中が横切る。何を喋っているかは分からなかったけれど、呂律が回っていなかったことは確かだった。水戸が横目で追う。それからまた、煙草に口を付けた。何度か吸って、また携帯灰皿にそれを押し付けて火を消した。その一連の作業を見て、オレは何を思うのか。一つしかない。
「帰る?」
「ああ、そうだな」
「送ろうか?」
「いや、駅すぐそこだしいいよ」
「そう」
水戸が原付にエンジンを掛ける。乗せる程度にヘルメットを被り、じゃあまた、とオレに言った。おう、と返し手を上げる。
「三井さん」
「ん?」
「また見に行く。あんたのフォーム、綺麗で好きなんだよ」
じゃあ、そう言うと原付がオレを横切り、今度は本当に居なくなる。見えなくなる。走り去るのを見送ってから、オレも駅までの道のりを歩いた。ざっと見積もって5分弱、大したことはない距離だ。
「あ、」
結局水戸は、誰が居るのかと思って体育館まで来たのだろう。聞くのをすっかり忘れていた。まあ良いや、そう思った。また会えるからだ。会った時に聞けば良い。
歩きながらまた、水戸の煙草を吸う仕草を思い出す。一連の流れを頭の中でもう一度再生する。煙草を取り出す。口に咥える。火を付ける。何度か吸う間に眉間に皺を寄せる。やはり思うことは一つしかなかった。
綺麗なのはお前だよバーカ。
未だに生温い風が頬を撫でるけれど、足取りは軽かった。




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