短編

□欺く夏
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ボールが指先を滑る。弧を描く。リングに吸い込まれる。オレはそれを、一部始終見ている。落ちたボールは体育館の床とぶつかり、その音はリズム良く響く。ボールを拾うとオレはまた打つ。何度も打つ。同じ動作を繰り返し、音を聞く。ぱす、というボールとゴールネットの革紐が擦れた乾いた音を聞くと、何とも言えない気分になる。高揚とも安堵とも違う、何か。いや、もしかしたら両方なのかもしれない。よく分からない。でもオレは、ひたすらに無心で打っていた。
そうだ、無心だ。この音だけが今、オレを無心に導いてくれている。
インターハイが終わり、引退しなかったのはオレだけだった。理由は簡単だ。もっとバスケがしたかったから、それだけ。赤木と小暮が居ないのは未だに慣れないし、練習にも違和感を感じる。けれどそれは当たり前だった。高校入学から今まで、主のように居た二人が急に居なくなったのだから。
桜木のリハビリは順調だと聞く。選抜までには間に合うだろうか、赤木が居ない今、桜木まで抜けるのは厳しい。それに怪我で休み続けるのは本人も辛いだろう、他人事とは思えないほどよく分かる。目の上のタンコブ、うるせえバカヤロウ。
その時、がつん、という不協和音のような大きな音が体育館に響いた。ボールがリングに当たったのだ。そこでオレの集中力は切れる。気が付いたら肩で息をしていた。辺りを見渡すとタンコブ扱いしていた後輩も居らず、一人になっていた。声掛けろよ、とは思ったが、もしかしたら掛けられたのかもしれない。どれくらい打っていたかもよく分からなかった。
溢れる汗を、着ていたTシャツで拭った。インターハイが終わり、二学期が始まったとはいえ、未だに暑さは変わらない。夏の終わりの体育館は蒸し風呂のようなものだ。それは今の時間でも。ボールの音がしない体育館は、酷く静かだ。そして、だだっ広い気がした。誰も居ない。ただ一人、オレだけを残している。
一つ息を吐いた。そろそろ終わろうか、と思いボールを拾う。その時、体育館の扉に人影を見付ける。入り口に凭れていたそれは、無表情でこちらを見ている。そいつをオレは、よく知っていた。
「……水戸?」
「こんばんは」
よく知っている、と言っても二人で話したことは一度しかなかった。襲撃事件の件を詫びた時、その一度きりだ。あとは桜木と一緒に居た時に一言二言程度、それが数回、会話をしたのはそれだけだった。
オレが知っているのは、言葉じゃない。そんな生易しい物は知らない。目と手、よく知っているのはそれだった。あの重い拳と何者にも染まらない冷たい獣のような瞳、その二つはよく知っていた。思い出すと未だに体の芯が震える気がする。それは恐怖によるものなのか果たしてそれ以外の何かか、自分にもよく分からない。
数メートル離れた先に居る今の水戸は、今は少しだけ笑っているように見えた。少なくとも無表情ではない。目を凝らすと、あれ?と思う。
「今日はもう終わり?」
「……ああ、うん、さすがに疲れたかな」
「ふーん」
「お前はどうした?何かあったか?」
どこかに違和感を感じたのも束の間、水戸が話し掛けてきた。だから返した。こうして普通に会話するのは初めてだったが、気まずくはなかったと思う。水戸の方はよく分からない。何かあったか、という問いにも目線を外して、んー?と答えるだけだった。
それから少しして、
「居るかな、と思って」
と言った。誰が?と聞こうかと思ったが、オレも、ふーんと返しただけだった。
体育館の入り口近くに、オレはタオルを置いていた。取りに行こうと歩き出す。水戸はまだ居た。動こうとはしなかった。自然と水戸に近付く形になった。そこで感じていた違和感にようやく気付いたのだった。
「お前、怪我してんじゃねーか」
水戸は少しだけ顔が赤かった。唇が切れたのか、血も着いている。目線を下げると、手には殴った後の痣のようなものが残っていて、そこからも血が滲んでいる。
「怪我のうちに入んないよ」
「……」
オレは眉を顰めた。何故だか分からないけれど、妙に苛ついた。水戸はオレから目を逸らしている。また無表情に戻っていた。水戸が考えていることはよく分からない。それは、桜木と居た時に交わした数少ない会話をした時も感じたことだった。彼はオレと目を合わせようとはしないのだ。ただの一度も、見ようとしない。例の件を詫びた時でさえ、一度もオレを見なかった。見ようともしなかった。
苛ついた。でも何に対して?分からない。あ、と思った。一つだけ分かることがある。どちらの物か分からないこの血を、オレは見たくないのだと何気なく思った。
「水戸、ちょっと」
「……何?」
ちょっと来い、そう言って手招きすると、意外なことに素直に付いてきた。水戸は革靴を脱いで、体育館に上がる。待ってろよ、というと、水戸は何も言わず体育館に胡座をかいた。オレは急いで部室に戻り、救急箱を取る。相変わらず雑多な部室だと横目に感じながら、早々にその場を去った。体育館に戻ると、水戸はやはり胡座をかいていた。少しだけホッとして、水戸の前に座る。さっきから一分程度しか経っていないのだから当たり前なのかもしれないけれど、居なくなっていなくて安堵する。何故かオレは、水戸が一瞬で何処かへ消えてしまう気配を孕んでいる気がした。
「何する気?」
「何って消毒だよ」
「げ、マジ勘弁してよ」
水戸は心底鬱陶しそうな顔をして、思い切り眉を顰めた。それが年相応に見えて、少しだけ笑える。ふっと息を吐いて笑うと、何笑ってんの?と言われた。別に、と返せば、次は黙る。水戸は、嫌がりはしたけれどオレの手を払いのけることはなかった。続けても良いのだろう、と勝手に決め付けて、救急箱から消毒液とガーゼを取り出す。
水戸はどこか、大人びた雰囲気を持っていた。というよりも冷めたような誰も映さないような、あの時の冷めた黒い瞳が脳を過ぎる。決して表情豊かなタイプではなかった。オレを殴っていた時も、どこを見ているのか何を感じているのか、全く分からなかった。もしかしたら何も感じないのかもしれない、人を殴ることに対して。
「喧嘩か?」
「まあ、そんなとこ」
消毒液をガーゼに付け、それを水戸の口に当てる。染みるか、と思ったが、彼は顔を歪めるどころか動かすことすらしない。痛くないのかな、と素朴な疑問を感じた。
「自分から吹っかけんの?」
「まさか、そんな面倒臭いことしないよ」
目を合わさず嘲るように言う水戸を見て、胸の奥がちりちりと熱くなる。熱い、というより痒い、そんな感じだった。
何か変なの、上手く言えねえなぁ。分からないように首を捻り、そう思う。
「じゃあ、何で喧嘩すんの?」
「さあ、ヒマなんじゃない?」
あっそー、小さく言った。すると水戸は、あんたもしてたでしょ?ついこの間まで、と俯き笑う。まただ、また何か痒い。奥の奥がちりちり痒い気がして、どうにもこうにも具合が悪い。だからそれに気付かれないように、放り出すみたいに、うるせー口終わり、と言った。また水戸は黙っている。次は手だ。水戸の手に触れた。小柄だと思っていたけれど、酷く頑丈な手だった。そりゃ痛いわ、と心の中で独りごちる。指の節々に小さな痣がたくさんあった。これが人を殴る手なのかと、そう思った。
また消毒液を付けたガーゼを付ける。とんとん、と軽く叩くように付ける。やはり水戸は、ぴくりとも動かなかった。混じり合った血も拭いて、もう一度消毒した。拭いても拭いても、水戸の手が頑丈な事は変わらなかった。
それでもこの手に、オレが助けられたことに変わりはない。
「お前の手は何?」
「は?」
「人を助ける為の手?それとも殴る為?」
「何それ、どうでも良いよ。三井さん変なこと言うね」
「だよなぁ」
我ながら可笑しなことを言ったな、と笑った。それでもオレは、この手から目が離せなかった。体育館は静まり返っていて、何の音も聞こえない。ボールの音も、バッシュが擦れる音も、何も。
一人しか居なかったここには今、水戸が居て、しかも目の前に居る。それでも相変わらず目を合わせなくて、側に居るのか居ないのか、むしろ遠くに居るような錯覚さえ覚えた。音が遮断された箱の中に、一人で居るのか二人で居るのかもよく分からない。でも目の前に見える水戸の手は現実だった。ここは酷く蒸し暑い。汗は拭いた筈なのに、首筋に滲んでいる気がする。
その時だった。目の前が一瞬眩んで唇に何か触れた。それが柔らかいのは分かったけれど、すぐに離れたから何が起きたのか全く分からなかった。水戸の手から目を離し、顔を上げる。目の前には、今まで目も合わなかった水戸の顔が至近距離にある。有り得ない程近いのだ。僅か2センチ程度の隙間だけを開けて、水戸が居たのだ。視線が初めてかち合い、驚くというより戸惑った。無音だったこの場所に、何かが走る。
「は?!え?!何?!」
「あんまりボーッとしてるからだろ」
「お前さっき何した?!」
「ああ、キス」
「きっ?!はぁ?!」
三井さん驚きすぎ、水戸はそう言って屈託無く笑ったが、誰でも驚くだろう。しかも、お前昼何する?ああカツ丼、みたいな流れで言われても困る。急に顔が火照った。何で?そう聞きたかったのに言葉が出ないのだ。目の前に居る水戸は、腹を抱えて笑っている。その姿に怒りも湧いたがそれ以上に、それ以上に初めて見る笑顔と笑い声に、そんな事はどうでも良くなっている自分が居た。オレは嫌悪を抱かれているのだと思っていた、水戸に。あんな事をして停学させて、謝った所で顔すら見て貰えない。喋った所で目も合わない。見ない。だからそう確信していたのだ。
これならまだ、殴られていた時の方がまだマシだと、そう思っていた。
いや、違う。そうじゃない。何か得体の知れない感情が落ちてくる。それは体の中にすっぽりと収まる。
どうでも良いじゃない、どうしようもないんだ。オレは水戸に見て欲しかった。ただ見て欲しいと、それだけだった。
「あー、笑った」
水戸は言った。また見なくなった。目を背けて、どこを見ているのか分からない。
オレのせいで停学にさせて悪かった。そう言った時も、いーっすよ、別に、とだけ言って見ない。バスケ頑張ってね、と他人事のように言って、見ない。見ろよ。その時からずっと、思っていたのだ。
「ショードク終わった?」
見ろって。こっち見ろって。
「腹減らない?奢るよ、ショードクのお礼」
嫌だ、と思う。終わってしまう、と。ついさっき、ほんの数秒だけだったけれど音が鳴るくらい視線がかち合っていた。それがいとも簡単に離れていく。何もなかったように淡々と。
何してた?目が合った時、何してたっけ?
「……メン」
「何?」
「ラーメン食わせろ」
りょーかい、そう言ってから立ち上がろうとする水戸の、学ランの襟をオレは自然と掴んでいた。行くな、ただそれだけしかなくて、思い切り引っ張る。何してた?なんて、簡単な答え過ぎて笑える。バランスを崩した水戸がオレを見た。それを確認してから、その唇に自分の唇を思い切り押し付ける。
触れるだけなんて優しくする訳がなかった。口を抉じ開けて舌を入れた。貪るように角度を変えて何度も何度も、抉るように口付ける。水戸の体が動いた。小さく揺れた。ようやくだと思った。何をしても何の反応をしない水戸が、自分のキスで何かを感じている。思い知れ、そう思った。
「んー!んー!」
水戸がオレの体を緩く押した。何か言おうとしているのが分かったから、唇を離す。あーあ、また殴られるか。落胆というより諦めに近い感情が、体に過ぎった。
「三井さんストップ。いてーんだよ口ん中。切ってんだって」
優しくしようよ怪我人なんだから。呆れたように話す水戸は、苦笑してオレを見ている。見ているのだ、今。
「あ、わり……」
「ヘタクソ」
「ああ?!」
「早く行こうよ。腹減ってるって言ったろ?」
そう言って立ち上がると、水戸は体育館の入り口の方向に歩き出した。オレもつられて立ち上がったが、その場に立ち尽くす。着替えてきなよ、校門で待ってる、と短く言われて何か返事をした気がした。水戸が体育館から去ったのを確認してから、体育館入り口を施錠する。それから床に置いてあった救急箱を手に取り部室に向かった。歩きながら思う、何した?と。
何したオレ何した?何やってんのマジで。
すっかり引いた汗を一応タオルでもう一度拭いた。それから制服に着替えて鞄を持つ。それで何したオレ。流れ作業的に身支度を終わらせながら、頭の中にはそれしかなかった。校門で待ってる、水戸は確かそう言った。とにかくそこへ向かおうと、足を進める。
水戸はけろりとしていた。言ったことと言えば、いてーんだよ口ん中、それくらいだった。あと、ヘタクソ。やかましいわ、アホが。というより何も感じなかったのだろうか、蚊に刺された程度か一発殴られた程度か、やはりあいつの考えていることはよく分からない。でも確か、先に仕掛けてきたのは水戸の方だった。ボーッとしてるから、と言った。ボーッとしてたらキスってするもんなのか、よく分からない。


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