ふたりの知らない朝

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 田舎だ。
 降り立った空港もこぢんまりとしていて、ロビーまであっという間に着いてしまう。試合のたびに何度も来ているはずなのに、この日はなぜだか、はじめてこの土地におとずれた気分だった。仕事用の黒いキャリーケースをごろごろ鳴らして歩いていると、ロビーには瀬戸が立っていた。三井に気づき、一礼する。
「お待ちしてました」
「わざわざ迎えに来ていただいてすみません」
 三井も彼に会釈する。瀬戸は頭を上げ、「いえいえ」とまるで少年のような爽やかさで手を左右に振った。
「さっそく行きましょうか」
 と続け、三井を誘導するように足を進める。ふだんは空港から専用バスでの移動だが、きょうは仕事とはいえプライベートの視察のようなものなので、そんなぜいたくなものは用意されていない。最初はレンタカーを借りるつもりでいたが、「レンタカー?」と水戸に顔をしかめられてやめた。結局、瀬戸の運転で練習用体育館に向かうことになった。三井は水戸といると、ペーパードライバーに拍車がかかる。
「三井さん、どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 上の空でも、ちゃんと瀬戸に着いて歩いていたらしい。駐車場で彼に促されるまま車のトランクに荷物を入れ、三井は助手席に乗った。
「選手たちも、きょうを楽しみにしてたんですよ」
「いえ、こちらこそ急な申し入れを受け入れてくださってありがとうございます」
「そんな恐縮されたら逆に困っちゃいますよ。こちらとしては一歩も二歩も前進した気分なのに」
 リラックスしてくださいね。と瀬戸はからりと笑んだ。湿度のない笑顔に裏表はうかがえず、そのてらいのなさが逆に三井の心境をまごつかせた。彼に気づかれないように息を吐き、シートに座り直す振りで、妙に後ろめたい心持ちを落ち着かせる。ふだん乗ることが多い水戸の車とはまったくちがう、おそらく社用車の乗り心地は、走行音も静かで穏やかだった。水戸の車はもっと、オフロードカーのように体に直接響く振動があった。
「このまま練習用の体育館に向かっていいですか? それともホテルにチェックインだけ済ませておきます?」
「そうですね、まずは練習が見たいかな。チェックインはそのあとでも」
 目線を持ち上げ、数秒考えるしぐさをするが、ただの振りのようなものだった。先日の打診があったのち、三井は自分から瀬戸に連絡を取った。なんの偏見やこだわりなく、商業的な目で選手たちのプレイを見てみたかったからだ。彼は快く受け入れ、むしろ視察を歓迎した。すると、ふだん三井が遠征時に使うホテルの予約や、航空チケットの予約まで取り計られる。手厚い待遇に驚きつつ、期待されているという重みが、一気に両肩にのしかかった。
 車は国道九号線を、真っ直ぐ進んでいく。道路の向こうには、山と、住宅と、真っ青な空がおおきく広がっていた。青の色が、太平洋側より澄んで見えるのは気のせいだろうか。水戸に似合いそうな、涼やかな天色だった。
 ――水戸、オレ来週から出張行ってくるわ。
 水戸に告げたのは、先週半ばのことだ。夕食と入浴を終え、ふたりでソファに腰を落ち着けたときだった。
 ――出張? どこに?
 え、と一瞬言葉に詰まった。この男はなにも問わないだろうと決めつけていたし、晩酌していた最中に持ちかけたからなおさら油断していた。水戸はぼんやりテレビを眺めていたはずで(興味があるのかも知らない)、三井はバスケ雑誌を読みながら単純な話題のひとつとして声音も変えずにだったので、正直驚いた。
 いつもこの時間帯は、たいがい好き勝手に過ごす。有意義とも無意義とも取れない、ただ隣にいるだけの時間だった。
「なに? どした」
 水戸は首を傾げた。どうしてこんなときにかぎって、追求してくるのだろう。
「いや、ふだんおまえ聞いてこねえじゃん。こっちがどした? だろ」
「だってめずらしいじゃん、あんたオフだろ? どこ行くんかなって俺が聞くのおかしい?」
 喉に唾がつっかえる。無理やり飲み込もうとすると息苦しい。ローテーブルに置いていた缶に手を伸ばす。汗をかいたそれは、中身がぬるまっていることを報せた。
「……T県。視察、みたいな」
 感じ、と最後のほうは、まるでしかたなしに行くような口調になった。ビールを口に含む。思った通り多少ぬるくなっていて、苦味が強い。
「へえ、遠いね」
「え?」
 ふたたび同じ言葉を口にしてしまう。今度は喉がふさがった尋ねかたではなく、はっきりと水戸の問いかけに対して疑問符を投げかけていた。
「さっきからなんだよ、あんたどうした」
「遠い?」
「遠いだろ、ふつうに」
 水戸の淡々とした口振りに、その距離を中途半端に実感してしまう。しっくりときていないのに、T県まで遠いことだけは脳内に植えつけられたような。飛行機で一時間、車でおそらく半日、新幹線なら電車を何度も乗り継いで行く距離。ただいま、とのんきにかまえられる場所じゃない。
 ただいま、おかえり、おやすみ。
 おはよう。
 これらが言い合えなくなる。
「あんたひとりで行くの?」
 ひとり、ひとりでだ。三井はひとりで旅立つことになる。
「じゃあさ、おまえも……、」
 一緒に来る?
 と勝手に尋ねていた。はっとして、口もとを覆う。ちらりと水戸を覗くと、奥二重の瞼がすこしだけおおきく開いていた。
「いや、無理でしょ。平日仕事だよ俺」
「だよな」
 一瞬だけぽつりと灯った期待はあっさり消火され、自嘲するように笑ってしまった。水戸には水戸の仕事があるし、彼がこの土地自体に愛着を持っているのは知っていた。三井が出すべき答えはおのずと決まっている。ドラゴンマジックに行くか、行かないか。ここを離れるか、離れないか。どちらにせよ、決断するときはいつだってひとりだった。
「飛行機? だよな。空港着いたらどうすんの? あのへんってどうなってんのか俺ぜんぜん知らねえや」
「あー、向こうのゼネラルマネージャーと合流することになってる。体育館までレンタカーでも借りっかな」
「レンタカー?」
 水戸があからさまに眉根を寄せながら三井を見るので驚いた。なんだよ、と半分睨めつけながら問う。
「あんたペーパーじゃなかったっけ? レンタカーで事故ったら洒落になんねえからやめときな」
「んな大袈裟な」
 過剰な妄想すぎて反論する気にもならずけらけら笑うと、またぎろりと睨まれる。
「土地勘ねえとこだろ」
「おまえよりあるわ」
「そんな話してんじゃない。車は凶器みたいなもんだってちゃんと覚えとけって言ってんの」
 整備士をしている男にそこまで言われると、こちらは言い返す余地もなくなる。
「そのゼネラルマネージャーさんとやらに空港まで迎えに来てもらうとかさ、できねえの?」
「できないことはねえ、けど……、たぶん」
「うん、じゃあそうしてください」
 水戸の言葉や伝えかたに、三井は、関わり、と浮かんだ。こういう台詞はきっと、以前の水戸なら発言しなかった。へえ、とか、そう。せいぜい、気をつけなよ、程度だったにちがいない。三井の意見を尊重している、と言えば聞こえはいいが、要は「あんたの好きにしなよ」。放置と同じだ。突き放したいのならまだ自覚があるが、水戸の場合はそうじゃない。自我と他人の関わりを、無意識に避ける。
 ひとはそう簡単に変わらないという。だとしたら、こういう水戸も、もとから水戸のなかに存在していたのかもしれない。もしくは、三井と一緒にいることで変わったのだろうか。だとしたら、嬉しい。
「ふふ、へへ、ふへへへへ……」
「うわ気持ちわる」
「おまえさ、」
「めずらし、流したか」
 水戸が手に持ったグラスが、からん、と音を立てた。焼酎をひと口飲むたび、透明の壁に氷がぶつかる。彼はソファに座ったまま、膝を立て、体の位置を変える。グレーのスウェットの裾から出た足の甲のかたちが、三井の位置からよく見えた。趾骨と中足骨がちょっと浮いて出ていて、踝も出っ張りがしっかりしている。体の骨自体に硬質な印象があって、実はそこも好きだったりする。
 触れたい、と思った。骨の奥まで触りたい。どうして生物は、触れるときに骨や内臓にまで直接指が届かないのだろう。このじれったさを払拭できないので、せめて水戸の肩に自分の肩をぐりぐり押しつけた。やっぱり、骨と骨はぶつからなかった。
「おまえ、オレがちがうやつの助手席に乗ってもいいわけ?」
「はあー? まーたセンパイど定番の自意識過剰嫉妬ネタっすか、あんたも飽きねえな」
 げえー、と水戸は舌を出した。はっきりと失礼が過ぎる。三井は自分の肩で水戸の肩を思い切りどつくと、いて、と駄菓子みたいな気安い声で彼はつぶやいた。
「あのね、三井さんのそういう、なんつーの? 仕事関係にいちいち文句つけねえっつの、何回言えばわかんの」
 こっちの身が持たねえよ。
 と、水戸は雑に頭をかく。最後の言葉に以前とかすかな誤差があって、三井は「え?」とつぶやいていた。驚く、ではなく、動揺、ともちがう。鮮度の高いものをとつぜん突きつけられたような、はっとした瞬間だった。
「とにかく安全第一。気をつけてね」
 いってらっしゃい。と、水戸は頬をやわらげて三井の頭をなでた。そのとき、片膝が三井の脇腹あたりにぶつかる。あ、するな、とわかった。水戸のスイッチが切り替わる瞬間の表情や、これからいやらしいことをしますよ、と示すようなしなやかなしぐさは、つき合いの長さからなんとなくわかる。だけど、彼だけが知る性欲のスイッチが入る一瞬の理由だけは、三井にはときどき理解できなかった。
 三井がきっかけなのか、あるいは水戸自身の事情でしかないのか、わざわざ聞くほどのものでもないので、触れてくる手に身を任せるしかなかった。
 だけど、何度セックスしたところで、三井の指が水戸の骨の傍に行き着くことは叶わないし、体の内側に侵入することは不可能だ。それがどうにも割に合わない気がしてしょうがない。この日もやっぱり、水戸の皮膚の内側にまで指先が入り込むことはなかったし、噛んだところで歯が貫通することはなかった。
 思いっきり噛みついたら、水戸はまた「いて」と言った。今度は駄菓子みたいに軽いものじゃなくて、ただの雄の、湿った鳴き声でしかなかった。

「三井さん、着きましたよ」
 瀬戸に促され、助手席から降りて外に出た。空港から国道に出て、高速道路に乗り、およそ三十分。隣県との境目の街にドラゴンマジックの練習場はあった。目立った駅もビルもなく、山と住宅と道路。それだけだった。ホーム会場のアリーナはまだ交通量も多く、ひとの往来もあるのに、ここはひどく閑散としている。ほのぼの、というより静かだ。地元とは、まったくちがう。
 ずいぶんと、遠くまで来てしまった。
「田舎でびっくりしました?」
 あたりを見渡していたとき、瀬戸がただの会話の一端のような、嫌味のない口調で言う。
「いや、じゃなくて」
 瀬戸は首を傾げた。
「なんかで読んだんですけど、自然豊かって、ほんとうはちがうんだそうです」
 彼はさらにわからないようすで、目をしばたかせる。
「ひとの手が勝手に、山や緑を壊してるだけで、都会って呼ばれる場所にも前はちゃんとあったんだって。ここは単に、壊れてないだけだ」
 水戸がもしも、この場所にいたら。
「なるほど」
「オレ、同居人がいるんですけど、そいつが今考えそうなことだなって」
 思ってました。
 と、つぶやいたとき、三井も同じように水戸を変えてしまったのだと確信してしまった。長い時間をかけて、幾度となく衝突し合って、奪って、壊して、均すのではなく、あれのなかに存在していたものを上書きした。よくも悪くも、個人がだれかの根本的なものまで変化させるのは、自分が変わるよりよほど難しい。
「同居人の方には、このことは伝えてますか?」
 三井は首を振った。瀬戸の言う「このこと」というのは、契約解除やドラゴンマジックへの移籍の打診だろう。瀬戸は、そうですか、と目を伏せるだけだった。
 遠いな、とただ思った。

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