ふたりの知らない朝

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 わざわざきっちりネクタイを締め、かたちを整え、寝室の姿見で確認する。「仕事」の意識だけは自分に色濃く残して、結局はずした。もともと、出かける直前にネクタイを締めるルーティンだった。これで朝っぱらから完全装備で寝室を出てみろ、水戸に怪しまれても厄介だ。
 だったらなぜ、ネクタイを締めたりしたのか。
 寝室を出ると、水戸が朝食の準備をしていた。リビングは縦に長くて、寝室の隣がキッチンのつくりになっている。食事ができると彼はいつもカウンターに置き、自分の持っていって、と三井に言う。ほんとうなら、この男はこんな新築じみた家など興味がないだろうに。
「なにぼーっとしてんの、あんたも仕事だろ」
 どきりとした。仕事、という単語に、無駄に焦りそうになる。
「うん、仕事」
「なら早く食べなよ。俺もう食ったから、あんた終わったら食洗機突っ込んで回しといて」
 よろしく、と水戸は告げてキッチンを出る。カウンターにはすでに、できた朝食が置かれてあった。三井はそれを手に取り、席についた。いただきます、と手を合わせ、箸をつける。いつも通り、塩加減が絶妙なベーコンエッグにパン。着替える前にパンは焼いておいたので、なんとなくあたたかくて、なんとなく冷めていた。
 水戸はおおきな窓を開け、リビングから外に出たようだ。この日はよく晴れていて、日光浴中の庭の植木や野菜の苗木はてらてら光っている。この時間、水戸は水やりをすることが多い。えらい熱心だな、と以前三井が声をかけたことがあった。水戸は、三井の言葉をまるで理解していないようなきょとんとした表情で答えた。「だって生きものだろ?」
 水戸が発する「生きもの」って、言語自体がなにかふしぎで、三井にはいつまで経っても理解できない節のひとつのように思った。そこがまた、遠い気がした。生きているから水を与えているということ? じゃあ、生きていればほしいものには欲が生まれるのはとうぜんということ?
 窓の向こうで、白い煙が筋になって揺れては消えた。水戸の背中を眺めながら、三井は朝食を摂る。
 しばらくして、窓が開いた。三井が食事を終え、食器をシンクに下げているところだった。水戸がキッチンに戻ってきて、コーヒーカップに口をつけた。まだ残っていたらしく、朝の終盤、と浮かんだ。不意に、きょうのネクタイの柄はあれでいいだろうか、と思った。
「水戸、オレきょうメシいらない」
「そう、わかった。あ、これもよろしく」
 水戸は飲み終えたコーヒーカップをシンクに下げ、洗面に消えた。彼が三井の行動の詳細を尋ねないのはいつもと同じだが、妙に後ろめたかった。信頼か、あるいは無関心か、三井の精神状態があまりよろしくないからか、彼の無関心がまたはじまったのではないかと訝しむ。よくない、とわかっているのに気鬱がはびこっていて身体中が重い。
 出勤時間がいつも同じ水戸は、このあと歯を磨いて家を出るだろう。三井はというと、午前中は引き継ぎ作業、午後から契約解除の発表の日取り、会見まではないにしろwebニュースには流れるだろうし、それ関連のインタビューを受ける可能性の高さを考慮した秘密保持契約の提携、この日のスケジュールを追っているだけで頭が痛かった。
 そのあとは、某お方との会食が待ちかまえている。
 ――三井ヘッドコーチ、はじめまして。私ドラゴンマジックのゼネラルマネージャーの瀬戸健太郎と申します。よろしければ、今度お時間いただけませんか? 私がそちらに伺いますので。
 先日、サンダースの事務所に電話があった。物腰は柔らかかったが、滑舌のよさから意志の強さがうかがえる、整った声だった。
 ドラゴンマジックといえば西地区の下位チームだ。しかし、B2からB1に昇格するスピードの早さ、ときどきこっちがぞっとするほどの勝負強さ、すべてが噛み合ったときの選手の底力も含め、サンダースも何度もゲームをしているが、下位にい続けるような弱いチームじゃない。そのゼネラルマネージャーがわざわざこっちに出向く、となると、話の内容は多少想像がついた。
 三井は食洗機に、すべての食器を入れ終える。専用の粉洗剤を流し、あとはぽちっとスイッチを押すだけ。楽になったなあ、と思った。
 水戸が支度を終え、ワークトップに置いていた自分の弁当を手に取った。「じゃあね」と言って三井の肩に手を置く。するりと通りすぎたとき、黒髪が揺れた。
「水戸、ちょっと待った」
 水戸が振り返る。この日はボーダーカットソーにデニムを着ていて、ボーダーってめずらしいなと思った。
「なに?」
「あー、のさ……」
「なんだよ」
 引き止めておいて、なにを伝えたらいいのかわからない。ここのところ会話をするのがひどく不自由で、だけど悟られないように明るい話だけをして、もうこれが自分から契約解除を伝えたいのかあるいは水戸に察してほしいのか、あっちから「なんかあった?」と尋ねてほしいのか、心が迷子になっている。
 水戸は、三井に関するさまざまなことを自分から口にしない。ああしろこうしろなんて生活面以外で指示しないし、なんかあった? と尋ねることなんて確実にしない。言葉にしない場合含め、てめえのことだろ、と他人と一線引く。知っていながら三井は、その気配だけは残そうとしている。
「いや、きょうなにつくるつもりだったんだろなって。そんだけ」
「べつに決めてない。つーか、なんかつくってほしかったの?」
 そうきたか、と三井は首を傾ぐ。
「あー……、じゃあ、からあげ」
「平日は無理だな、週末で」
 そんじゃ、行ってきます。水戸はそう言って、三井に背を向けた。すこしして、がらがら、と子うるさく玄関の引き戸が鳴る。わざと、ちょっと古めかしい感触を残す建設をしてもらっているからだった。
 なんでオレは、からあげをリクエストしたんだろう。今朝は、わからないことが多すぎる。

「はじめまして。ドラゴンマジックの瀬戸健太郎と申します。本日はわざわざご足労いただき、ありがとうございました」
 待ち合わせ場所のレストランで、先に来ていた彼はまず立ち上がって一礼する。約束は十九時のはずで、三井は十分前に到着した。彼はさらに、それよりも以前に来て待っていた。若く見えるが、おそらく瀬戸は三井より年上だ。その年下相手の男にここまで殊勝な対応となると、恐縮以前に確信してしまう。
「いえ、こちらこそお待たせしてすみません」
 差し出された名刺を受け取り、互いに席についた。こういう場での会食は、慣れてはいるが得意ではない。仕事となると最善の策を取るために口を使うので、料理の味もくそもなくなるからだ。まあ、まずいとは思わないけれど。
「今シーズンはお互いに残念でしたね」
 さっそく挨拶代わりの言葉を交わす。そうですね、と三井も返す。コース料理を頼んでいるとのことで、先にアルコールを注文した。かたちだけの乾杯を交わし、他愛ない話が進み、地蛤の炭火焼きやアスパラのローストに手をつけはじめたころ、瀬戸の瞼が起きた。あ、くるな、と思った。
 手はじめに仕事とはべつの歓談で場をなごませ(実際に不快な印象はまったくない)、好印象しか持たせない。そのタイミングで、すっと目が静謐な印象に変わる。彼が賢いひとなのだと、容易に想像がついた。
 ひとが決断するときの表情は、他人のほうが察しがつきやすい。
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