ふたりの知らない朝

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 電車に揺られながら三井は、的はずれにも今夜の夕食のことを考えていた。
 帰宅したら、おそらく水戸が食事をつくっている。メニューがなにかは知らないが、ふだん通り「了解しました」の返信があったということは、そうなのだと思う。今週は、さほど遅くならないと本人が言っていたので。
 この日の電車は混んでいて、シートに座れなかった。吊り革を持ち、体が勝手に振れるのをこらえる。いつもなら両足で踏ん張ることになんの感情も抱かないのに、きょうは革靴に当たる小指が痛いのがいちいち気にかかる。足の裏がだるい。座りてえー、と怠惰に息を吐いても、とうぜん席は空かない。
 鎌倉のふたりの家に、帰りづらいと思うのははじめてだった。発端が喧嘩ではなく、個人的な後ろめたさを理由に。
 ――三井ヘッドコーチには、今まで世話になったね。サンダースがここまでおおきくなったのはきみのおかげだよ。
 お疲れさまでした。
 ねぎらいの皮を被せたわかりやすい肩たたきは、三井を呆然とさせた。この日、とつぜん取締役に呼び出された。三井は単に、今シーズンの成績不振についてのお小言をくらうのだと思っていた。あーめんどくせわかってるっつの聞き流すのもだるい、と足取りが重かった。小会議室の前で一度咳払いをし、よそいき用の声に調子を整える。失礼します、とノックし、入室したときの取締役が妙ににこやかで、三井はその薄気味悪さにぐっと顎を引いた。そこに来て、今期のサンダースの成績の話だった。
 最初は想像通りだった。今年は負傷した選手が多かったね、離脱した選手の調子はどうかな、成績が下がったね。三井は淡々と、はい、はい、と返事をした。選手たちに問題はありません、リハビリも順調に進んでいます、彼らに責任はありません。取締役の目ではなく鼻をじっと見つめ、逸らしていない振りで言葉を繋げた。脂っぽい鼻だよな相変わらず、と内心小馬鹿にしているのはおくびにも出さず。
「さて、三井ヘッドコーチ」
 男の声音が半トーン上がる。三井は自然と瞼を起こした。取締役と、完全に目が合ってしまった。
「来シーズンに向け、サンダースのチームそのものを改変しようと思っていてね、つい先日承認が下されたんだよ」
「と、言いますと」
 三井の声色は、逆に半トーン下がる。勝負を仕かけるときと同様の、すこしひりついた声だった。
「故障した選手はもちろん、きみもね」
 え? と尋ねた気がした。ただ、それは空中に溶けたのか、三井にも自分の声が届かない。
「戦線離脱した選手は退団。きみは契約解除だ」
 三井は目を剥き、一歩前に出た。靴底と、心臓が鳴ったのが同時だった。
「ま……、待ってください! 選手に怪我はつきものでしょう、それを来シーズンどうサポートしていくかが私たちの仕事じゃないんですか!」
 思わず声が荒らいだ。小会議室の壁に、三井の声が跳ねる。
「ほう、美しいことだね。じゃあきみはチーム全体の損失はどう考えている? 補填はどうする。プロスポーツは一種のエンターテイメントじゃないのか? だからきみたちもYouTubeやSNSで広報活動するんだろう? 人気選手の離脱イコールチームの勝率低下、売上減少、人気の低迷、集客率も同様、事実チケットを無配するまでに至った。きみがどれだけアイデアを駆使したところで敗ければ意味がない。怪我をつきものにして甘く見てもらっちゃ困る、こちらは商売だ」
 とりつく島もない。正論しかなく、三井は口を閉ざして唇を噛む。
「三井ヘッドコーチ、きみは頭がいい。なにか打開できるアイデアがあれば聞くが」
 と尋ねられても、今シーズンの全試合は終了している。シーズン中、負の連鎖から脱却できる確実な策は取れなかった。外国籍選手と国内の中心選手が相次いで負傷、今季のベンチの状況はレギュレーション内ぎりぎりの人数でのゲーム。故障した外国人籍選手をインジュアリーリストに入れ、新しい選手も引き抜いた。しかしチームワークが嚙み合わないまま敗けこした。完全な采配ミスだった。
 じゃあたとえばスポーツドクターが、故障者を一度だけゲームに出場できるよう治療を施したとする。ほんのいっときだけであれば選手の状態を引き上げることはできただろう。けれど試合はこの先も続くのだ。今季だけでなく来季も。負傷した部位を庇いながら戦うのはリスクが高すぎる。
 プロスポーツはエンタメ、それは正しい。人気選手の離脱は同時にチーム全体の売上の減少に繋がる。これも正しく正解だった。そのための改変が決定事項なら、三井にはもう成すすべがない。
 拳を握りしめる。噛んでいた唇をほどくと痺れていた。鼻からゆっくり息を吸って吐き出す。
「わかりました。私の契約解除は認めます。ただ」
 取締役は不遜に首を傾げた。
「選手たちには猶予をください。今のサンダースがあるのは、彼らが積み上げた実績があればこそです。あなただって、わかっているはずだ」
 机の上だけで仕事をしているなんて言わせませんよオレは。
 気丈に振る舞うと、男は腕を組んだ。呼吸が深いのか、肩が上下するのがわかる。三井のマナーモードにしていたスマホが、ポケットのなかで震えた。ちょうど昼どきだった。

 駅前は混んでいた。混雑している生活道路を抜けると、ひと通りがおだやかになる。軽い傾斜の小道には街灯が転々とあって、じんわり薄暗かった。じょじょに日が長くなったとはいえ、ずっしり重い夜の闇はいやおうなくやって来る。三井は一度足を止め、はあー、とため息をついた。
 無職……。無職かよオレ……。
 それもあるが、プロの厳しさ、というものを目の当たりにした気がした。成績不振なら、だれだって契約解除や退団を余儀なくされる。心がまえをする暇もなく起こるのを、今はじめて実感した。これまでが、恵まれすぎていた。
 家の門扉の前に立つ。すこしの間、家全体を眺めてみる。この家を買ったときから植わっていた、桜、梅、楓。今年はここで花見もしたし、梅の木は梅の実がなった。水戸は梅の木に脚立に立てて上り、梅の実を落とした。ていねいに掃除をして、はじめて梅酒をつくった。彼の職場の先輩である、シゲさんから梅酒のつくりかたを聞いたと言って。
「亡くなった奥さんの味なんだってさ、甘さ控えめ」たしか水戸は、そう言った。
 ――三ヶ月は寝かすらしいよ。
 ――えー、来週とかにできねえの?
 ――あんた相変わらずせっかちだね。三ヶ月くらい待ちなさいよ、すぐだっつの。
 ――あーあーあー、早く飲みてえー。
 よく晴れた日の縁側にふたりで並んで座り、長い爪楊枝を使って梅の実のヘタを取った。三井はそれを庭に飛ばした。こら、と水戸から小言を受けた。
 この生活の維持、を考えた。貯金はまあまあある。生活費もローンの支払いも、おそらくとうぶんの間は賄える。ただこの先の収入、仕事、と考えたらやっぱり無職で無収入なのだった。バスケを仕事にしたかったんじゃない、バスケ以外で仕事をすることを、選択肢に入れなかった。これもきっと、変わらない。
 このままこの生活を続けたい、変えたくない。せっかくここまで来たのに。
 三井は息を吐いた。きょう何度目かわからないため息だった。早く帰りたかった。水戸がつくったご飯を食べて、安心してこの日を終えたかった。だけど帰りたくなかった。
 オレ、サンダースのヘッドコーチ契約解除されちゃったんだけど。
 そんなこと、水戸にはぜったいに言えない。言いたくない。
 門扉を抜け、飛び石の上を歩いた。途中あえて石の位置をずらして配置してあり、自然と庭が目に映るつくりにしてある。おおきな窓からはあかりが漏れていて、水戸があそこにいるがわかった。ふたりで座った縁側も眺めていた植木も、今の時間は浮かぶようにぼんやりした色彩だった。玄関を開けた。以前住んでいたマンションより広く、水戸のコンバースはすでにたたずんでいる。
 三井は靴を脱ぐが、わざと揃えない。もう、お小言を言われることもなくなった。三井が確信犯で揃えないことを、あの男はわかっているからだ。
「ただいま」
 廊下をちょっと進んで、すぐ左手の引き戸がリビングに繋がる扉だった。そこを開けると、夕食だと反射的にわかるあたたかいにおいが鼻をよぎる。新品の木のにおいも一緒に。
「おかえり」
 コンロの前で、水戸が顔を上げた。ふだん通りなにも変わっていなくて、三井はまるで突撃するように彼に近づいた。背後から体重をかけ、背中にくっつく。
「え、すげえ邪魔なんすけど」
「きょうのめしなに?」
「無視かよ邪魔だって」
 水戸は左手で三井の体を払った。相変わらず不用意に触られるのが苦手らしく、こういうときはいつも手荒い。菜箸を持っていない左手を手慰みのようにぶらぶらさせながら三井を離れさせ、ふたたびフライパンを持ち直した。
「てりやき」
「え?」
 三井が水戸を見る。
「鶏のてりやき。辛いやつ」
 あんた好きじゃなかったっけ。
 水戸の視線は三井になく、コンロにあった。そのあと、合わせ調味料をフライパンに流し込んだ。じゅわっとおいしそうな音が跳ねた。三井はリビングを見渡す。テーブル、キッチン、きっとこのあと「手を洗え」と注意される、だから洗面はキッチンの裏手にあった。三井がすぐ、キッチンで手を洗おうとするから。生活に関わるすべての音が、ここにあった。
「どうした?」
 水戸が尋ねてきて、三井は首を動かした。「なんでも」と答えると、彼は「そう」とだけ返す。
「手ぇ洗ってきなよ、もうすぐできるから」
 三井はカランを上げた。シンクに水が流れ、手のひらをかざす。
「だからさ、何回言ったらわかんの。あっち」
 ほらやっぱり。わざとだよ。
「いいじゃん、たまには」
「たまじゃねえだろ、ほぼ毎回だろ。なんのためにあそこに洗面持ってきたのかわかんねえな」
 驚くべきところじゃないのに、はっとした。この家で、もう何日も、何カ月も、一年は一緒に生活している事実を目の当たりにした気がした。
「水戸ってさ、この家の動線とか配置っつーの? ちゃんとわかってるよな」
「は? なに今さら」
「あー、いや、うん、そうなんだなーって」
 そんだけ。そう言って三井は冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。冷蔵庫は、マンションに住んでいたときと変わらない。そもそも、家電や家具はそのまま使っている。引っ越しは今回も大変だったなあ、と思い出した。三井さん荷物多い、おまえがすくなすぎんだよ、段ボール多すぎ、だからおまえがすくねえの! と、とりあえず文句だけは言うのにぜんぜん本気じゃなくて、最初から言葉遊びみたいなものだった。お互いに、ちゃんと、わかっているから。
 これからのことを。
 水戸がフライパンから皿に、てりやきを移した。鼻が自然とひくついて、うまそう、と声を漏らした。そのままにしていた缶のプルタブをやっと起こし、このにおいだけで三口ほど飲んだ。
「あんたさ、さっきからまじで邪魔。もういいから座ってなよ」
 邪魔くせえな、と水戸は舌を打った。
「おまえきょう四回はオレに邪魔だって言ってっからな!」
「すみませんね、正直者なんで」
「けーっ! こういうときだけ素直なんですね!」
 ははは、と水戸は笑い、「じぶんで装えよ」と三井に茶碗を差し出した。それから、用意した夕食を運んでいった。テーブルに夕食が並んでいく。
 鶏のてりやき(辛いやつ)、ほうれん草のごまあえ、油揚げと小松菜の煮物はきのうの残りもの。これ、二日目のほうが味が染みてて好きなんだ。
 三井はご飯を装い終えた茶碗を持ち、水戸のあとを追う。席につくと、ちょうど窓の向こうが目に入った。梅の木だった。
 ここまできた。やっと。やっとここまできたのに。
「なあ」
「ん?」
 いただきます、と水戸が手を合わせた。三井も、いただきます、とつぶやく。
「梅酒、まだ飲めねえんだっけ」
「気が早えな、まだ半月しか経ってねえだろ」
 驚いた。たったそれだけしか経っていないことに啞然とし、三井は目を見開いた。動揺が表れないよう、さっと目を伏せる。
「三ヶ月、だったっけ」
 箸を手に持つ。指の先が小刻みに揺れかけていて、箸を持ち直す振りでごまかした。
「シゲさんが、ほんとは半年くらい寝かせろっつってた」
「半年も?」
 顔を上げた。半年なんて、長すぎる。
「んな驚くことかよ」
 てりやきを口に運ぶ。おかしなもので、ちゃんとおいしいのだ。ひと口頬張り、缶に口をつける。ビールが苦くて、びっくりした。梅酒が飲みたい。
「早く飲みてえな」
「あんたはせっかちだね」
 水戸は油揚げと小松菜を箸で掬った。箸の持ちかたがきれいなので、食べものが途中で落ちることはなかった。
 三井はふたたび窓の外に目をやる。縁側、桜、楓、梅、あの縁側できっと、できあがった梅酒を飲むのだろう、早くて三ヶ月後に。
「あー、うま……。うまいなあ水戸のごはんは」
 三井はてりやきを頬張り、飲み込み、次はほうれん草のごまあえを食べる。うまい、これもほんとうに、いつだっておいしい、自分の心のありさまがどんな状態であっても。
「なんだよ急に、どうしたの」
「褒めてるだけだろうが、そのまま受け取っとけ」
「こわ、なんか裏あるだろ」
「ねえよ」
 おまえにじゃないよ、オレにあるんだよ。三ヶ月後の自分がどんな状況に置かれているかわからないなんて、口が裂けても言えない。
「早く梅酒飲みてえなってだけ」
 水戸は、そう、とつぶやいて、箸を動かした。
 たった半月前、半月前だ。梅の実をふたりで掃除しているとき、だれがこんな未来を想像した? 信じるなんて言葉を使わなくても疑いの余地がないくらい、考えもしなかった。
 あの縁側で一緒に梅酒を飲んで、ふたりで笑っている未来しか。



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