かはたれの背中

□エピローグ
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その週の土曜日、水戸は少ない荷物を纏めてマンションに戻った。三井から鍵を預かり、玄関を開ける。荷物を運びながら水戸は、室内を見渡した。その部屋は綺麗に片付いていて掃除もしてあり、洗い物も残っていなかった。窓の向こう側には晴天が広がっていて、洗濯物がベランダに干してある。それを窓越しから見付け、水戸はふっと笑った。ローテーブルが目に入り、そこにはキーケースと指輪が、これ見よがしに並んでいる。それを眺め、手に取った。随分と懐かしい気がして、これをこの部屋に置いた時自分は、ただただ無心であったことを思い出した。機械のように何の感情もなく、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。あれを三井が見付けたら、と考えることもしなかった。それをした時点で出て行くことは不可能だと思ったからだった。どう思った?などと聞く気は無かった。ただそれでも、あの時三井を酷く傷付けた。それは確かだった。一つ息を吐き、水戸はキーケースを置き、指輪はデニムのポケットに入れた。
水戸が運んだ荷物は、元々自分が収納していた場所に片付けた。そこは空いたままだった。粗方終わった所で、以前サンダースのホームゲームを観に行った時に持ち帰ったフリーペーパーが出て来た。水戸はこれを見て、ようやく笑えるようになった。離れていた時間、水戸は毎日のように三井を思った。ちゃんと食べてんの?洗濯してんの?どうしてんの?と。それを聞くことは叶わないから、代わりに彼の現実を見たのだった。こうしてここに、三井は生きているのだと。ここで生きて行く人なのだと、自分を戒めた。
ずっと使っていた灰皿を持ち、水戸はベランダへ向かった。窓を開け、ベランダに出て、いつも置いていた定位置に灰皿を置いた。煙草を一本手に取り、火を点ける。一口二口吸った所で、デニムのポケットから携帯を取り出した。電話帳から母親の名前を出し、それをしばらく眺める。あの市営アパートに水戸が住むように提案したのは、母親だった。二ヶ月前、水戸がとりあえずビジネスホテルに泊まっていた頃、母親から連絡があった。話があると言われ、水戸は彼女のスナックへ向かった。神戸行きの話だろうと聞くと、彼女は神戸へは行かないと言ったのだ。何故かと水戸は問うた。すると彼女は言ったのだ。寂しいのも悪くない、と。そして、寂しさに未練あんだよね、と言ったのだった。あんたも神戸には居ないし、と戯けるように笑う声を聞き、水戸は息を吐くように笑った。すると彼女は、付け加えた。
「あの市営アパート、いつでもあそこに帰っていいんだからね。どうせわたしは別の場所に住んでるし、ついでに掃除しといてよ」
そう言ったのだ。水戸はその時、一人であることも誰かと過去に住んでいたことも、勿論言っていない。彼女が何を思って言ったのか、今も水戸は知らないままだ。ただ、彼女から鍵を預かったので、しばらくあそこに住むことは告げたのだけれど。それに対しても彼女は、何も言わなかった。水戸はそれを思い出し、母親の名前をしばらく眺めてから通話ボタンを押した。何コールか鳴り、彼女の声がする。時間は午後三時だった。電話口の彼女の声は、酷くはっきりしていた。
「俺です」
『うん、どうしたの?』
「アパート出たから、報告」
『そう』
水戸にはずっと、後悔していることがあった。とはいえ彼女に対し、罪悪感があるわけではない。子供の頃からあまり会話をして来なかったから、元々そういった感情が湧かない。かといって、彼女を憎んでいるという訳でもなかった。許せないと思えるほどの執着もなかった。憎悪を抱くほどの熱意はない。ただ、悔いていた。あの時の赤いウィンナー、それだけはごめん。そう思った。
「あのさ、あの時ごめん」
『あの時って?』
「赤いウィンナー焼いてくれたの、ちゃんと覚えてる」
『知ってるよ』
はは、と声を出す彼女に水戸は、聞こえないように舌打ちをする。お見通しかよ、と自分の歳若さに思わず呆れた。いや違うか、彼女もそれなりに、母親でいたのかもしれない。彼女なりに。あっそ、と小さく水戸が言うと、母親は何も言わなかった。水戸は短くなった煙草を灰皿に押し付け、もう一本取り出し、火を点ける。オイルが無くなったから、ここへ来る時に買った百円ライター。それを何気無く光にかざすと、プラスチックの容器がきらきらと光る。小さな光が転々と揺れ、水戸は夜明けの海を思い出した。
「母さん俺、この先結婚しないと思う」
彼女は声を出さなかった。
「好きな人は居る。学生の頃からずっと好きだった。でも結婚はしない」
『だと思った』
水戸はまた、見透かされていると、ただ思った。
『まあ、寂しさの共有なんてするもんじゃないよ。幸せになりなさい。わたしが言えることじゃないけど』
「ごもっともで」
『ごめんね』
水戸は声を出すことはせず、かぶりを振った。それは彼女には見えないのに。
「じゃあ切るよ」
『うん、またね』
電源ボタンを押し、しばらくの間それを眺めた。すると今度はメールの着信音が鳴る。送信者は三井だった。開くとそこには「今日唐揚げ食いたい。あの時から食えないから」とあった。水戸は吹くように笑い、小さく、ごめん、と言って軽く頭を下げる。了解しました、とぼやくように呟いて、すぐに返信した。ポケットに携帯を戻すと、何かに触れる。指輪だった。それを取り出し、水戸は久々に中指に嵌める。二ヶ月以上外していたそれをまた着けると、酷く違和感を感じた。光にかざすと、やはり眩しい。不揃いな反射に、水戸は目を細める。中指に嵌る金属の冷たさが段々と消え、あの頃自分はこれを嵌めていたのだと今更ながら思い出した。
夜明けの海は朝になれば永遠にそこにあった。夜明けにそこから浮かび上がる太陽も同様だ。夜が明ければ必ず。だけれど水戸には三井に、ずっと一緒に居るなどという約束はしないし、きっと出来ない。言葉にすると、酷く陳腐なものに聞こえる。明日終わるかもしれないし、明後日終わるかもしれない。永遠にはきっと続かない。だだあの夜明けの海を見た時、終わりも始まりも三井と見ることだけは感じた。学生時代に視点も合わないまま眺めたあの背中が、ぼやけていた筈なのに月日を経て、今はそれが、はっきりと映る。瞼を閉じても開けても、鮮明に残る。あの人も俺も、もう学生じゃない。それでも。今は側に居て欲しい。
「ただいま、三井さん」
こんなに誰かを欲しいと思ったのもこんなに誰かに焦がれるのも、あの人しか居ない。
きっと、後にも先にも。





終わり


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