かはたれの背中

□エピローグ
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向かい合って食事をするのは、実に久々のことだった。優に二ヶ月は過ぎていて、水戸はどこか覚束ない感覚だった。胡座を掻いてフローリングの上に座っている筈なのに、それは酷く柔らかく、実態のない泥の上に居るような、ずぶずぶと埋もれてしまうような感覚に近かった。寝不足なせいだ、そう思った。窓の向こう側は晴天が広がっている。箸を止め、水戸はしばらく窓の外を眺めた。
海から市営アパートに歩いて戻りながら、今朝の朝食は三井が、親子丼が食いたい、と言った。が、残念ながら鶏肉は冷凍庫の中だ。無理だと返すと、じゃあ卵と玉ねぎだけでいい、と言うのだった。それ親子丼じゃねえだろ、と一応反論したのだけれど、そこは想像力だ、とまた恒例の三井節を発揮し、結局粉末出汁で簡単に親子丼ならぬ子丼を作ったのだった。水戸は特に朝食に対してこだわりは無かったし、パンでも米でも良かった。ただ、一緒に生活をしていた頃は、パンが多かったように思う。三井がパンを買っていたからだ。時々、明日は米食いたい、と言われたら米だった。そのどちらにしても、ベーコンエッグは作っていた。意外にも、米とベーコンエッグは合うのだ。もっとも、自分の弁当用に作っている卵焼きは摘み食いされることも多いのだけれど。何にせよ、目玉焼きだけだと味気ないからと、ベーコンエッグを作っていたのだ。塩気の効いた、あのベーコンエッグを水戸は、あの部屋から出て行ってから食べていなかった。自分だけの食事は酷くいい加減だと、水戸はこうして三井と久々に囲む食卓を前に、改めて実感した。
箸を止めたまま、視点がどこか合わないままで空を眺めた。やはり寝不足のせいだと、水戸は思う。どこか所在無く、箸を持っていない左手が落ち着かない様が。昨夜は寝たか寝ていないか分からなくて、明け方そのまま海まで歩き、浜辺から朝焼けを見た。酷く眩しく目に滲みるほど散らついた光の美しさを見た直後、三井の足掻きにも似た、むしろ祈りのような言葉を聞いた。水戸にはまだ、整理が付いていなかった。ただ、諦められないことを諦めてしまった。単純に水戸には、三井が今この場に居ることが嘘のように思えて仕方なかったのかもしれない。時間は六時半辺りだった。強請られて作った親子丼ならぬ子丼を前に、半分まで食べた所でまた、視界がちらちらと、転々とした眩さに襲われる。窓硝子に太陽光が反射して、思わず目を細めた。その瞬間、瞼の裏が目眩がするように散らついて揺れる。
「なあ」
「あ?何?」
三井に呼ばれ、水戸は我に返った。窓の向こう側にやっていた目を三井に向けると、その視線に思わず息を飲んだ。彼もどこか、視点が合わないような、いつものような強さがなかった。どちらかというと、定まらないような。水戸は唾を飲み込んだ。下ろしていた左手を握り、持っていた箸をテーブルの上に置いた。
「お前、今夜は帰って来んの?」
三井はいつも、水戸を見て喋る。この日も同じだった。この人はいつも、こんな風な目をしてたっけ?水戸は横目にして彼から逸らし、相変わらず自分は的外れなことを考えていると思った。
「いや、今日は。鍵もねえし」
「鍵なんてどうにでもなんだろ」
「つーかさ」
本当にいいの?水戸はその言葉を言うことはなく、結局また唾を飲み込むだけで終えた。ん?と首を傾げる三井に水戸は、いや、とかぶりを振る。そのまま目を伏せて、箸をもう一度握り直した。
「週末には荷物纏めて帰るよ」
「は?週末?おっせ!」
「仕事あんだろ?平日は無理だって」
「お前、本気でオレとやり直す気あんのかよ」
「あるよ」
即答した自分自身に、水戸はぎょっとする。顔を上げると、三井と目が合った。そのまま数秒経った。一、二、三、三井が瞬きをする。強く見詰められている訳ではなかった。どちらかというと緩慢で、夜明けの太陽より幾らも弱い、むしろ今の陽射しのような、そんなずっと暖かく甘く香る目線のように思った。
「あるんだ」
「あるよ」
「ならいいよ。今週末でも」
「信用ねえな」
ふっと息を吐くように笑うと、三井も笑った。
「じゃあ、あんたがこっちに来たら?」
水戸はそう言って、ようやく丼に手を付ける。半分ほど無くなったそれは、口に入れると冷えていた。一口、二口、三口と口に入れていると、もう器の底が見えてくる。今度は三井の手が止まった。どうした?と聞くと彼は、じゃあそうする、と返し、丼に手を付けた。食事を終えると、水戸は三井に予備の部屋の鍵を渡した。彼の方が今日の帰宅時間は早いと言うからだった。古びたリングに付いていたからそのまま渡すと、三井の視線が気になった。これ自体はあの日持ち出したリングじゃない。最初から付いていたものだ。それでも彼は思い出したのかもしれない。キーケースも指輪も、あのマンションに置いて来たからだ。三井はそれに対し、視線を寄越すだけで何も言わなかった。不意に、三井の体から嗅ぎ慣れた香りが漂った。水戸は手を伸ばしたくなる。実際伸ばした。髪を撫で、そのまま引き寄せた。口付けるとやはり、三井の体からは水戸がいつも使っているシャンプーとボディーソープの香りが漂う。それは酷く、水戸を郷愁と哀愁の入り混じった何とも言えない感情を漂わせる。三井は過去に、あのマンションに共に住んでいた頃、水戸が使っている安価なシャンプーなど使わなかった。ボディーソープは水戸とは違うものを使っていた。趣味が違ったからだ。もっとも趣味と言えど、水戸は安価なもので十分だったのだけれど。それを水戸は、出て行く際に持ち出すのを忘れていた。柄にもなく焦っていたからだ。遠征中で帰宅することはないと分かっていても、一刻も早く出て行かなければと、水戸はあの日、酷く焦慮していた。それを思い出した。
三井から香る嗅ぎ慣れた匂いは、水戸の居た堪れなさを無性に引き摺り出す。あの部屋から全てを持ち出したあの日がどの瞬間より、水戸の心も体も全てが波に飲み込ませた。ぶくぶくと沈んで、もう浮かんで来ることはないのだと最後には諦めた。出て行ってから自分の物だけを取り出す作業は呆気なくもあったし、その逆望んだことでもあった。その対になる感情が押し寄せて焦燥した。早く帰らないとあの人とまた過ごしてしまいそうになる、と。意外にも掃除の行き届いていた部屋を前に、水戸はそんなことを考えていた。
水戸は三井の髪を撫でたまま、何度も口付けた。その柔い髪をなぞり、指に絡めた。口付けながら時々鼻腔を擽る三井の髪の匂いに、水戸の背筋は疼いた。それを抑える為に唇を離すと、三井は目を伏せて笑っている。シャンプーの匂いが違う、水戸が言うと、オレもそう思ってた、と言った。もうこのまま閉じ込めてしまおうか、そんなことを考えながら、水戸は三井から手を離して仕事に行く為に足を進めたのだった。
帰宅すると、やはり三井は居た。昼休みに彼から久々にメールが届いていて、そこには「早く帰れるから何か作っとく」と書いてあった。一瞬ぎょっとしたものの、暮らしていた頃も稀にこういうことはあったから、特に気に留めることもしなかった。水戸は普段通り、了解しました、と返信をした。なので今、キッチンには良い香りが漂っている。覗くと、どうやら豚肉の生姜焼きのようだ。へえ美味そう、そう言うと彼は、美味いんだよこれが、と得意気に笑った。二ヶ月以上会わなくとも、それを上書きするように違和感無く居られるものなのか、水戸は何気に考えた。いや違う、上書きも何もない、時間が過ぎただけだった。離れた二ヶ月の間に何をしたか、解決するのは時間じゃない。その間に何をして何を考えたか、俺は何をしたのか、三井が生姜焼きを作る間に思い返してみたものの、水戸にはよく思い出せない。過去を振り返ってみても、二人で過ごした以外の時間の方が格段に多い。その筈なのに、三井と過ごさなかった日々は、ぼやけてモノクロに霞んで思い出される。節々で彼は、原色を纏った人だと水戸は思い知らされる。
久々に二人で向かい合った夕食は、今朝とは違って外はもう暗闇だった。窓が大きいせいか、夜の闇は部屋を埋め尽くしていくように感じる。灯りは点いている筈なのに、外は果てしなく広く感じた。あの窓に触れたら、また冷たくてぞっとするのだろうか、何気に考えていると、三井の声がした。なあ、と声を掛けられてそちら側を見ると、水戸は思わず目を見開いた。色が変わった、単純にそう思ったのだ。彼はそこに居るだけで、圧倒的な存在感を持っているように水戸には見えた。原色で明るく、暗闇などもろともしない、そんな強い色が見えた。一緒に暮らしていた頃は、それに息が詰まったのに。だから水戸は、言葉に詰まった。一度唾を飲み込んでから、何?と聞いたのだった。
「美味い?」
「ああ、美味いよ」
そんなこと、と水戸は思わず笑った。
「作り甲斐ねえな、ちゃんと言え」
「あんた俺が作ってた時言ってたっけ?」
「言ってたろ」
「そうだっけ?」
目の前にある生姜焼きに箸を付けて口に運び、そこでようやく、三井があまり喋っていないことに気付いた。いつもなら、ラジオのように一方的に喋るのに。
「今日どうしたの。あんま喋んねえし、飯まで作っててびっくりした」
わざと揶揄するように言うと、三井は箸を止めた。そして水戸をじっと見詰める。その様子に少しばかり訝しんだ水戸は、何?と聞いた。
「飽きたって」
「え?」
「お前飽きたっつったじゃん。だから」
その言葉に、水戸は唾を飲み込んだ。言葉が出なくて、口を開けて閉じた。違う、そう言いたいのになかなか言葉が出なくて、珍しく目線を逸らす三井を目で追った。その様が酷く愛しく、水戸は思い出したのだ。原色も霞むのだと、水戸は彼を見てそう思った。今すぐ手を伸ばすのは憚られ、水戸は箸を伸ばした。
「ごめん、違う」
「何が」
「俺の側に居て」
水戸はそう言って、生姜焼きを口の中に放り込んだ。俯いたので、三井の顔は伺えない。というよりも、とても見ることが出来なかった。美味いと最初は思った。というよりも、彼が時々作る料理が口に合わないと感じたことは今までなかった。が、今は違った。味を感じなかった。ただ口の中に放り込んで、それを噛み締めているだけだった。俺の側に居て、ただそう思った。
その日も水戸は三井を抱いた。最初に抱き締めると同じシャンプーとボディーソープの匂いが、水戸の鼻を横切った。それが段々と、肌を擦り合わせて舐めて噛む度に消えて行く。同化するように、二人の肌の匂いは化学物質を無くしていった。水戸は三井に、何度も言った。嘘だよ、と。飽きたなんてあんなの嘘だと、彼の耳元で何度も言った。好きだと告げた。飽きてなんかいないし嘘だから側に居て欲しいと告げた。三井の体を抱くと水戸は、彼と海に沈むようだと感じる。海の側のアパートで、波音も聞こえないのに、暗くてそれでも慣れた目は、この空間を群青のように捉えていた。挿入してゆっくりと緩慢に動かす度に水戸は、溶けそうなほどに熱くてもう、どちらの体も液体のように分からなくなってしまうのではないかと。そんか奇怪なことを考えた。ずぶずぶと埋もれるような体と呼吸と息遣いと、それが境界線を無くしていく。泣くように鳴く三井の声が水戸の耳の先を過ぎることだけが唯一、その線を消した。三井の体を強く抱き締め、抱き締め返される度に、水戸は三井の肌の匂いを吸い込んだ。潮の匂いはしない。三井の肌の匂いだった。この人も普通の、感情を持った俺と同じ人間なんだ。水戸はまた、的外れなことを考えた。




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