かはたれの背中

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水戸が三井を横切り、背中を見せる。それを見ていられなくて、三井は砂浜を踏んだ。スニーカーで何度も、ゆっくりと踏み直した。その砂の感触を靴越しから噛み締める。ずぶずぶと軽く埋もれるそれは、踏んでも踏んでも同じだった。砂じゃねえだろお前、砂の味しなかったよ昨日。そんな的外れなことを考えた。奪うしか出来なくてごめんってさあ、そんな感じだったろ元々最初から、昨日も全部掻っ攫うみたいな抱き方して、きっと帰ってシャワー浴びたら身体中に痕が付いてる、甘噛みみたいに可愛らしいもんじゃないし鬱血だってしてる、血だって出てるかもしれないし体だってまだ痛い、未だに怠くてよく分かんねえし手加減もクソもねえからあいつ。三井はようやく、水戸の背中をもう一度見る。少しだけ離れたそれは、朝陽を浴びてしまってもう、ぼやけてもいないしあれは誰か分からない姿でもなかった。輪郭もはっきりと見えて、寝癖だってよく分かる。少し前まではその姿を、三井は毎朝眺めていた。
元々そうじゃなかったっけ?あれは誰かなんて分からなくしてたのは自分で水戸を理解しようとしなかったのも底を見ない振りをし続けたのも自分だっただってあいつは砂じゃないし抱き締めても人の感触と匂いがあって体温は低いけど温もりもそこにあってそれが無いとオレは駄目なんだって分かったからここに居てこれが正解か不正解か決めるのは元々最初っからオレだオレが決める今際の際まで引き摺り込んでやる奪うのはオレだお前の人生めちゃくちゃにしてやる。少なくとも今、蝉は鳴いちゃいない。
三井はようやく一歩踏み出した。スニーカーには常に砂の感触があった。それはただの砂だった。右手側には海が見える。そこが妙にちりついて熱かった。掌を握る。開く。それを繰り返した。茫漠で終わりの見えない、既に明るくてきらきらと光が反射した海だ。転々と粒のような白が見えて眩しくて目を細める。卒業式の朝、三井はこの朝焼けを見た時、希望しか湧かなかった。この先にどんな未来があるのかと、どんな未来が待ち受けていてもそこに映るのは願望や望みや、明るく光輝くものしか見えなかった。だけれど今は違う。未来は見えないかもしれないし、希望も薄いかもしれない。明日のことも見えなくて、輝いてもいない。明日終わってもいい、明後日終わってもいい、一年後には側に居なくてもいい、奪い尽くされて無くなっても構わない、だから今この瞬間に全てを失うことだけは嫌だ。夜明けの太陽が美しいことを、三井はこの時ようやく、むしろ初めて知った。
「おい待てこら!」
追い掛けて水戸の腕を強く引っ張った。振り返った水戸は、目を見開いている。
「てめえ今オレを捨ててみろ地獄に引き摺り落としてやる」
水戸は三井の手を、振り払わなかった。今はきちんと、顔が見える。
「この先どこに行っても探し出して、毎週金曜日には不幸の手紙が届くようにしてやる。本気でやる。不幸になれって呪う。結婚なんてしようもんなら相手にもその家族にもオレのこと全部バラして性癖もぶち撒けてめちゃくちゃにしてやる。怖いだろ、怖いんだよ、見たくねえだろ」
何その顔、三井はそう思った。同情?憐れみ?それとも情けないとでも思ってる?お情けでも何でもいい、だってお前寂しくても縋れないだろだから代わりにオレがやってんの。口には出さず、三井は水戸の腕を掴む力を強くした。
「だからもう、見張っててよ。オレがそんなことしないように。今日も、明日も、明後日も」
しばらく互いに何も言わず、沈黙が流れた。波の音がずっと右側に聞こえ、素通りしていく。夜明け前はとっくに過ぎて、空は見上げなくとも晴れていた。砂から熱が反射して、顔に掛かるのが分かる。その時水戸が目を伏せ、口を開いて小さく何かを言った。ただ三井には、それが何を言っているのかは分からなかった。
「結局俺は、あんたにはいつも負ける。敵わねえ」
「え?」
「帰ろうか。腹減ったろ」
そう言うと水戸は、三井の手をゆっくりと外した。帰るって?その言葉を反芻するも、水戸は笑うだけだった。そして彼は、三井に手を差し出した。はい、と言われたのだけれど理解が出来ず、瞬きをする。
「繋ぐの、嫌?誰も居ねえし、いいだろ」
その言葉にぎょっとして、けれども三井はかぶりを振った。外で手を繋ぐなどはっきり言って自殺行為に近い。それでも三井な構わず、むしろ喉を詰まらせるほど腹の底が震えた。が、確かに三井は手を差し出すのを躊躇った。一瞬躊躇したのは、誰かに見付かったらという恐怖心からではなかった。この手を本当に掴めるのかと、それが怖かった。去ろうとした背中が立ち止まったのは情に絆されたからか、それとも違うのか。すると水戸の方から、構わず強く三井の手を取った。
「ブザービーターで合ってんの?」
「はは、そうだよ」
「嘘じゃねえよな?」
今度は水戸がかぶりを振った。そして、散歩する?と言う。三井はただ、頷くだけだった。
「三井コーチには参った。俺がどうしても駄目な所に上手く突いてくる」
「凄えだろ、オレ」
「好きだよ、自分じゃどうにもならないくらい」
三井は足を止めた。卒業式の朝、同じような言葉を言われたことを思い出した。けれども今は、全く違う。どうにもならない、それに三井は、喉も体も足も、全てが詰まる。堪らなくなる。痛みに似た歓喜を、同じように分け隔てなく三井に与えるのは、後にも先にも水戸しか居なかった。
「さっき、何て言った?」
「は?」
「オレが見張ってろって言った後、小さく何か言ったろ?聞こえなかった」
「ああ、あれね」
水戸がまた歩き出したのを合図に、三井も同じような歩幅で歩いた。足元にはずっと、砂の感触が残っている。
「お母さんごめんなさい、俺はこの人を諦められませんって言ったの」
「は?何それ」
「内緒」
「言ってんじゃん、もう」
「はは、そうだね」
笑う水戸の横顔は、歯を見せて酷く幼く、子供のように笑った。
「なあ」
「ん?」
「お前、砂じゃねえよ」
今度は水戸が立ち止まる。ぎょっとしているようにも見えたし、そうでないようにも見えた。きっとこの先も、この男のことは分からないことも知らないことも多い。でもそれでも、今この瞬間を同じように味わえるのは自分だけだと、三井は自負していた。
「お前は砂じゃない」
もう一度言うと、今度は柔く笑った。そして、何食う?とりあえずシャワー浴びる、今日仕事だ面倒くせえ、そんなくだらない話をしながらまた歩いた。これがいつまで続くのか、明日か明後日か明々後日か、それともこのまま続くのか。それは誰にも分からない。それでも良かった。終わってもいい。正解か不正解かが分からなくてもいい。今知らなくてもいい。
きっと死ぬまでには、いつか分かる。





終わり


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