かはたれの背中

□7
2ページ/2ページ


三井は今、街灯もあまりない閑散とした場所に立っていた。久々にも程があるそこは、十一年前とまるで変わっていない。人は住んでいるだろうに静かで、音がほとんどしなかった。三井が階段を上る度、コンクリートとスニーカーに擦れる音がする。それだけが唯一聞こえる音だった。壁に反響して響いて、不気味にすら思えた。変わっていないと思っていたのだけれど、壁のヒビが増えたように思う。当然だった。あれからもう、十一年も過ぎている。一歩一歩進む度、三井は何故か過去の記憶が脳裏を過った。ここには最初から、思い出が多過ぎる。
『昔住んでた市営アパート、覚えてるだろ?あそこに居る。電話入れといてやるよ。居なかったら困るだろ』
野間から特に連絡もなかったから、水戸は多分ここに居るのだろう。三井はタクシーでこの場所に着いた時、海だけは見ることが出来なかった。背後にその音を、聞くことさえ耳を塞いでしまいたかった。思えば水戸と三井は、始まりから終わりを見据えていたようなものだった。明日終わる明後日終わる明々後日終わる、ああ一日伸びた二日伸びた、そんなぎりぎりの淵に立って歩いていた。それが段々と、淵から普通の道に戻ったような気がしていて、そのまま進んだ。結局それは、気がしていただけだった。だから三井は、海だけは見ることが出来ずにいた。結局、どれだけ欲しがろうと体を繋げても、自分と他人であることは変わらない。同情と環境の違いに胡座を掻いていただけだった。
三階の角部屋、その玄関の前で三井は立ち止まった。同情はしてる、そう思った。して何が悪い。優越感だって抱いてる、それが何?三井はこの玄関のインターホンを押す前、高校時代はいつも躊躇っていたことを思い出した。拒絶されるのが怖かったからだ。それでも息を吸って吐いて、愛想無く水戸が出て来るのを待っていた。だって生きて来た環境が違い過ぎる。綺麗事なんてクソ喰らえだ。それを盾に三井は、水戸が三井を捨てない言葉を選んで来た。でもそうじゃない。違った。計算や狡さも全部捨てて取っ払って何が残る。
オレが水戸じゃなきゃ駄目だった。水戸がいい。水戸が居なきゃ駄目だ。唐揚げは二度と食べられないしビールも飲みたくならない、生活なんてどうってことないやれば出来るでも違う。水戸が居なきゃ駄目だ。誰でもなくオレが。
三井はインターホンを鳴らした。これを押した時三井は、未だにこの感触を覚えていることを知った。水戸は出て来る。確信はあった。彼はきっと、玄関の外に立っているのを、自分の親友だと思っている。案の定、すぐにドアが開いた。開いたのを確認した直後、三井は玄関の向こう側に手を差し込んだ。足を踏み入れた。水戸が対処する前に、彼のテリトリーに踏み込んだ。そして内鍵を掛ける。そこでようやく目線を動かすと、上目にした時に水戸と目が合った。
「何であんたが」
「やっと会えた」
「帰れ」
「嫌だ!」
三井はスニーカーを脱ぎ、玄関を上がった。この廊下に足を踏み入れるのもいつ振りだろうか。それも今はどうでもいい。無理矢理上がり込んで、水戸に近寄った。彼は三井を睨み上げ、無言の圧力を掛けた。そこに満ちているのは間違いなく怒りで、焦燥も見えた。感情を露わにしている、そう思った。
水戸は背中を向け、リビングの方に向かった。三井も黙ったままそれに付いて行くと、ドアの向こう側には郷愁を誘う景色があった。大きな窓から見える広いベランダ、古びたキッチンに炬燵、テレビがあって、仕切り戸は開きっぱなしだ。開かれた部屋には昔、水戸が住んでいた頃にはベッドがあった。それが今は、マットが敷いてあるだけだった。何処となく居心地が無さそうに敷かれてあるそれは、掛かっている布団すらおざなりだった。
水戸は煙草に火を点けた。昔から吸っている赤と白のボックスが特徴的なマルボロで、三井は過去、マルボロって読むの?と聞いたことがあった。煙草になどまるで興味を抱かなかったからだ。彼が変わらないものを吸う度、三井はそこに惹かれた。こいつの中に変わらないものがあるのだと、そう思ったからだった。茶色いフィルターを口に咥え、吸い込む時に少しだけ目を伏せる。それも変わらなかった。水戸は、あの広いベランダで煙草を吸わなかった。思えば外に出てベランダでそれに火を点けるのは、二人で暮らしたあの場所だけだった。二人は立ったまま、何の言葉も交わさなかった。沈黙が流れる中、三井は煙る白を追った。この香りを嗅ぐのも久々だと、今この緊迫する状況の中で的外れなことを考えた。事実、三井はさほど、焦りも緊張もしていなかった。しばらくして、水戸が煙草を灰皿に押し付ける。
「忠だな。あんたにここを教えたのは」
「そうだよ」
「ご丁寧に居るかどうか連絡あったから」
「連携プレーだよ」
「はっ、ご苦労なこった」
水戸は三井に向き直し、三井からは目を逸らしていた。そして、冷笑して息を吐いた。
「あんたもしつけえな、職場の次はここかよ」
「諦め悪いんで」
三井が言うと、水戸は静かに三井に近寄り、胸倉を掴んだ。そのまま体を壁に叩き付け、コートの首元を捻るように締める。彼は腕で三井の首を押さえ、壁と三井の体に体重を掛けた。喉に急激な圧迫感が襲った。息は出来た。吸って吐いて、あ、と声を出すことも出来た。ただ、喉元が酷く苦しく、自然と唸る。
「いっそ殺すか」
見上げる水戸の瞳は、真っ黒だった。段々と力の籠もる水戸の腕に、三井は歯を食い縛る。その中で三井はその瞳を見詰め、奥を探った。激情が映るのかと、そう思っていた。けれども違った。酷く静寂で、深海に居るようだと思った。夜明けの海、暗くて群青色の。その中に水戸は、この背を投げ出すのか、三井は何故かそんなことを考えた。あの日三井に背中だけを見せて去ったのが、彼は誰なのか見当も付かなかった。ぼんやりと暗く、群青色さえ真っ暗闇に覆われる。飲み込まれる、三井はそう思った。もう一度大きく息を吸った。喉がひゅっと鳴る。気管が狭まっているのが分かる。息苦しい。締められる力が強くなる。あれは誰か、あれは誰か。
三井はもう一度、水戸の瞳を見た。真っ暗闇の中を泳ぐのは一人か二人か、そこには三井が映っている。三井は喉元にある水戸の手を掴んだ。力を込め、それを外そうとする。馬鹿力め、そう思った。ただ多少緩くなる。三井はまた息を吸った。思い切り吸い込み、吐き出すと同時に声を出した。
「殺せ!そんでお前も後から死ね!一人で生きるなんてそんな真似しやがったらオレがお前をぶっ殺す!」
三井は水戸の体を押し、着ているパーカーを掴んだ。その体を投げ飛ばしたいと思った。けれどそれは叶わず、水戸の体を掴むしか出来なかった。掴んで次は三井が水戸を壁に押し付ける。
「早くやれ!殺せ!出来ねえなら先にオレがやってやる、どうせお前が居なけりゃオレは死んだようなもんだ!」
水戸は何も言わなかった。ただ三井を見上げていた。水戸の目が揺らいだ。微かに動揺が見えた。このままこの細い首へし折ってやる、物騒なことを考えながら、水戸の首に手を掛けた。ぐっと力を込めると、水戸の体温が掌から伝わる。その時、水戸が微かに微笑んだのが見えた。同時に、この場所から始まったことも思い出した。終わることだけを考えていた十代の自分を。それが今、ここまで来た。目の裏をひっくり返した所でこの男の過去も未来も今現在でさえ、男の本性も本質も自分は何も知らないと打ちのめされて来た。でもそれでも、楽しかった日々も笑い合った日々も勿論あって、数え切れないほどあった。過ごす日々が多くなればなるほど。だから今は、今なら変われる。
水戸は三井の手首を掴んだ。その力は添える程度しかなく、それでも三井は首を絞める手を緩めてしまう。どちらともなく近寄ったものの、先に口付けたのは水戸だった。何度も触れるだけのキスを交わしながら、こうして自分は殺されるのだと気付いた。
「殺してやりたい。あんたを殺して埋めて、誰にも近付けさせないようにしたい。憎ったらしい。全部持ってやがる。顔も見たくねえ。目障りだ。夢にまで出て来るあんたがムカついてしょうがねえ」
何それ、三井は口を噤んだ。離れていく唇を追いながら、三井は思う。
「お前のそういうのは、全部愛してるって言ってんのと同じだ」
三井は腕を下ろし、淡々と言葉を発した。それしかなかった。他に何もない。
バレたか、小さく聞こえた気がして、え?と問うたかどうかも分からない。直後に腕を引っ張られたからだ。酷く強い力で、三井は体ごとつんのめった。覚束なくなる足も放り投げたまま、身体中が波に飲み込まれるのを想像する。水戸と泳ぐ夜明けの海はどんなものかと、奪われたまま考えた。





8へ続く


前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ