かはたれの背中

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三月に入ったばかりの日曜のことだった。遠征から帰宅した三井は、一つ息を吐いた。それは、玄関を開けると真っ暗な部屋に対してだった。ただいま、それでもぼそりと呟いてしまう自分に一瞬嫌気が差した。短い廊下は暗く、灯りを点けても物寂しかった。靴を脱ぎ、廊下を一歩踏み出した。フローリングが冷え冷えとしていて、殊更に三井の心情を重くした。
リビングのドアを開け、また灯りを点ける。エアコンのスイッチを入れておき、室内を暖める。一人で生活を始めて、もう二ヶ月が過ぎた。大楠から危惧されていた家賃も毎月末に必ず引き落とされていて、意外にも家事さえ滞りなく済んでいた。人間やれば出来るもんだ、三井は自虐的にすら捉えながら、パッキングされた荷物を片付ける為に寝室へ入った。この部屋も酷く室温が下がっていて、一人きりで過ごす部屋は何故こんなにも気温の差異を感じるのか、未だに分からなかった。最初に部屋着に着替えた。上下スウェットだ。寒い室内で荷物を解き、洗濯するものとしないものと仕分けた。いつの頃からか水戸への土産物を買わなくなる。どこかで、帰って来ないことを知っていたからだった。洗濯する、しない、これは洗面所、そうやって仕分けをしていた所で、今日はビールも開けていなかったと今更知った。遠征から帰宅すると水戸が作った食事とビール、それが定番になっていて、あれがないとビールさえ開けないのだった。それに気付いたのもいつか思い出せない。帰宅する前に適当に済ませた定食も、出された水しか飲まなかった。開けっ放しにしてある寝室のドアから、冷えた風が通り過ぎる。胡座をかいて仕分けをしていたから、足元が冷たかった。まあいいや適当で、そう思った。時間はまだ早い方で、午後八時半を回った所だった。今日は新潟で、日曜のゲームは開始時間も早いことが多い。この時間には帰宅している。もっとも、こんなに早く帰宅した所でやることがなかった。
三井は立ち上がり、洗濯するものを纏めて両手に持った。開けっ放しの寝室のドアを素通りしてリビングを抜け、洗面所に向かった。洗濯機に洗濯物を入れてから気付いた。最近この部屋で、声を出していないと。一人暮らしなんてこんなもんか、三井はふっと息を吐いて、自嘲気味に笑った。水戸にはあれから、一度だけ電話を掛けた。あれが当て付けだというのなら、せめてもう一度、面倒そうに遇らってくれて構わないからとコール音を鳴らした。しかしそれは、呆気なく不在に終わる。当然折り返しもなかった。徹底してる、ただそう思った。その時、三井の携帯が鳴った。水戸?いやいや、三井はまた、嘲るように息を吐いた。そのくせ少しだけ慌てるように急いで携帯の場所を確認した。スウェットのポケットに入れてある携帯を取り出すと、そこには「母」とあった。うわ出たくねえ、そう思った。けれど、これで出なかったとしてまたしつこく鳴らされても尚のこと困る。三井はまた息を吐き、通話ボタンを押した。
「もしもし。何?」
『久しぶりね。元気だった?』
「うん、まあ。えーっと、何?何かあった?」
三井は洗面所から出て、リビングに戻りながら、彼女に問うた。またどうせくだらない話だ、そう思った。聞き流せばいいと、三井は冷蔵庫に向かい、扉を開ける。普段あまり飲まないからか、まだ残ったままの缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。母は未だに声を出さなかった。
「なあ、何なの?」
『あのね、少し前に、試合観に行ったの。お父さんと』
「は?」
何の話かと思ったら試合と来た。とはいえ、両親から今まで、三井の仕事振りを見ただとかサンダースのゲームを観に来たという話は初めてだったのだ。だから、少なからず驚いてはいた。が、所詮三井にとってはくだらない話としか思えなかった。どうせこの後、世間体云々の話をされるに違いないからだ。そんな心配ご無用ですよ、と先に言ってやりたくなる。唾を吐きながら。
『あなた凄いのね。私、バスケのルールもあんまり知らないんだけど、お父さんは案外知ってて。テレビ見たりしてたのね、きっと。普段のあなたと全然違って、あんな大勢の前で挨拶したり』
「一応それでメシ食ってんだから、それくらいするでしょ」
と、言いつつ、父親がバスケットのルールを知っているというのには若干驚いている。何しろ彼と、学生時代からその話はしたことがなかったからだ。酷く口数の少ない父だった。そして過去、実家に寄り付かなかった高校時代にはよく殴られたものだった。三井には、そのイメージしか無い。
「つーかさ、観に来るなら言いなよ。チケットくらい幾らでも取ったのに」
『内緒で行きたくて』
電話口で笑う彼女の声を聞きながら、今バレたら内緒でも何でもねえだろ、と思う。三井は呆れるように、母に釣られて笑った。
『……水戸くんの、言った通りだった』
が、続く彼女の言葉を聞いて、三井は絶句した。唾を飲み、手元にあるビールを飲み、無理矢理飲み込み、平常心を保った。
「何でそこで、水戸の名前が出んの?」
辛うじて出た声は、上擦っていなかっただろうか。それだけが気掛かりだった。
『水戸くんから言われたの。仕事してるあなたを見たことがあるかって。無いって言ったら凄く格好いいんだって言ってたのよ。だから観に行った方がいいって、言ってくれて』
それでお父さんと、そう言った彼女の声は、少しだけ小さかった。そして言葉が進んで行くに連れ、歯切れも悪くなる。内緒、というワードも含め、何か小さな疚しさを彼女から感じた時、三井はただ、ああそうか、と思った。けれども、彼女を批難する気にはなれなかった。理由は分からない。当然だと思ったのだ。三井は自分でさえ、疚しさや罪悪感や、抱え切れない何かを水戸に対して抱いていて、だから苦しかった。息が出来ない、詰まる、と。それを無理矢理、水面から口だけを出してぱくぱくと、辛うじて呼吸をしているだけだった。
けれどそれ以上に、水戸が三井を。そんな自分の呼吸の仕方なんて三井が勝手に決めたことだった。勝手に追い込んだだけだ。そうじゃなかった。水戸は三井の母に、バスケットに生きる三井を見せたいと思ったのか。知らない。本人は何も言わなかった。三井は聞いていない。当然だった。水戸は逐一言葉にはしないし、本心なんて丸ごとひた隠すような男だった。
「いつ話したの?」
『去年』
「そう」
いつまでもそうしてオレに背中ばかり向ける。三井はまた、あの時最後に見た背中を思い出した。あの時どんな色の服を着ていたかも何色の景色だったかも、ぼんやりとしか思い出せない。
『同情なら止めときなさい』
「え?」
『他人の人生に同情して生きるなんて、水戸くんの境遇は彼のものでしかないのよ?』
同じような言葉を、確か水戸の祖母から聞いた。同情しているのか、と。当時三井は、他人の人生に同情出来るほど長く生きていない、確かそう返答したのだ。それが本心だった。けれど水戸の過去の話を聞き、それは彼本人でさえ知り得ない内容だと想像すると尚更、後になればなるほど別の感情が湧き上がった。こいつはオレが幸せにする、むしろこいつを幸せに出来るのはオレ、何故なら水戸でさえ知り得ないことを知っているから分かっているから、三井はそうして優越感を得た。彼の境遇を身内以外では自分しか知らないという優越と「そんな水戸を守らなきゃいけない」という、最早同情だ。
「そうかもね」
三井が言うと、彼女は沈黙した。会話が数秒止まる。三井は息を吸った。あの頃とは確かに違う。変わってしまった。訳もなく満ちていた自信も無ければ確信も無い。これが正解か不正解かも。その中でたった一つ、変わらないものがある。
「ごめん。やっぱりオレ、親父と母さんが思う人生は生きられない」
これだけは何を差し置いても、十一年経った今も変わらない。
『悪いと思ってるから謝るの?』
「違う」
『じゃあ何に?』
「悪いと思えないから。多分この先も」
『……そう』
じゃあまたね、母は特に感情を露わにした様子も無く、通話を切った。三井も同じように、通話を終える。そして、行かないと、ただそう思ったのだった。財布、携帯、ああ上着、未だに開けっ放しのドアもそのままに、適当にコートを羽織った。上下スウェットだけれど、もうどうでも良かった。とにかく早く、会いに行かないと。三井の頭にはそれしか無かった。キッチンには八割方残っている缶ビールが置いてあった。それも今はどうでもいい。リビングを出て、玄関でスニーカーを履いた。キーケースを手に取り、玄関のドアを開け、鍵を締める。そこでようやく気付いた。行き先知らねえ、三井は愕然とする。が、すぐに思い直した。
誰だ、誰がいい。三井はスウェットのポケットから携帯を取り出し、電話帳から名前を探した。大楠、は駄目だ。あいつは教えない。桜木、はもっと駄目だ。水戸が三井に伝えていないことを、確実に彼は言わない。そうだヒゲ、三井は野間の名前を出し、躊躇することなく通話ボタンを押した。出なければ何度でも掛ける、そう決めた。するとすぐに、野間は電話口に出た。はいはい、と間延びした声で、彼のマイペースさがよく表れている。
「オレ。久し振り」
『うん、どうした?』
「水戸の居場所教えてくれ」
『教えたらあんたどうすんの?』
「知らねえよ。そんなもんオレと水戸が決める」
三井が言うと、野間は笑った。豪快に笑われたと同時に、三井は歩き始めた。急に風が吹き、肩を竦める。携帯を持っていない左手は、コートのポケットに突っ込んだ。ウールのダッフルコートは、酷く暖かい。
『いいぜ、教えてやるよ』
「やけに簡単だな」
『そりゃあよ、本気なら協力したいだろ。俺は別に、あんたらが地獄に落ちたって構やしねえんだ。それで満足なんだろ?』
エレベーターのボタンを押し、すぐに開いたドアに入った。一階のボタンを押すと、閉じるドアの時間すら惜しくなる。
「地獄に落ちる気はねえな。負け戦はしない主義だ」
『上等』
一階に着いたエレベーターは、小さく音を鳴らした。エントランスホールを抜け、三井は外に出る。電車に乗る時間すら惜しかった。タクシーは走っていないかと、三井は辺りを見渡した。
『洋平は今、あんたもよく知ってる場所に居る』
「え?」
運がいいのか、左側からタクシーが走って来る。野間から水戸の居場所を聞いてすぐ、三井はタクシーを止める為に左手を挙げた。




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