かはたれの背中

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翌日の月曜日の夜、午後八時頃に三井は、水戸の職場である永瀬モーターに来ていた。一晩考えた所で答えなど出ないし、それ以前に酩酊した脳で考えても無駄だった。表だろうと裏だろうと、水戸の真意は結局分からなくて三井自身も未だに、何が正解なのかは分からなかった。ただ朝は起きて昼から仕事をした。無鉄砲に考えてここに居る訳ではなかった。とにかく会いたいと、それだけだった。
永瀬モーターの駐車場にあるのは水戸の車だけだった。事務所も明るい。三井の足は竦んだ。前に進むことは難しく、心臓が驚くほど跳ねた。どくどくと耳の先にうるさいほど突いて、当たっている筈の冷えた風は、まるで温度を感じなかった。あそこに水戸が居る、三井は口を開けた。水戸、そう言いたかった。代わりに二月の風が口の中に入り込み、喉がひゅっと鳴った。声を出すことは叶わず、風の温度を知った。水戸があのマンションから出て行ってもう、二ヶ月近く経つことを目の当たりにする。ほぼ毎日顔を合わせていたのに、もうずっと見ていないのだ。五年間会わなくて再会したあの時は、不意を突かれたようなものだった。それと今は全く質が違う。三井は自ら、足を踏み入れようとしていた。だから今、酷く動揺していた。
その時だった。事務所が暗くなり、ドアが開いた。そこから出て来たのは、水戸ともう一人居る。目を凝らさずとも、それが誰かすぐに分かった。永瀬モーターの経理の女性だった。飽きた、水戸の言葉が脳裏を過ぎり、三井は唾を飲み込んだ。何度飲み込んでも、三井の心臓の音は治らなかった。二人は何か、会話をしているようだった。ぼそぼそと何かが聞こえるけれど、はっきりとは聞こえない。歯を食い縛り、その場を去ろうとした。それも出来なかった。沸々と何か、血がのぼる感覚があった。足の爪先から騒ついて、終いには頭が締め付けられた。凄え腹立つ、三井が今考えていることはそれだった。
「あ、三井コーチ」
女性の声がした。その声に、水戸は首を動かす。目が合った水戸は、目を開いていた。三井は遺恨にも似た深い怒りと嫉妬と、小汚い何か色々なものが入り混じったまま、歩き出した。一歩も足が出ないなど馬鹿馬鹿しくなるほど、すんなりと動く。二人に近付いた三井は二人を見下ろし、よう、と低く声を出した。
「遥さん、車乗っといてください。送ります」
水戸は車の鍵を開け、彼女を助手席に乗るように施す。彼女は、え?と問うものの、助手席を開けてそこに乗り、ドアを閉めた。
「ちょっと来て」
水戸は三井と、その場から少しだけ距離を取るように歩いた。デニムのポケットに手を入れ、掌さえ三井に見せようとはしなかった。車の鍵を開ける時にちらりと見えた鍵の束には、勿論キーケースは無い。三井は眉を顰め、一瞬目を閉じた。口を噤んでも、それは幻でも何でもなかった。
「何の用?」
「え?」
「顔も見たくないっつったろ。そのツラ見せんな」
水戸の目は未だに三井を見なかった。それでも三井は水戸を見下ろし、その姿形を確認した。そりゃねえだろ、そう思った。飽きた、そう言った水戸。マンションの契約者を変更させた水戸、何も言わずに自分の物を全て持ち去った水戸。それでもシャンプーとボディソープは忘れていたのか、そのままにしておいた水戸。今きっとその匂いを嗅いでも、あの頃の香りじゃない。三井は何となくそう思った。
「お前、オレのこと飽きたの」
「そうだっつったろ」
「顔も見たくないんだっけ」
「そうだよ。何度も言わせんじゃねえよ面倒くせえな」
「あの女と付き合ってんの?」
「は?」
そう言うと水戸は、ようやく三井を見た。睨み付けるように見上げ、口は閉じている。そのまま数秒、対峙するように互いに見据え合った。何も言わずただ睨み合い、三井は水戸の髪が風で揺れるのを見た。ふと香る匂いが、水戸の煙草の匂いだった。それを嗅いだ瞬間、三井は指先が動いた。その手を伸ばしてしまいたくなった。けれどもそれは憚られた。ぐっと握り、三井はその衝動を抑えた。
「もういい?話は済んだろ」
「え?」
「職場まで来られると困る」
「じゃあどうすりゃいいの」
「忘れてもらえたらそれでいい。じゃあ」
踵を返し、水戸は自分の車の元へ向かった。あそこには、いつも三井が乗っていた筈の席には、今は別の人間が座っている。感じていた筈の怒りは、今はどこへ消えたのか分からないほど冷めていた。その場で掌を握っては開き、開いては握った。はあ、と息を吐いてから、三井は永瀬モーターを去った。息が白くて、ようやく寒さを知った気がした。忘れてもらえたらそれでいいんだって、三井は誰に言うでもなく、頭の中で独り言のように呟いた。諦めるしかねえじゃん、なあ?また同じように、頭の中で独り言を繰り返した。にこりともしない、呆れもしない、寧ろ拒絶に近い間合いの取られ方に三井は、昨夜辛うじて持っていた願望や、愛情の裏返しであって欲しいという欲求が、呆気なく無くなった。絶望というよりも、納得が近かった。変なの、足が駅に向かう。そう思った。誰も居ないあそこに結局、三井は帰ろうとしていた。
「三井コーチ!」
その声にぎょっとして振り返ると、最も会いたくない人が、三井を追い掛けて走っている。ヒールの音が、酷く耳障りだった。追い掛けて来る彼女を見ると、緩めのチェスターコートにニットとデニムという、カジュアルな服装をしている。
「駅まで一緒にいいですか?」
嫌だよ、そう言いたいけれど三井は、どうぞ、と返していた。しばらく無言で、酷く居心地の悪い空気を感じていた。見下ろすと彼女は、特にそんな様子も見せない。釈然としなくて、三井は声を出した。
「あの」
「はい」
「あー、水戸に送って貰わなくて良かったんですか?」
そう言うと彼女は、足を止める。そして三井を見上げ、瞬きをした。かと思うと、口元を緩ませる。
「送って貰った方が良かったですか?」
「は?」
「わたし最近、残業任されるようになったんです。水戸さん一人じゃ大変だし」
彼女の言い様に、三井は舌打ちをしたくなった。無性に苛ついて、何も知らない彼女を詰りたくなった。あんたはいいよな女だし誰にも迷惑掛けない、そうだろ?と。
「あんた、何が言いたいんだよ」
「そんなの、あなたが一番分かってるんじゃないですか?」
今度は、三井の足が止まる。この女どこまで知って、そう思った。
「言わせてもらいますけど、水戸さんのあんなの、あなたに対するただの当て付けでしょ?」
「どういう意味だよ」
「三井コーチって意外と、思慮が浅いんですね」
くすくすと笑う彼女は、また歩き出した。三井も同じように歩いていると、更に居心地が悪くて所在無い指先は、自然と頭を掻いている。思慮が浅いってふざけんなよてめえ、そう言いたいのに彼女には何故か言えなかった。女性ということもあるし、それ以上に何をどこまで知っているのか分からなかったからだ。けれどもその不可解な言動を越えて、どこか説得力のある言葉に、三井は返す言葉がなかった。
三井の耳には、未だにヒールの音が響いていた。ゆっくりと単調に、通り過ぎた。淡々と過ぎる女性特有のそれは、三井の頭を妙にクリアにさせた。あれが当て付け?その割には態度が冷た過ぎる、状況を冷静に考えれば考えるほど三井は、クリアになるほど道が開けなかった。真横を過ぎて行く人も当然居て、駅周辺に近付くにつれ、段々と多くなる。喧騒を間近に感じながら、この焦燥とも傍観とも似つかわない何か言いようもない感情も、何処かへ流れてしまうのか、と思う。三井と彼女は結局その後に会話をすること無く、駅前まで辿り着いた。
「ありがとうございました。ここまで」
「いや別に」
「わたしと歩くなんて嫌だったでしょ?」
「は?」
ぎょっとして彼女を見ると、また彼女は笑っていた。あはは、と歯を見せて転がるように声を出した。そして、三井コーチ、と言った。三井は彼女を見下ろし、返事をする代わりに瞬きをする。
「他人を介さないと確認出来ない愛情なんてやめちまえってわたしは思ってるんですけど」
「いちいち腹立つこと言いますね」
「はは。でもあなたは、介入されないと分からないんですか?違うんじゃないかってわたしは思ってるんですけど」
駅前で、周辺は酷く騒がしかった。雑多な声と足音と硬質な空気が余計に、周囲の声を際立たせた。ざわざわと動く人と声と、動きが妙にはっきりと映る。三井はまた、唾を飲み込んだ。
「ちょっと意地悪し過ぎちゃったかな」
「前に水戸が、あんたのこと苦手だって言ってました。ようやく分かった気がする。オレも苦手だ、あんたみたいな女は」
「それは光栄です。今日はありがとう」
おやすみなさい、彼女はそう言うと、雑踏の中に消えた。ちょうど混雑する時間帯なのか、構内は行き交う人が多いように感じる。三井は駅に入ることはせず、壁に凭れる。そこから街並みを見て、街灯や車のライト、停車したバス、タクシー、それらを眺めた。過ぎ行く街並みは、どこまでも続く。水戸はあの後、どこに帰宅したのだろう。今の三井には、それすら分からなかった。何のシャンプーで髪を洗っていて、どんなボディソープを使うのか。風呂上がりの香りも知らない。分かるのは、煙草の匂いが変わらなかったことだけだ。
あーあ、また誰に言うでもなく、三井はそう思った。





7へ続く


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